お寺さんぽ Ver.03

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上洛の織田勢、京を制圧 (三好家の人々)6

2009年06月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄八年(1565)
三人衆と「松永久秀」は将軍「足利義輝」を襲い、これを自害させました。
その後対立した三人衆と久秀は畿内にて激突。
兵力に勝る三人衆らは、永禄十年(1567)頃には久秀勢を大和へ追い詰めますが、”東大寺焼き打ち”という奇策によって大敗してしまうのです。
こうして三好家中が小競り合いを続ける中、永禄十一年(1568)には「織田信長(※写真)」が上洛の軍勢を進めてきたのでした…。


上洛は9月頃のこと。
ここで「松永久秀」は判断良く、名茶器「九十九髪茄子(つくもなす)」を片手に信長へ降伏。
許され、早々に大和を安堵されると共に、そちらの完全制圧を命じられています。
いやー、抜け目のないおっちゃんですねー
(※この時の久秀は五十八歳くらい。わお!)
ちなみに、彼と結んでいた「三好義継」も同様に信長へ降伏し、河内・若江城主として河内半国を安堵されました。

こうして、敵対していた久秀らがあっさり信長に恭順したため、三人衆ら三好勢はたちまち窮地に陥ってしまいました。
信長の要請(※一週間ほどの説得があった様子)を拒絶し、近江の大大名「六角義賢」と結んで、共に「織田信長」に抵抗したのです。

六角氏の観音寺城は、ちょうど上洛の道筋でありました。
観音寺城、そして箕作城などに兵を配して、待ち構えた六角勢。
しかし、浅井氏の台頭、お家騒動などで衰退していた軍勢では織田軍を止めることすらできず、五万という軍勢によってわずか一日にて陥落してしまうのです
驚きの白さ、でなく早さです。

この、予想外にあっけない決着に、援軍を出す暇もなかった三人衆は京を放棄。
先ごろまでの三好家内乱は、結果的に付近の国人・奉公衆からの離反を招き、周囲を敵だらけとしていたのです。
最長老「三好長逸」は摂津・芥川城に入って織田勢に抵抗しましたが、攻められて開城。
また淀城、勝龍寺城を守っていた「岩成友通」も織田勢に陥落させられるなど、畿内にあった拠点は次々と攻略されてしまうのです。
三人衆らは、まだ地盤の残っていた阿波へと逃れました。

永禄十二年(1569) [本国寺の変(六条合戦)]
抵抗勢力を蹴散らして上洛した「織田信長」は、京都・本国寺に仮の御所(六条御所)を置き、ふいと岐阜へ帰国しておりました。
その隙に乗じた三人衆は、三好一族(※長慶の父元長の弟、「三好康長(笑岩)」など)と共に、信長が不在であった京都へ侵攻。
現在の将軍「足利義昭」の宿所を襲ったのです。

しかし、予想に反してその守備は固く、また周辺国人らも一斉に織田勢へ味方したため攻略することができず、ここでね戦力失った三好勢は、いつしか石山本願寺らと共に抵抗するのが精いっぱいという、一勢力程度になっていくのです。

⇒ つづく。
  次回は「野田・福島合戦の勝利」(7/9)

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※こんなん見つけました。
 信長さまだそうですが…やたらかっちょえーですね。


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