電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
財布を洗う
2016年9月13日
僕の寄り道――財布を洗う
登山用品店で購入して以来、何年使ったか覚えていないほど使い込んだ、ナイロン製の財布がひどく汚れているのが気になっていた。汚れているのだけれど物自体に傷みがないところが、さすが登山用品会社が売っている布製品だと感心する。どこで作っているのだろうとタグを見たらベトナム工場とあった。
感心するほどの良品なのだけれど、人様にはとても見せられない汚れ方なので、仕事場の流しでゴシゴシ丸洗いしてみた。ステンレス製洗い桶に張った水が、みるみる汚れて濁っていくのを見ていると気持ちいい。「ざまあみろ」と思う。
財布、乾かし中
子どもの頃、母親がバス旅行で鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社、通称「銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)」に行ってお金を洗って来たと嬉しそうに話していて、いかにお金が恋しいとはいえ、バカバカしいことをするものだと呆れていたが、母もこういう清々しさを味わってきたのだろう。
お金を洗っても人の気分が清々しいだけだけれど、洗われてみるみる綺麗になる財布自身が清々しそうに見え、洗うなら金より財布のほうが御利益がありそうに思う。年末になるとたいした家財道具もないアパートの大掃除を手伝わされ、殺風景な部屋がより殺風景に片付いて押し迫った暮らしの覚悟が定まり、妙に清々しい気分になったのにどこか似ている。
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君の名は
2016年9月12日
僕の寄り道――君の名は
この特徴のある葉が特定の決め手となる樹種名はなんだっけと立ち止まってしばらく考えたけれど思い出せない。
文京区本駒込五丁目にて
思い出せないけれど、本郷通りと言問通りの交差点、支那そば「丸高」前あたりから見る東大農学部構内にも、もっと大きく育ったのがあるあの木だということは思い出せる。
あるいは小石川植物園の入り口を入って正面に進み、緩やかな左カーブで登って行く本館手前左側にあるあの木だということはわかる。あの木にはちゃんと樹種名を書いた札が下がっていたが忘れてしまった。
葉の特徴や、実際にその木が生えている場所を文京区内で三箇所も覚えているなんて「えっへん、大したもんだろう」と思うのだけれど、情けないことに木の名前がどうしても思い出せない。
ソシュール先生風に言えば「シニフィエ=名前をつけられる対象」は実物のある場所に他人を連れて行ってでも指し示すことができるのだけれど、現物のない場所で「シニフィアン=名前」としての記号で指し示すことができない。
この木についてどうしても他人に言葉で説明したいわけでもないので、実生活ではなんの支障もない楽しい物忘れではあるのだけれど、深刻に言えばまぁ一種の語構造崩壊ではあるのだろう。
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心象
2016年9月12日
僕の寄り道――心象
高校に上がって自分のカメラを手に入れてから、街角で名ざしがたい光景を見つけると嬉々として写真に撮っている。それを見た母親からは「写真だってタダじゃないんだからくだらないものを撮って来るな」と小言をもらい、結婚してからは妻に「街のゴミ拾い」と笑われている。
これはゴミじゃないと答えると「じゃあなあに?」と聞くので「心象!」と答えると「ブッ!」と噴きだされる。噴き出すことはないではないかとムッとしつつも、ちょっと「心象」では言葉が言いたいことに届いていないなと思う。
心象とは心に映じた映像のことなので、心に映じた映像を絵に描いて「これは心象である」と言うなら意味は通るけれど、写真はそこにある物体を自動写生機にかけて複製しただけなので心の作業が加わらない。
そうではなくて心の中で焦点を結ばない心象という混沌が前もってあって、いま目の前にあるその物体こそが自分の心象に合致するものであると感じ、自動写生機にかけて複製しているのだという説明になる。その複製を見て、撮影者の中にある心象を読めということだ。
「そんなものをいちいち読みたくなんかない、時間だってタダじゃないんだから!」と言われれば母親の小言になり、「そんなもので撮影者の心中を読めと言われたって、この人は汚いものが好きなんだなあとしか思えないわ」と言われれば妻の哄笑になる。心象は孤独だ。
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ひこばえとひつじ
2016年9月11日
