真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「出逢いが足りない私たち」(2013/監督・脚本:友松直之/原作:内田春菊『出逢いが足りない私たち』《祥伝社・刊》/企画:リエゾンポイント/プロデューサー:當山和・石川二郎/音楽:中小路マサミ/撮影・照明:田宮健彦/録音:甲斐田哲也/助監督:冨田大策/制作担当:高野平/監督助手:島崎真人/撮影・照明助手:川口諒太郎/制作進行:山城達郎/制作応援:大西裕・奥渉/ヘア・メイク:化粧師AYUMO/スタイリスト:長岡みどり/スチール:中居挙子/ポスター撮影:佐藤学/CG合成:新里猛/編集:西村絵美/整音:島崎真人/劇中イラスト:内田春菊/制作協力:株式会社BEAGLE・有限会社アウトサイド/出演:嘉門洋子・藤田浩・佐倉萌・津田篤・阿部隼人・佐藤良洋・倉田英明・上田竜也・田所博士・文月・沖直未)。製作は「出逢いが足りない私たち」製作委員会と公式サイトにはあるが、本篇内には見当たらない。
 諸々のソーシャル・ネットワーキング・サービスが隆盛の今日(こんにち)、いきなり筆を滑らせるではなく飛ばすと、大の大人が公衆の面前で小さな液晶相手にチマチマしてゐる様が大嫌ひな私は、あらゆる種類のモバイルを初めから持つてゐない。話を戻すとそれで便利に楽しくなつたのか、却つて面倒臭くなつたのかなな御時勢を、都市怪談風味にトレースしてタイトル・イン、これナレーションのメイン誰だ?
 タイトル明け、即嘉門洋子の裸。お前達の見たいものを見せてやる、友松直之の雄々しい咆哮が聞こえる。ハンドル:よんよんこと、一応イラストレーターの河原ヨシミ(嘉門)と、先輩イラストレーターでもあるハンドル:とろりん(藤田)の不倫の逢瀬。事の最中にもスマホを手放さぬヨシミに、とろりんは至極全うな小言を垂れる、とろりんの癖に。河原家、テレビ画面に向かつてタレントの吉沢陽子にどうかした勢ひで悪態をつくヨシミを、近所なのか、嫁に出た割には実家に入り浸る姉のカズコ(佐倉)がたしなめる。ヨシミが大ファンの俳優・東條良識(津田)と、吉沢陽子の不倫熱愛は世間を騒がせてゐた。婚期は逃し気味、仕事といつても月に小さなカットを数枚程度。どう考へても詰んでゐる妹に対しカズコはやんはりとでもなく勝ち誇り、ヨシミは満足に論破出来るでなく、幼児のやうに駄々を捏ねる。そこに顔を出す沖直未は、汚いものに気付かない鈍感さが、そのまま人生を終へられたならば幸福な呑気な母さん。そんなある日、ダラダラ起きたヨシミが半ば自動的にPCを立ち上げFaceならぬFool bookを開くと、見知らぬアカからのメールが。しかもその相手は、ヨシミではないよんよんと関係を持つたやうなのだ。誰かがアタシに成りすましてる、冷静に反芻してみると大概な飛躍で、ヨシミは戦慄する。とろりんとの待ち合はせに外出したヨシミは、よんよんちやんと呼ばれる女が男と別れる現場を目撃する。ヨシミはその赤毛でセクシーな女を追ふも、女は踏切越しに姿を消す。成りすましの正体を暴いてやる、ヨシミはFool bookに餌を撒き行動を開始する。
