電脳六義園通信所別室
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【芝栄の時代】
【芝栄の時代】
清水市街地の神社巡りが好きな人はさまざまな神社で寄進者として芝野栄七の名前を見ることが多いはずである。
撮影日: 07.10.13 4:33:19 PM
Canon PowerShot TX1
神社で魚商「芝栄」こと芝野栄七の名前を探すより、山岡鉄舟の意志を継いで鉄舟寺を完成させた人と言った方が世間的には通りがよいかもしれない。
◉
コメント ( 7 ) | Trackback ( )
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屋号「芝栄」は二代に渡ったかもしれませんが、名前の世襲は無かったと思います。
魚問屋「芝栄」
ttp://www.geocities.jp/myluckturns/card/shimizuhatoba2.htm
この絵はがきページとともに参考にしたサイトにこんな事が書かれていました。
「芝野栄七が白井音次郎からの借地で養魚場を営んでいた」(次郎長翁を知る会サイトより)
http://jirocho.com/kaihou-12.html
末廣に隣接したこの土地で「養魚場」ってこの時代何を育てていたのでしょうね?
1 ウナギ
2 牡蠣・アサリ・ハマグリなどの貝類
3 世界初のマグロ養殖
4 トラフグ
5 ギンダベラ
この中に正解があるかなぁ…
そもそも我が国の養殖魚の歴史はさほど古くなく、記録では明治後期、流通用として本格化するのは昭和30年代に入ってからだそうです。
野沢広行著『鉄舟寺禅』の中に、
「明治の初め、移住幕臣たちの生活基盤として清水港の巴川尻に大規模な製塩所が設けられた。(中略)
ある日、大暴風のため製塩所が壊滅してしまい、そこから転げ出た無数の大石が船舶の出入り口をふさいでしまった。そこで次郎長も一肌脱ぎ、魚問屋芝野栄七が大勢の人夫を使って製塩所付近に大生簀を築造した。栄七は、これを養魚場に使った。」
「清水港の巴川尻の」場所というのは羽衣橋の北端側で現築地町付近。折戸湾に入ってきた魚が湾内を回遊し再び外海か巴川に進もうというその先に生簀を構えて様々な魚を生け捕っていたのではないかと想像します。
しかしこの土地が白井さん(N潟の人とは無関係)の所有する土地であったため、芝栄はその後13年にわたる裁判で白井氏と争い、優勢勝ちで得た示談金で鉄舟寺にある「次郎長木像」をこさえたといわれています。
ついでといったら親分にぶっさらわれますが、『次郎長フォーラム』開催のご案内です。
http://jirocho.com/foram.html
聞いてやっておくんなせい。
昔々、川や海が綺麗だった頃はボラも食用魚としてとてもポピュラーだったって言いますよね。
我が実家の祖父が若かりし頃もとても巴川が綺麗で、坂政合板の所の水管橋がいつも漏水しており、その水がしたたる場所にボラがたくさん集まっていたので、人々はすくい取って串に刺して炭火で焼き、味噌を塗って田楽にして食べていたけど「たぁまんなくうまいっけよ」と話していました。
僕が高校生で巴川河口に可動橋がまだあった頃、あの辺りに電柱のような丸太を置き、そこにごく短い竿を突き刺し、先っぽに鈴をつけて徹夜で釣りをしていた人たちがいっぱいいました。
何が連れるのかと聞いたらあの辺りはウナギがいっぱい釣れたんだそうです。
あの辺で「魚が湾内を回遊し再び外海か巴川に進もうというその先に生簀を構えて様々な魚を生け捕っていた」というのは確かに賢い商売だったかもしれませんね。
『次郎長フォーラム』
うーん月曜日か…。
ほんのわずかしか入ってないはずの某銀行普通預金口座解約手続きでもしに帰ろうかな。
>屋号「芝栄」は二代に渡ったかもしれませんが、名前の世襲は無かったと思います。
訂正:
今調べている途中ですが、「芝野栄七」の世襲はあったみたいで、昭和七年寄贈は「二代目芝野栄七」の可能性が出てきました。
美濃輪の稲荷への石灯籠寄贈も同じく昭和七年。栄七の「七」との関連もあるのだろうか?
芝栄の魚問屋から始まった清水魚市場の歴史。いつかそんなものをまとめられたらなぁと思っています。
どこに名前があるのか見つける度にメモしてみます。
『芝栄について』
↓
http://blogs.yahoo.co.jp/tomoegawabora/50316222.html