僕の寄り道――ひこばえとひつじ
切り株から若芽が生えていることがよくあり、それを蘖(ひこばえ)という。稲刈りを終えた田んぼの株から再び稲が芽生えている光景もよく目にし、そちらは穭(ひつじ)というらしいが「ひこばえ」は「生える」という語感と結びつくので、いのちを終えたと思う植物がふたたび芽吹いているのを見つけると、すべて「ひこばえ」と呼んですませている。蘖(ひこばえ)は春の季語だが穭(ひつじ)は秋になる。
もう終わりかけた朝顔の脇芽が小さな蕾をつけていたので肥料を与えたら花が咲いたと友人がブログに書いていた。夏に奥さんを亡くされてからポツリポツリと思い出したように更新がある。
自分もまた母親を亡くした夏は「夏の思い出、草むしり」と題してポツリポツリと更新をしていた。散歩がてら買い物をして、いつもは通らない山手線の線路際を通って帰ったら、フェンスのヒルガオがまだポツリポツリと花をつけていた。
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言葉と音楽
2016年9月10日
僕の寄り道――言葉と音楽
毎年恒例、義母が暮らす特養ホームの敬老会に行ってきた(9/10)。型破りな施設長の個性が濃厚に反映された、自称「田舎芝居」にふさわしいざっくばらんな村落大宴会である。
プロの演歌歌手男女二人の熱唱による歌謡ショーの合間、施設長自ら歌う「ちゃんちきおけさ」にあわせて、着物姿の地元ご婦人連――こちらもかなり高齢なのが微笑ましい――が踊りながら練り歩くという楽しい大騒ぎになっている。
今年は百歳以上の入所者が七人にもなり、義母もまた八十八歳の米寿を迎えて、配られた式次第に名前が初めて載った。客席内を演歌歌手が歌いながら回り、途中でマイクを向けると続きを歌えるお年寄りが多く、誰が歌っているのだろうと腰を浮かせて見ると、「えっ、あの人が!」と驚くことも多かった。
言葉をまったく理解しない全失語者に母国語を含む複数の国の言葉を聞かせると、聞きなれない外国語にはとまどいを見せるのに、母国語に対しては理解しているかのような自然な態度をとり続けるという。リズム、アクセント、メロディーなどにたいして、内容の理解はできなくなっても「外形全体」を受け入れることが人間にはできるらしい。
それはたいした能力であり、老人でなくとも「内容について明確な理解はなくとも話の外形全体を把握してわかったような顔をしながらにこやかに頷いている」能力を利用しながら適当に人づきあいををしているところが自分にもある。
マイクを引き取った演歌歌手が「すごい!歌えましたね、すごいことです!」と驚いているが、営業トークでなく本当に驚いたふうにも見える。そして歌い終えた老人が「なんで歌詞が勝手に口をついて出たんだろう」と驚いたふうに目をキョトンとしているのも印象的だった。
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武道と出版
2016年9月9日
僕の寄り道――武道と出版
むかしむかし子育て家族の暮らしを支援する社会福祉法人が発行する小冊子の表紙デザインを手伝っていた。なんで「手伝っていた」かというと、おそらくその冊子のデザイン料はタダであり、送料の持ち出し分だけを切手で返してくれていた気がするからだ。
それほど予算のない定期発行物だけれど中身はなかなかしっかりしていて、これを無料でもらう子育て家族は嬉しいだろうなと思ったものだ。そういう冊子のデザインをタダでお願いしたいと言ってくるような面白い担当者がいて、冊子の中身をまとめて単行本にしたいと言う。
同じく福祉系出版社社長で面白い人がいて、面白い人と面白い人が結びつけば面白い本が出来上がるに違いないと思い、池袋駅前の酒場に場所を設定して対面の場を作った。和やかに酔って歓談して別れた後、それぞれにどうだったかを尋ねたら、何を言っているかわからなかったと言う。面白いという意味で変わった人同士の気が合うことは難しいかもしれない。
駅前の一本
その面白い人が退職間際になって長年の挨拶にこられ、ふと本棚に内田樹の本があるのを見て、実は自分も内田樹が好きなのだけれど「内田樹はどうして自分が何を知りたいかを知っているかのように、当を得た本を書いてくれるのだろう」と不思議がっていた。
内田樹の本はよく読む方だけれど、読みにくくてお手上げになることがない。今日も『私の身体は頭がいい』という本が届いたので読み始めた。武道の技というのは強い相手に対してほどかかりやすいそうで、技(わざ)とは相手の弱さではなく強さを利用して仕掛ける「返し」なのだという。内田樹の本というのは「内田樹はどうして自分が何を知りたいかを知っているかのように、当を得た本を書いてくれるのだろう」と頭をかしげながら買うような人の、もともと持っている力を利用した返し技になっているのだろう。
