真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「理由あり未亡人 喪服で誘ふ」(2003『変態未亡人 喪服を乱して』の2006年旧作改題版/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/脚本・監督:山邦紀/撮影・照明:小山田勝治/音楽:中空龍/撮影助手:杉村貴之・南靖比呂/助監督:栗林直人・広瀬寛巳・佐藤竜憲/出演:川瀬有希子・里見瑤子・佐々木基子・柳東史・平川直大・なかみつせいじ)。
 フランツ・カフカの『変身』をテキストに、女医・鈴子(佐々木)が患者にカウンセリングを施す。ロング・ショットで、巫女・もみじ(里見)は静謐な神社の境内を歩く。郵便ポストに左手を添へ、立ち尽くす男(なかみつ)。喪服女の歩く足元、タイトル・イン。カット変ると、拘束されたポスト男を、喪服の女・あやめ(川瀬)が鉄鞭で打ちのめしながらの交合。
 濡れ場の合間合間にテンポ良く徐々に語られる、ポスト男とあやめとの出会ひのシーンが超絶にロマンティック。ポスト男は初老で、なほかつロクに仕事もない。女からは見向きもされず、自分はまるでポストのやうに孤独だ、と郵便ポストと自身を同一視してゐた。一方あやめは夫を確かに亡くしてはゐたが、それはもう一年も前のことであり、未だに喪服を着てゐるのは、その方がマン・ハントの際男受けがいいからであつた。自らをポストになぞらへ、郵便ポストの傍らに立つポスト男。そこに歩み寄る、手紙を手にしたあやめ。あやめはポスト男を一瞬凝視すると、ポスト男の口に投函しようとしてゐた手紙を向ける。「ハムッ」と、手紙を咥へるポスト男に対しあやめは、「貴方がポストに見えた」。「どうして判つたんだらう?」と訝しむポスト男に再びあやめ、「ウチに来る?」。「ポストを誘つてるの?」、「私、ヤリマンだから。電信柱でもいいわ」。逃げ場のない人生の孤独に絶望、殆ど人間性をも喪失し己を郵便ポストにすら模した男の前に、通り過ぎ行くことなく現れた女。女は男の口に、手紙を咥へさせた・・・!好色な女は、男が男ですらなく、郵便ポストや電信柱であつてさへも受け容れるといふ、何とロマンティックな出会ひ。世界から零れ落ちた男に、偶さか舞ひ降りた束の間の救ひ、身震ひさせられるほどのシークエンスである。かくも独創的な夢幻、ワン・ショットの刹那を悠久に輝かせる漲る強度。ポスト男とあやめとの出会ひのシーンだけでも、我々はピンク映画に山邦紀あることを大いに誇り得るであらう。あやめがポスト男に告げる別れの台詞が、これ又洒落てゐる。「私ヤリマンだから、次の約束は出来ないわね」、「私が声をかけない時、貴方はポスト」。“私が声をかけない時、貴方はポスト”、まるで最も時代に祝福されてゐた時期の、歌謡曲の一節のやうだ。
 一方、もみじは大麻(おほぬさ)で自慰に耽る。山邦紀は神罰を恐れぬのか。神罰など恐れてゐては、映画など撮れぬに違ひない。もみじが絶頂に達するや、もみじの女陰からは虹色のハレーションが放たれ、仰々しく感動的なシンセが鳴る。
 柳東史は、同居するあやめの義弟・慎二。あやめに想ひを寄せ、奔放な男漁りに明け暮れる義姉に心を痛める。柳東史を抜け作抜け作と罵り倒すバイオレントな黒ver.の平川直大は、街金の取立て・吾郎。後述するもみじに敗北後の駄目ver.も、平川直大の持ち芸。吾郎は慎二の作つた借金の取立てに度々あやめを訪れては、利子と称してあやめとのSMプレイに溺れる。上手い具合に見切れるが吾郎の切る領収書は、(株)旦々舎のものである。いふまでもなくあやめの家は、旦々舎代表取締役浜野佐知の自宅でもあるのだが。
