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ついに決着・鎌倉時代の幕開け (承久の乱)6

2008年08月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。

尼将軍「北条政子」の熱弁により、心を一つとした幕府軍。
後の三代執権「北条泰時」を総大将にした軍勢は圧倒的な兵力差にも守られ、各地で朝廷勢を撃破するのでした。
…と、そんなこんなでお送りしてきました”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」は本日がラストです。

約十九万という幕府軍に対し、約二万程度だった朝廷勢。
両軍に集まったその兵数からも分かるとおり、勝敗はわざわざ書かぬとも明らかなものでした。
また、元々少なかった兵力を分散したことは作戦でも致命的なことで、より各個撃破されやすくなっていたのです。

進軍を続ける幕府軍は、最終防衛線であった宇治・勢多をあっさり突破するなど朝廷勢を圧倒。
なんと開始(五月)の翌月には早くも京都を占領していたのでした。

比叡山へ登った「後鳥羽上皇」はその協力を求めるも失敗。
乱は謀臣の企てだった
ついには、そんな現代の政治家のような使者を幕府軍に送ったのです。
その一方で、自らを正当化するため義時追討の院宣を取り消し、逆に敗走してきた「藤原秀康」、「三浦胤義」らの逮捕を命じるのでした。
…ひでえ。
(※ちなみに「藤原秀康」は捕縛、「三浦胤義」は自害)

こうして、幕府・朝廷という日本を二分した大乱戦は、朝廷側の大崩れ・大敗となったのです。

もともと朝廷側では、「土御門上皇」ほか多くの公家が”討幕について消極的、あるいは反対”するなど、意志統一がされていなかったこと。
傑物であった「後鳥羽上皇」らが幕府軍を過小評価し、楽観的な考えが多かったことも原因だったようです。

院宣の効果を絶対視しており、
義時に参じる者は千人もいないだろう
など、諸国の武士はこぞって朝廷の味方をすると確信していたのでした。
時代が読めてない…というより、幕府をまとめていた中心人物が”源家の男性だけでなかった”ことは理由の一つでしょう。

さて、追討を撤回し、乱の責任を近臣の策謀であるとか主張し出した、どうにも見苦しい「後鳥羽上皇」
当然ながらそんなんは聞きいられず、隠岐の島へ流罪となるのでした。
この際、四十二歳。(※その地で崩御)

皇子「土御門院」は土佐へ流罪(※乱には関与していなかったが、自ら進んで配流の身となってます)
「順徳院」は佐渡へ流罪。
ほか、「葉室光親」「中御門宗行」「一条信能」「高倉範茂」…などの近臣らは乱の首謀者とされ、斬殺・自害させられました。
なお、公家「坊門忠信」だけは「源実朝」正室の兄であったため許され、助命されております。

それ以外には、在位期間わずか八十一日ほどで「仲恭天皇(ちゅうきょう・てんのう)」の退位。
朝廷の監視と西国武士らを統率する「六波羅探題(ろくはらたんだい)」の設置。
(※京都・六波羅の地はもともと平氏一門の本拠地でした)
さらに、朝廷より没収した三千という領地は、戦いの功労者らへ恩賞として与えられました。
これによって、幕府の支配は一気に西国にまで及ぶこととなったのです。

この乱によって、結果的に朝廷はその勢力を大いに失い、逆に幕府は一気に全国政権となったのでした
そんな訳で、歴史家の方にはこの乱以降を”鎌倉幕府の創設”とする方もいるのです。


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