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武蔵野夕景
2016年9月9日
僕の寄り道――武蔵野夕景
仕事場のある8階から六義園越しに見える夕暮れが綺麗なので写真に撮ると、東京の夕暮れは美しいと感心されることが多い。東京の夕景も美しいけれど、それを包含する広大な武蔵野の夕暮れは、身体の芯から震えを感じるほどに美しい。
市街地はどこも高い建物が建て込んでしまっているけれど、ちょっと繁華な場所を離れれば、やはり武蔵野は空が広く、遥か彼方に丹沢や秩父山系の稜線が低く見える。その上にひとすじ紅蓮(ぐれん)の夕日と上澄みの茜(あかね)、群青から漆黒へとなだらかに暮れゆく空と月と一番星。武蔵野郊外の夕暮れには美しいというより寂寥(せきりょう)という言葉がふさわしい。
そういう武蔵野原にボツンと建つ病院に担ぎ込まれたひとまわり年上の友人を見舞い、そろそろ帰ろうと立ち上がったら美しい夕暮れだったことがある。ふたり病室の窓からぼんやり外を眺め、「日が暮れるからそろそろ帰ります」と言ったら、「おれ、死んじゃうのかなあ」と彼がポツリと言ったのが忘れられない。武蔵野の夕暮れは人を心細くさせる。
9月4日の誕生日。上京した清水の友人が帰るというので外を見たら、夕暮れの空に三日月と一番星、そして左下隅に小さく富士山が見えた。ネット上にアップしたら、「意気消沈しているとき東京の夕暮れを見て立ち直ったことがありました」というコメントがあったので、「そもそも広大な武蔵野の夕暮れが綺麗なのだけれど、東京は自然のさだめにあらがって暮らす人間のぬくもりが前景に加わることで、日暮れとはいえ救いの風景になっているのかも」と返事を書いた。
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人をおこす
2016年9月7日
僕の寄り道――人をおこす
9月7日、郷里清水の友人からいわゆる「町おこし」系の人を紹介され、最近は「いわゆる町おこし系」の人たちが好きではないのだけれど、前もって資料のビデオを送ってもらったら、からだを張って「自分起こし」をしているので会ってみる気になった。午前8時1分駒込発の日帰り帰省である。
打ち合わせを終え、江尻船溜りで見上げた空
戦後すぐからある割烹料理店で、中高生の頃はお呼ばれで何度か行ったことがある店、その三代目にあたるという。
「町おこしとは人を助けることだ」「協力してくれる住民ひとりすら幸せにすることもできずに地域活性化だの町おこしだの、片腹痛い」などと西部邁が書いたことを改ざんしながら「いわゆる町起こし系」の人の悪口を散々言ったら、そうだそうだと気があうので、できるだけのことは手伝わせてもらうことにした。清水帰省の楽しみがまた一つ増えた。
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田端機工街
2016年9月6日
僕の寄り道――田端機工街
9月6日は友人たちと王子で飲み会をした。飲み会前に友人のひとりと待ち合わせし、飛鳥山に登って渋沢栄一資料館を見学した。その時のことは友人が日記に書いている。
待ち合わせ時刻まで間があるので北とぴあのロビーで涼んでいたら、北区地域振興部産業振興課の広報誌が置かれているのが目についた。
広報誌の名前は『新しい風』といい99号は田端新町から昭和町にかけての昭和通りにある機械工具店街、通称機工街の特集だった。
特集と言ってもA3 二つ折り、A4 版4ページしかなく、本文は実質 2 ページしかないのだけれど、要点が非常にコンパクトにまとまっているので、あっという間に読めてちゃんと知識として残るようになっている。
だらだらとページを費やすよりこういうまとめ方のほうが難しい。ときどきもらいに行きたくなるし、バックナンバーを読んでみたくなる良い広報誌だと思う。
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身体が考えること
2016年9月6日
僕の寄り道――身体が考えること
難病に冒された人に向き合った学者の観察記録(「からだのないクリスチーナ」*1)を読み、もしも自分がそういう病気になったらどんな気分だろうかと考えてみる。つらい。自分で自分の手足を自分のものと認識して制御できない状況は想像しただけでもたいへんつらい。
人は頭だけでなくからだで考えているので、手足の存在を失うことは頭をもがれるようにつらく、「考える手足」は頭をもがれても悲しみを感じるだろう。頭を失った生物たちの死にざまを見ていてもそう思う。
