のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。
永禄七年(1564)
養子「三好義継」は三好三人衆の後見を得て、家督を相続しました。
その翌年、三人衆と「松永久秀」は将軍「足利義輝」を襲い、なんとこれを自害させたのです。
とりあえずは三人衆と歩調を合わせていた久秀ですが、次第に対立。
兵力に勝る三人衆は久秀勢を各地で撃破し、ついに多聞山城を包囲するんですが…。
永禄十年(1567)
占拠していた、東大寺・大仏殿に本陣を置いていた三人衆。
この地は久秀らの籠る多聞山城からは”目と鼻の先”というくらいに接近した場所で、兵力に勝っていた三人衆勢はこちらを拠点に城攻めをしておりました。
よく防戦していたものの、兵力差がためしだいに久秀勢は追い詰められていくのです。
こんな不利な状況を覆すには…奇策しかありません。
城外へと討って出た久秀勢は、なんと陣取っていた三人衆に対して”焼き打ち”を敢行したのです。
信長の有名な言葉、
「この男は滅多に人ができないことを三つもやった珍しい男だ」
…の一つにある、東大寺の焼き打ち。
天平五年(733)創建という東大寺に火を放つというのは、当時の感覚で”言語道断”な所業でした。
しかし、当の久秀は実に現代的な感覚の持ち主であり、
「木と銅で出来たものを焼いて、なんの罰があろうか」
と言ったとかなんとか…スゴイですね。
ともかくもそんな訳で、すっかり不意を突かれてしまった三人衆は混乱の中防戦したものの次々と討ち取られ、また放たれた火は門や鐘を残した以外全てを灰燼に帰してしまったのでした。
この奇襲によって、三百という死者を出した三人衆らの軍勢は総崩れとなって大敗北。
逆に勝利によって大和の地盤を固めた久秀は、畿内でも有数の戦国大名となったのです。
まさかの敗北で近畿での勢力を弱めてしまった三人衆…。
さらに翌年には、最大の試練が待っていたのです。
永禄十一年(1568)
こうして三好家中が分裂して小競り合いを続けるなど混乱する中、ついに流浪の将軍「足利義昭」を擁した「織田信長」が上洛の軍勢を進めてきたのでした…。
⇒ つづく。
次回は「上洛の織田勢、京を制圧」(6/9)
[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 魔王の弟 「織田信行」 [1 2 3 4 5]
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⇒ 天才軍師「竹中半兵衛重治」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
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⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
⇒ 信長に背いた男 「荒木村重」 [1 2 3]
⇒ 本願寺・大谷派 大通寺 (滋賀)
⇒ 坂本城址 (滋賀)
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⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」
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※そんな訳で、久秀くんが焼いちゃった東大寺です。
しかし…あの時代でかっちょえー老人ですよね、彼。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。
永禄七年(1564)
養子「三好義継」は三好三人衆の後見を得て、家督を相続しました。
その翌年、三人衆と「松永久秀」は将軍「足利義輝」を襲い、なんとこれを自害させたのです。
とりあえずは三人衆と歩調を合わせていた久秀ですが、次第に対立。
兵力に勝る三人衆は久秀勢を各地で撃破し、ついに多聞山城を包囲するんですが…。
永禄十年(1567)
占拠していた、東大寺・大仏殿に本陣を置いていた三人衆。
この地は久秀らの籠る多聞山城からは”目と鼻の先”というくらいに接近した場所で、兵力に勝っていた三人衆勢はこちらを拠点に城攻めをしておりました。
よく防戦していたものの、兵力差がためしだいに久秀勢は追い詰められていくのです。
こんな不利な状況を覆すには…奇策しかありません。
城外へと討って出た久秀勢は、なんと陣取っていた三人衆に対して”焼き打ち”を敢行したのです。
信長の有名な言葉、
「この男は滅多に人ができないことを三つもやった珍しい男だ」
…の一つにある、東大寺の焼き打ち。
天平五年(733)創建という東大寺に火を放つというのは、当時の感覚で”言語道断”な所業でした。
しかし、当の久秀は実に現代的な感覚の持ち主であり、
「木と銅で出来たものを焼いて、なんの罰があろうか」
と言ったとかなんとか…スゴイですね。
ともかくもそんな訳で、すっかり不意を突かれてしまった三人衆は混乱の中防戦したものの次々と討ち取られ、また放たれた火は門や鐘を残した以外全てを灰燼に帰してしまったのでした。
この奇襲によって、三百という死者を出した三人衆らの軍勢は総崩れとなって大敗北。
逆に勝利によって大和の地盤を固めた久秀は、畿内でも有数の戦国大名となったのです。
まさかの敗北で近畿での勢力を弱めてしまった三人衆…。
さらに翌年には、最大の試練が待っていたのです。
永禄十一年(1568)
こうして三好家中が分裂して小競り合いを続けるなど混乱する中、ついに流浪の将軍「足利義昭」を擁した「織田信長」が上洛の軍勢を進めてきたのでした…。
⇒ つづく。
次回は「上洛の織田勢、京を制圧」(6/9)
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※そんな訳で、久秀くんが焼いちゃった東大寺です。
しかし…あの時代でかっちょえー老人ですよね、彼。