お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

後見の三人衆って何者? (三好家の人々)2

2009年06月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄七年(1564)
三好三人衆の後見を得て、養子「三好義継」は家督を相続、河内飯盛城主となりました。
それ以前には、いままで三好家を盛りたててきた長慶の兄弟らも、一斉に代替わりしているのです。
ここまで極端な例というのは、他の大名家には見られません
(※細かいところまでは知りませんが)
しかも、ほとんどが突然の出来事で、継いだのも”まだ後見を必要とするくらいの若者”ばかりなのでした。
これでは、混乱しない訳がありません。

こうして不安定であった三好家中にて、当主義継の後見として権力を握ったのが三好家中での有力者”三好三人衆”、そして長慶の信頼を得て大和に独自の勢力をもった家宰「松永久秀」でした。
さて、何かとひとくくりにされることが多いこの”三好三人衆”ですが、いったいどんな集団だったんでしょう?


一族では最長老であった「三好長逸(みよし・ながゆき)」
彼は三人衆で筆頭というべき存在でした。
長慶の祖父「三好長秀」の弟「長則」の子(と、伝えられている)で、長慶の父「三好元長」とは従弟になります。
もともと若年であった長慶の後見役としても活躍しており、家中での発言力もかなり大きかったと想像されます。
軍事面では、特に丹波方面を担当していました。

おそらくはそれに次ぐ地位であったと想像される、「三好政康(みよし・まさやす)」
彼は長慶の祖父「三好長秀」の弟「三好頼澄」の次男でした。
いわゆる”真田十勇士”の一人である「三好清海入道」のモデルで、最後は大阪城へ入城したとされていますが…実際のところは不明です。
丹波攻め、河内攻めなどの合戦に参加していたようですが、先の長逸と違って長慶の生前ではほとんど目立たない存在でした。
多くの三好一族と同様に茶人としても有名で、風流な人物であったとされています。

最後の一人は、三好姓ではない「岩成友通(いわなり・ともみち)」
出自不明ながらその器量を認められて、一族に準ずる扱いを受けていたようです。
(※一門衆であったという説もあります)
永禄元年(1558)の山城・瓜生山城攻めなど、特に合戦での活躍が目立ち、自らの勢力を増し続ける「松永久秀」に唯一対抗しうる武将とされていました。
実際に、大和、山城など各地での戦いでは松永勢に勝利すること多く、焼き打ちされた東大寺での一件以外はほとんど彼に負けていないのです。

…という、以上の面々が後見の”三好三人衆”でした。
兄弟に代わる一族衆として、三好家の実権を掌握します。
さらに、大和を支配する重臣「松永久秀」も大きな存在感を見せていたようなのです。

⇒ つづく。
  次回は「衝撃!御所襲撃!!」(3/9)

[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 地黄八幡の名将 「北条綱成」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 出来人の出来た弟 「香宗我部親泰」 [前編 後編
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将 「伊集院忠棟」 [   



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


妖鬼化(むじゃら)〈3〉近畿編
水木 しげる
ソフトガレージ

このアイテムの詳細を見る

※近畿で検索していたら、こんなん見つけました。
 竹藪とか「砂かけばばあ」が出てきそうに感じる時があります。