読んだ観察記録は急性多発性神経炎の一種が原因の神経繊維損傷なのだけれど、パーキンソン症候群であることがわかるきっかけとなった義父の症状もよく似ていて、ギラン・バレー症候群を疑われたこともあったらしい。からだがまったく動かず、まぶたすらあけられなかったという。
「六番目の感覚とは、からだの可動部(筋肉、腱、関節)から伝えられる、連続的ではあるが意識されない感覚の流れのことである。からだの位置、緊張、動きが、この六番目の感覚によってたえず感知され修正されるのである。しかし、それは無意識のうちに自動的におこなわれるので、われわれは気づかないでいる。」(オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』*1より)
卑近な話になるけれど、頭で考えるよりからだで考え、まずからだを動かしたほうが、もっとましな結果になったのではないかと思うことが人生には多い。けれどそれはまずからだが勝手に動いてしまって思いがけずうまくいったことの結果論であって、自分に対して「からだを優先して、先につまらない考えを巡らさないこと」などと強いるのは難しい。強いようとすること自体、すでに頭が先行して考えているからだ。
そういう難しいことはついつい他人の考えに頼りたくなる。そんなわけで、思想家で武道家の先生の本を注文してみた。からだで考える前に本を読んで頭で考えるなどということをやめられないから、人はそういう散財をするわけだ。先生はそこのところをどう書いているのだろう。
★注文した本
内田 樹『私の身体は頭がいい 』文春文庫
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Suica の残高が気になって
2016年9月5日
僕の寄り道――Suica の残高が気になって
時計代わり、歩数計代わり、IC カード残高確認機能など、みんなスマホについているのだけれど、みんな多機能なぶん操作が煩雑で面倒臭い。
シチズン (CITIZEN) 電子マネービューアー付き歩数計 ホワイト TWTC501-WH というのを見つけたので溜まっていたポイントと交換してみた。
加速度センサーを利用したシンプルな歩数計なのだけれど、交通系カードなどの電子マネービューアーになっていて、タッチすると即座に残高確認ができる。基本的には「切替」ボタンで表示、「読取」ボタンで残高確認と非常にシンプルでわかりやすい。小さく軽く邪魔にならなくてとてもいい。
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同窓生は今
2016年9月5日
僕の寄り道――同窓生は今
同窓会というものに出たことがない。中学時代の同級生とは郷土誌の編集会議で年に何度か会っている。高校時代の同級生とは年に一度の賀状で安否確認をしあっている。大学時代の同級生とは結婚をしたので毎日会っている。その程度で縁は足りているのだけれど、小学生時代の同級生だけ全く音信が絶えている。
小学校卒業を待って母親は離婚調停を申し立て、正式に離婚が成立し養育権が母のものとなったので、生まれ故郷の静岡県清水市に戻って中学校に入学した。その時点で旧姓の古沢から石原になることで、妙な具合に過去との縁が切れている。そんなことも影響しているかもしれない。
少年時代に学区だった町をいま歩いても、当時の家で暮らし続けている友人はおどろくほど少ない。それは東京でも清水でも変わらなくて、懐かしい学区を訪ねても、家がそのまま残っている同級生は数えるほどになっている。
現在もその小学校まで歩いて通える距離に住んでいるのだけれど、白髪まじりの頭になって「こんにちは、ぼくはあなたの同級生なんですが覚えてますか」などと、おどおど訪ねて行く浦島になるのものも恥ずかしいのでそのままになっている。
いま友人の女性編集者と保育園の入園案内を作っている。その保育園は小学校のそばにあり、しかも編集者もその近所に住んでいて、さらに小学校同級生の実家である武道具店の常連だという。
竹刀を買いに出かけたついでに寄ってそんな話をしたら「お兄さん」が出てきて、社長は出かけていますが物覚えの良い人なのできっと同級生を覚えているはずですと言ったという。はてお兄さんはいたっけと問い返したら「お兄さん」とは同級生の息子のことで、綺麗な奥さんといっしょに店番をしているという。そう言われて自分が何歳になったのかをあらためて思い出した。
・もしかしたら友人が卒園生かもしれない保育園の仕事を偶然していること。
・仕事仲間の友人がお店の常連であること。
・息子の代になっていると知ってこりゃ大変な年に自分もなったと思い知ったこと。
・最近大病をされたが酒を飲めるほどに回復されているとのこと。
・懐かしい米屋の同窓生とはいまでも飲み友達と聞いたこと。
そんなふうにきっかけを数え上げていたら、思い切って連絡を取るなら「今でしょ!」と背中を押された気がしたのでメールを出してみた。