 配役残り田所博士は、女優を自称する吉沢陽子を頑なにタレント呼ばはりする挑戦的なテレビ番組司会者。形式的にはヒムセルフなれど、まあ変名か。ヨシミ成りすましのファースト・カットにもシレッと見切れる阿部隼人は、成りすましがネットで漁るハンドル:きりたんぽぽ氏。締りのない体躯が、ランニングの形に日焼けしてゐる間抜けさが余計に役不足。三人の並びで画面奥から倉田英明・佐藤良洋・上田竜也は、同じく成りすましとの4P要員。倉田英明が、劇中最初に真相に辿り着く。佐藤良洋は地味に長けた発声を楽しみにしてゐたものだが、見せ場は与へられず。それと無論、上田竜也はKAT-TUNではない。フィーチャー・フォンを弄る迷彩を着たジャイアンが開巻に見切れるのは目を瞑つてゐても気付くにせよ、わざわざクレジットまでしておいて文月(ex.かなと沙奈)が何処に出てゐたのかが本当に判らない。その他それらしき役は登場しないし、少なくとも、抜く形では撮られてゐない、筈。忘れてた、ヨシミにただのデブの一言で片付けられるとろりんの細くはなくとも細君は、帽子を目深に被つた佐倉萌の二役。
 友松直之最新作中の最新作、後述するが何せまだ公開前、タイムマシンにでもお願ひしたのか。勝手に設定したテーマを蒸し返すと、友松直之といへばオーピーに続き新東宝も連破し、ここでエクセスをどうにか出来れば、ほぼ間違ひなく歴史上最後の三冠を狙へる重要な位置にあるのだが、今回ばかりはそれどころではない。初脱ぎのトピックこそないとはいへ、あの嘉門洋子がカモンし倒す衝撃の話題作。申し訳ないが、流石に役者が違ふ。肝心の濡れ場に突入すると殊に、嘉門洋子が終始一人浮いてしまふ違和感は禁じ難い。それはさて措き、ヨシミが自身の成りすましを捜して奔走する、サイコ気味のサスペンスはちやうど尺が折り返しを跨いだ辺り以降、怒涛の吉沢陽子裸見せの中一旦完全に埋没する。手前勝手極まりないセックスできりたんぽぽの機嫌を損ねた陽子が、途端にブリブリ男を手玉に取つてみせる件には、友松直之は何処まで女といふ生き物を信用してゐないのかと微笑ましさも覚えつつ、東条の前では一転。きりたんぽぽを自身の快楽に供する為だけの道具かのやうに扱つた陽子が、東条からは同じやうに扱はれる隷属の連鎖は、与へられた企画に決して安住なり満足しない貪欲さが裸で以てドラマを紡ぐ、然るべき裸映画の在り方として結実する。それにしても、さういやヨシミはどうしたのよ?とぼちぼち途方に暮れかけたタイミングで、倉田英明を起爆剤にそれまで入念に敷設した伏線が着弾、狙ひ澄ましたどんでん返しが火を噴くのは友松直之一流の構成術。と同時に、そこで欲張り若干キレを失するのも御愛嬌。自身がツイッター・ジャンキーであることも利してか、SNS社会を土台に友松直之が選んだモチーフは、正しく表裏一体を成すヨシミが拗らせる自意識と、陽子が自堕落に持て余す空白感。陽子、に限らず女達が都合よく抱へた心の穴は、適宜印象的に始終の調子を整へつつ、最終的にはアンニュイに投げ出される。それもそれで様になつてゐなくはないが、下手なスタイシッシュよりも孤独なオタク青年が誰も知らない女優と銀幕の中で添ひ遂げる苛烈なロマンティックに。友松直之とは相憎相悪の状態にある旦々舎の、絶望的な孤独の末に中年男が終に郵便ポストと化す無限の夢幻にこそ、より強いエモーションを覚えるものではある。
