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直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 (承久の乱)1

2008年07月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで本日は”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りいたします。


■承久三年(1221) 「承久の乱」概要

新たに成立した、武士政権「鎌倉幕府」
しかし、創始者「源頼朝」の死後はどうにも安定せず、それを好機とみた朝廷の支配者「後鳥羽上皇」は討伐を図ったのです。
がしかし、尼将軍「北条政子」以下、危機にあって結束を固めた幕府軍によって敗れ、隠岐の島へ流されることとなってしまうのでした。
…という事件なのです。
それでは、詳しく見ていきましょう。

さてはて、イイ国つくろう!なーんて具合に始まった、初の武士政権「鎌倉幕府」
源平の争乱に勝利し、続いて奥州の藤原氏をも滅ぼした「源頼朝」
建久三年(1192)には「後白河法皇」の死去によって念願の”征夷大将軍”に任ぜられ、正式に東国支配の権限を得たのでした。

…この流れから分かるかもしれませんが、いままで日本を支配してきた朝廷は健在なまま。
そのため、成立した「鎌倉幕府」の支配は東国が中心であり、”単なる地方政権”という色合いが強かったのです。
(※ちなみに、「幕府」という名称は”征夷大将軍の陣所”という意味なんだって)
また、初期頃の「鎌倉幕府」はその体制から脆弱だったのです。

正治元年(1199)
相模川にかかる橋の落成式に参加した「源頼朝」ですが、ここで不意に落馬。
…と、びっくり。
それがもとで死んでしまうのです。
歴史書「吾妻鏡」はそう伝えているんですが……前後四年分の記述はぽっかりと削除されたように抜け落ちているのでした。
その死の記述についても、没後三年経ってからなのです…。
なんか変よね。

当時、よく囁かれていたのが祟り説。
まぁ、それはないにして、先の落馬が本当だとすると脳卒中とかそんなんですかねぇ。
意外に頼朝の死については知らないでしょ?
はっきり言って、あれだけの歴史人物であるのに死因とかなんとかはいまだ不確かなままなのです。
こうして、時代を切り開いた源氏の嫡流は、不可解な死を迎えたのです。
享年五十三。

その後を継いだ二代将軍「源頼家」
政争に巻き込まれた頼家は出家させられてしまうのです。
続いて伊豆は修善寺に幽閉された後、元久元年(1204)に暗殺。

続いて三代将軍として擁立された「源実朝(みなもとの・さねとも)」
彼は建保七年(1219)に鎌倉は「鶴岡八幡宮」にて、甥の「公暁(くぎょう:頼家の子)」に暗殺されてしまうのでした。
これは、器量を超えるほどの異例な出世をさせ、その身を滅ぼさせるという一種の調伏「官打ち」とされる説もあるようですが、詳細についてはまたまた不明。

暗殺された三代将軍「実朝」にはまだ実子はおりません。
こうして、源氏の直系はわずか三代で終わってしまったのでした。

⇒つづく。
 次回は「時代の傑物「後鳥羽上皇」の野望」(2/6)

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