お寺さんぽ Ver.03

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乱の終結・新たな確執 (保元の乱、平治の乱)7

2008年12月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。

天皇家、関白藤原家の確執に、源平武士らが多く参戦した「保元の乱」
こちらの戦では、伊勢平氏の棟梁「平清盛」、そして関東の軍勢を率いる「源義朝」らの所属した「後白河天皇(※写真)」方が勝利したのでした。
この乱以降、日本は武者の世になった
とは「慈円」の批評です。


「保元の乱」の勝利によって、反対派の一掃に成功した「後白河天皇」
この後実権を掌握したのは、その側近「藤原信西(道憲)」でした。

彼の目指した政治は荘園の整理など、天皇権力の強化を図るものでした。
そんな頃、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らの養育していた「守仁親王(二条天皇)」の即位を強く働きかけ、ついにそれを実現させるのです。
(※もともと「後白河天皇」はまだ幼かった「二条天皇」の中継ぎ的な存在だった)
こうして、乱の終結から二年後には「二条天皇」が誕生したのでした。

また、信西は「平清盛」の娘を子「藤原成範」に迎えるなど、畿内に勢力基盤を持つ平氏と接近し、彼らを自らの武力としておりました。
「源義朝」も信西の三男是憲を婿にすることを望んだものの果たせず、連携に失敗してしまうのです。
合戦はともかく、政治面では清盛に及ばない義朝なのでした。


◆平治元年(1159) [平治の乱]

さて、皇位を「二条天皇」へ譲って上皇となった「後白河院」は院政を開始。
この頃、「後白河院」より信任・抜擢されたのは、「藤原信頼」でした。
あさましき程に御寵ありけり
…と言われるほどの寵愛ぶりだったそうなのです。

そんな背景から、わずか数カ月で急速に官位を昇進していく信頼に警戒した信西。
右大将の任官は信西によって一蹴されてしまうのです。

こうした背景から、「藤原信頼」は実権を握っていた「藤原信西」と対立を深めるようになっていくのでした。
(※なお、「二条天皇」方の側近である「藤原経宗」「藤原惟方」らも、この信西とは反目しています)

また、自身は武蔵守、一族が陸奥守であった「藤原信頼」
関東に勢力を有し、また平氏優遇策をとる朝廷に不満を抱いていた「源義朝」は自然と彼に接近。
こうして、朝廷内は院政をすすめる「後白河院」・「藤原信頼」・「源義朝」らと、実権を握る「藤原信西」・「平清盛」
そして親政をすすめたい「二条天皇」という派閥が形成され、それぞれ急速に不和となっていくのです。

こうした情勢のなか、信西方の武力である「平清盛」が一族と共に熊野詣のため、京を留守にしました。
その隙を狙い、「藤原信頼」・「源義朝」らはついに挙兵したのです

⇒ つづく。
  次回は「藤原信頼、実権を握る」(8/10)

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※源氏と違い、どうにも弱々しく貴族っぽいイメージの平氏(←ちがう?)
 倶梨伽羅峠・富士川が強いんですねー。
 


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