今はもうない小学校の校門
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鳥を彫る人たち
2016年9月4日
僕の寄り道――鳥を彫る人たち
大学受験のため上京した従兄を、都内の試験会場まで送り届ける役を小学生時代にさせられた。初めての駅からの道順を頭に叩き込み、試験に遅刻させるわけにいかないので、かなり緊張して役目を果たした記憶がある。そのとき以来会ったことのない従兄だが、彼の両親が百歳近くまで生きて相次いで他界したため、葬儀の場で久しぶりに再会することになり、互いに浦島太郎になって驚いた。
小学生の時に試験会場入り口で別れた従兄は、そのまま希望大学の理学部に入学し、大手電機メーカーに就職して定年まで働き、いまは趣味のバードカービングなどをしてのんびり暮らしているという。かいつまんで言うと、彼についてはそんな人生しか知らない。
親戚中、なぜか手先が小器用な者の多い家系ではあるけれど、原子炉プラントの建設や輸出をするような企業の社員だった人なので、イメージとかけ離れているようでちょっと意外な気がした。
2016年10月21日から28日まで、上野の東京都美術館で「第19回全日本バードカービングコンクール」の展覧会があるとハガキが送られてきた。どんな作品を作っているのか見に行こうと思ったら、ここ二、三年は多忙が原因で作品作りがうまくいかず、今回は出展していないという。年をとった姿を思い浮かべ、細かい鳥の彫り物を休んでいると聞いてなぜか安心したというのも不思議だ。
こういうものを掘る人はどんな気持ちでこつこつ彫っているのだろうと、その人の身になったつもりで考えるのも面白そうなので、散歩を兼ねて見に行こうと思う。
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スローなブギにしてくれ
2016年9月3日
僕の寄り道――スローなブギにしてくれ
友人からゆうパックが届いたら From の欄にある「お」や「ご」すなわち「御」にあたる部分が斜めの打ち消し線で消されていて感心した。受け取った返信用封筒の表書きでは注意してそうしているのだけれど、宅配便のそれを気にしたことがなかったので気くばりの細やかさに驚いた。というか依頼主欄に「お」「ご」「様」はもともと不要ではないだろうか。
感心する気配りの人がいる一方で、著名な某リース会社が送ってきた返信用封筒表書きには、「○○○○○リース株式会社 御中」と自分に敬語が使われていて驚いた。関西ではそうなのだろうか。普通自社名には相手にへりくだって「行」の一文字を添えて印刷し、「行」では相手を呼び捨てることになるので、差出人が「行」を打ち消し線で消して「御中」もしくは「様」と書き添えるのだと親に教わった。
親に教わったことは自然にそうやっているので、「行」を打ち消し線で消して「御中」と書き添えるたびに、南佳孝「スローなブギにしてくれ」の出だしが「おんちゅー」と自然に口を突いて出る。
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渇きと水
2016年9月2日
僕の寄り道――渇きと水
写真家の藤原新也だったか、こんな場所で死にたいと思う風景にふと出会うことがある、ということをどこかに書いていた。それが歩いていてなのか、列車の車窓を一瞬よぎる風景を見てなのかは忘れた。
こんな場所で死にたいと思ったことは一度もないけれど、こんな場所でわずかな間でも暮らしたいと思うことはよくある。今の暮らしを捨てるわけではなくて、ほんのわずかな期間でいいから、あの場所で寝起きしてみたいと思うことがあるのだ。
そういうことを口に出して冗談交じりで言うと、女性は真面目な顔で「引越しなんてとんでもない、なに言ってるのよ!」と目を三角にして怒るものらしい。男の浮気心に似た危うさを感じるのかもしれない。
男の方だって今の暮らしを捨てたいなどと思っているわけではないし、叶わぬ夢だとわかっているのだけれど、口に出して言ってみるだけで満足してしまう程度の心の渇きなので、「本気で言ってるわけじゃないってば」などと言い訳してみる。
種田山頭火が、自然の中で美味しい水が湧いている場所への感動を句にしていたっけと調べてみたら
こんなにうまい水があふれてゐる 山頭火
だった。その句のそばに、こんな場所に住めたらいいな、人生が少しは変わるかもしれないと思い、でも実行できるはずもなく、そう思ったり、口に出したり、句にしてみたりして心の渇きを癒している男の性分を、上手によんでいるのを見つけた。
こゝに住みたい水をのんで去る 山頭火
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