 もみじは天宇受賣命に起源を発するだとかいふ、女陰が有する聖なる力、ホト“陰”パワーに開眼する。ホトパワーにて不浄の俗世を浄化せんと、境内より俗界へと鳥居を潜る。山邦紀の趣味的な奇想が火を噴いたとファンとしては大喜びしてもよい、ところなのでもあるが。残念ながら映画の支柱がホトパワーに移ることから、ポスト男が蚊帳の外へと追ひ遣られてしまつた感は否めない。劇中世界からもすら取り残されることによつて、ポスト男の孤独が更に一層際立つ。などといふのは、さういふ見方をして見えなくもないが、多分山邦紀も、そこまでは計算してゐないと思ふ。
 慎二はあやめの高校時代の同級生であるもみじに、義姉のヤリマンを相談する。あやめの家に逗留するもみじを、借金の形に不動産を狙ふ吾郎は疎ましく思ひ、暴力的に事に及ばうとする。ものの、もみじから迸る負のホトパワーを浴びた吾郎は、不能になつてしまふ。職業上のストレスからカウンセリングも受けてゐた鈴子に、吾郎は相談を持ち掛ける。もみじの力に鈴子は興味を抱き、科学的な見地からの解明を試みることを欲する。
 といふ訳で、ホトパワーを鍵に作品世界は連関を完成させる、ポスト男のことは何処かに置き忘れて。額面通りのカタルシスが成就するクライマックスは、確かに一応の結実を果たせてもゐる。それでも矢張り、吾郎の受けるカウンセリングに判り易くもカフカの代表作まで持ち出しておいての、救ひやうのない孤独に苛まれた初老の男が自らをポストと看做すに至るといふ、提出された変身譚、あるいは拡げられた大風呂敷は、満足に回収されたとは凡そいへない、ところであつたのだが。山邦紀は、映画監督としての決戦兵器を二種類保持する。表面的にも判り易い、自由自在な変幻怪異のアクロバットと、もうひとつ。この人は、数秒あれば永遠を刻み込めるダイナミズムも有してゐる。十秒にも満たぬラスト・カットに叩き込まれた、恍惚あるいは至福に満ちた、まるで終に果たされた全体への回帰でもあるかのやうな同化、乃至は消失。冒頭の超絶ロマンティックも半ば忘れ去られた最後の最後に、穏やかでありつつも、確かな手応へを以て撃ち抜かれた叙情が、冷静な論理的視点からはちぐはぐといへなくもない今作を、余人の手の届かぬ領域へと押し上げる。最終的には映画の体裁の整ひを若干欠くところは惜しいものの、山邦紀の両翼の力強い羽ばたきはよく確認出来よう。傑作とは決していへぬのかも知れないが、同時に決して忘れ得ぬ一本である。

 部分的に、より明示的にちぐはぐなのは。再会したあやめともみじは、積もる話に花を咲かす。寡婦のあやめは、夫を腹上死で喪つてゐた。あやめの上で背中しか見せぬ亡夫は、誰なのか微妙に判らない。それは単なる死後硬直に過ぎずビクビクと脈打ちはしないと思ふのだが、あやめは遺された膣内の剛直に、心臓は死してなほ、生き続けるチンコを感じる。さうするともみじは「ふうん、哲学的ね」。夫の死後あやめは雑踏の中で不意に眩暈に襲はれると、この人混みの中の誰しもが、チンコをぶら提げ、マンコ―実際に呼称される―を持つてゐる。否、今目に映る世界には人間が歩いてゐるのではなく、ただチンコとマンコとが歩いてゐるだけなのではないか。といふ、唯チン論、もしくは唯マン論に到達する。するともみじが今度は、「一種の神秘体験ね」。一連のもみじのリアクションは、台詞が逆ではないか?


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