お寺さんぽ Ver.03

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欲望渦巻く天皇家 (保元の乱、平治の乱)3

2008年12月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。


平安時代末期。
京から東へ下った「源義朝(みなもとの・よしとも)」は鎌倉の亀谷に館を構えて勢力を拡大させておりました。
そちらを引き継いだ嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」は父に負けない武勇を発揮し、上野国の叔父「源義賢」らを見事に討ち取り、”悪源太(あくげんた)”という異名を得たのでした。

久寿二年(1155)
「保元の乱」の前年のことです。
(※ここはややこしいので、↓下記・略系図を眺めながら読むのがいいと思います)

「鳥羽院(※写真)」は美女「待賢門院(たいけんもんいん:藤原璋子)」との間に「崇徳天皇(すとく・てんのう)」を儲けていました。
(※ちなみに、「崇徳天皇」は”実は「白河院」との子である”という、あやしげな噂があり、「鳥羽院」はことさら彼を嫌っていたという説があります)

彼は影響力を発揮した「白河院」によって、「崇徳天皇」へ譲位させられました。
しかし、ほどなくして没した「白河院」に代わって実権を握ると、今度は「崇徳天皇」の周囲は厳しくなり、ついに「鳥羽院」によって退位させられてしまうのでした。

こうして「鳥羽院」は”類まれな美貌の持ち主”と伝わる「美福門院(びふくもんいん:藤原得子)」との子「近衛天皇」を即位させるのです。
その「近衛天皇」ですが、わずか十七歳にして亡くなってしまいました。
この予想外な早世を切っ掛けとして、権力に魅入られた者たちがわさわさと騒ぎ出すのです


【 おまけ 天皇 略系図 (※↓:子、-:兄弟) 】

 白河(72)
  ↓
 堀河(73)
  ↓
鳥羽(74)
  ↓
崇徳(75)--後白河(77)-近衛(76)
  ↓         ↓
 重仁親王   二条(78)-以仁王-高倉(80)
             ↓            ↓
           六条(79)        安徳(81)-後鳥羽(82)
        


さて、亡くなった「近衛天皇」はまだ子供がおりません。
先代「崇徳院」としては、当然ながら我が子「重仁親王」への即位を望んでおりました。
また、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らが養育していた「守仁親王(二条天皇)」を天皇に…、と強く推していました。

しかし、「後白河天皇」の乳父「藤原道憲」は摂関家「藤原忠通」と共に彼を強く推し、結果「待賢門院」との間に生まれていた「後白河」が即位たのです。

無理やりに退位させられた上、息子を即位させられなかった「崇徳院」としては面白い訳がありません。
このため、崇徳・後白河という2人は兄弟ながら反目しあうこととなってしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「二派に分裂した朝廷・源平」(4/10)


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※結局、天皇家も武士も、勢力というのは内部分裂から崩壊していくんですねー。
 譲り合いの精神が大切です。



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