 絵になつてゐる分、陽子はまだいい、問題はヨシミだ。ヒステリックにみるみる消耗しやがて壊れて行くヨシミの姿は、本来ならば嘉門洋子の超絶な演じ分けないしは凄絶な熱演を称へなければならないところなのかも知れないが、あまりに真に入り過ぎて、逆に見るに堪へない。これは美しくないものなど今既にあるありのままの現し世だけで十分で、夜の夢は、そしてそれを投影した映画は文学は全ての創作物は美しくあるべきではないのかとする、個人的な偏好による感触でもある。だけれども分別を捨てなほも大風呂敷を拡げると、駄目なものが駄目なままでも美しかったカッコよかつたどうにか救はれた幸福な時代は、1980年が明けた瞬間に基本的に終つた。以降は必ずしも絶対に不可能ではないとしても、特別な配慮もしくは能動的な努力を要する世知辛い世界が完成した。元々露悪的な戦略でそれは狙ひ通りに形になつたのだらうが、ヨシミにもヨシミなりの真実なり救済を求める惰弱な心性は、半欠片たりとて顧みられはしない。だから、もしかすると何某かの手を施したのか、嘉門洋子の淡いピンク色の乳首と乳輪とがエクストリームに美麗かつ扇情的であるにせよ、今作は美しい物語ではない。それはハンバーガー店に入つてうどんを注文する類の与太として、一点目もとい耳に障つたのが、時に激しく適当で時に徒に大仰で時に不用意に饒舌な、悉(ことごと)くちぐはぐな劇伴が清々しく至らない。尤も、音楽に関してはアリスセイラー降臨時以外は、総じて友松直之映画のアキレス腱であるやうに、改めて思ひ返してみると思へなくもない。ともあれ、それもこれもあれやこれやはこの際取るに足らない瑣末。確かにセンセーショナルな裸だけでなく劇映画的にも十分に面白いことは面白いともいへ、映画の面白さを求めるならばメイドロイドの方が数段素晴らしいし、それ以外にも結構な高打率で事欠かない。キャプテンぽくいへば、そんなことより嘉門洋子のカモンを舐めたくならうぜ。公称スペックを鵜呑みにすると、嘉門洋子目下御齢三十三歳。この手の企画によくある、五年遅かつた十年遅かつたなどといふ話には断じて当たるまい。寧ろ今が絶頂期、ゴールデン・エイジ、別に二十五の時の嘉門洋子は知らんけど。部位もプレイもフルスロットル、嘉門洋子は脱ぎ惜しまない、友松直之も手加減しない、それがジャスティス。間に合つた嘉門洋子を裸映画の鬼・友松直之が撮る、事件を通り越した奇跡に感謝を。

 ところで、十四日から一週間限定で池袋シネマ・ロサにてレイトショー公開される成人指定とはいへ一般ソフトコアの感想を、何でまた封切り前に福岡在住の田舎者が書いて、より正確には書けてゐるのかといふと。畏れ多くも友松直之監督から、勿論禁貸出でサンプルDVDを呉れてやるからレビューを書け、それを販売戦略上の下手な弾幕に使用するとのお話を頂戴した。藁製の猫の手にもほどがあると恐縮しつつ、折角なのでここは前に出て玉と砕けるかとしたところ、ひとつ障害が、しかも根源的な。我が家には妹が結婚する少し前から―何時なんだよ、それ!―テレビがなく、となると当然無用の長物たるDVDプレイヤーもない。オンボロXPが辛うじて青息吐息で動いてゐるものの、ドライブは壊れてゐる。即ち、寂しさで画期的な色になるどころか、そもそもウチにはDVD視聴環境が存在しないのだ。そこで
 僕「メール添付の動画ファイルで下さい><」
 友松大監督「画質が激しく劣化するから駄目だボケ、ネカフェ行けやドアホ(#゜Д゜)」
 的なハート・ウォーミングな遣り取り―幾分意訳―の末、持ち込みのDVD-Rを見る為だけに一々ネットカフェの門を叩いた、まででまだ話は片付かない。挙句に、四捨五入すると十年ぶりに触るテレビとDVDプレイヤーの使ひ方がどうしても判らずに、悪戦苦闘を経て結局PCで見る始末。我ながら、限りなく不自由な男だ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )