お寺さんぽ Ver.03

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藤原信頼、実権を握る (保元の乱、平治の乱)8

2008年12月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。


「保元の乱」の勝利によって、反対派の一掃に成功した「後白河天皇」
その側近「藤原信西」は「平清盛(※写真)」に接近して実権を掌握しました。
一方、「二条天皇」即位後に院政をすすめたい「後白河院」は「藤原信頼」を信西の対抗馬として推し、乱後にくすぶっていた「源義朝」を味方としました。
そこに親政をすすめたい「二条天皇」派が絡むというように、朝廷内はそれぞれ派閥の利害打算から急速に不和となっていくのです。
こうした不穏な情勢のなか「平清盛」が一族と共に熊野詣へ出掛けると、その隙を狙った「藤原信頼」・「源義朝」らがついに挙兵したのでした…。


このようにして、「保元の乱」からわずか三年後に起こったのが「平治の乱」なのです。
深夜に三条殿などを急襲した義朝らは、瞬く間に「後白河院」、そして「二条天皇」を確保。
「宮城(きゅうじょう)」の一本御書所へ彼らを移し、監禁してしまいました。

続いて、今回のメインターゲットである「藤原信西」の宿所を襲い、そちらを焼き払っております。
事前の脱出に成功し大和まで逃れていた信西ですが、追捕をふり切れずに、自害。
こうして、一夜にして実権は「藤原信西」から「藤原信頼」へと移ったのでした。

のこる「二条天皇」派と結んだ「藤原信頼」は朝廷を掌握。
その軍事力として活躍した「源義朝」は”播磨守”、さらに「源頼朝」は”右兵衛佐”へと任ぜられております。

このように、好き勝手に恩賞を実施するなど、まさに信頼は得意の絶頂だったようなのです。

しかし、義朝の武力を背景とした独断専行の政治は、大半の貴族に甚だ評判の悪いものでした。
さらに、”信西を追う”という目的では利害の一致していた「二条天皇」派にも都合の悪いものでした。

なお、この頃に父義朝を救援するため、「悪源太」こと「源義平」が上京しております。
その到着を喜んだ信頼は「左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)」だった義平に官位を授けようとしましたが、
鎌倉にて、士卒はみな我が名を悪源太と呼び候。今は官位よりも軍勢を賜りたい。世が鎮まったのちに官位を賜りたし
…と、辞退したといいます。
さらに、到着した義平が真っ先に進言していた”平清盛追討”は退けられ、結局その帰京を認めてしまったのでした。

なんらかの血が騒いだのでしょうかねぇ。
ともかく、結果的にはその勘が正しかったことを知らされることとなるのです。

さてはて、「藤原信頼」・「源義朝」ら挙兵の報に接した「平清盛」
帰京した清盛はすぐさま信頼へ名簿(みょうぶ)を捧げております。
この”名簿”というのは、漢字そのまま、姓名や年月日、官位などが記されているもののこと。
”主従関係が成立する際に、服従のあかしとして主人へ渡される”のがこの名簿なのでした。
要するに、清盛は信頼に臣従する態度をとったのでした。

信西とも親しかった清盛ですが、それは信頼とも同様のこと。
彼としては、両者の争いに関してはもともと中立の立場を取っていたのです。
それが幸いしたんですね。
信頼は源氏「源義朝」に続いて平氏「平清盛」というように、両武力を味方につけたことを喜んでおります。

こうした情勢に危機感を持った「藤原公教(※「鳥羽院」の側近)」らは「二条天皇」派と共に、六波羅邸へ戻った清盛へ連絡をとっておりました。
こうして、密かに「二条天皇」の奪回を模索することとなるのです。

⇒ つづく。
  次回は「源氏勢、清盛の策に堕ちる」(9/10)

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