メディアは大学の研究室や調査機関と協力して情勢分析を進めているから、開票速報は最近、出口調査の結果が開示される番組冒頭でジ・エンドだ。とはいえ、EU離脱を巡る英国の国民投票と米大統領選の結末はドラスティックだったし、都議選でも想定外の突風が吹いた。
台風接近の明日はどうなるだろう。下馬評は自公圧勝だが、安倍政権支持と不支持率は拮抗している。俺はかねて枝野氏を否定的に論じてきたが、事ここに至った以上、立憲民主党を軸にした勢力が議席を増やし、自公、維新、希望の暴走を食い止めてくれることを願っている。
大番狂わせの期待といえば、まず菊花賞だ。捕らぬ狸の皮算用というべきだが、ダービー終了時、数頭のPOG指名馬が菊花賞に出走すると確信していた。ところが大将格アドミラブルがリタイアするなど思い通りにいかず、ゲートイン出来たのは⑤トリコロールブルーと⑥マイネルヴンシュの2頭のみだ。ともにステイゴールド産駒で、渋った馬場も有利に働く。両馬に②ウインガナドル、⑩ベストアプローチを絡めた馬連、ワイド、3連複を買ってレースを楽しみたい。
いしいしんじの「悪声」を前々稿で紹介した。読了後、条件反射のように手に取ったのは町田康の芥川賞受賞作「きれぎれ」(文春文庫)である。タイトルは他の町田作品に見られるように落語のオチに近い。町田作品を選んだのは〝導き〟があったからだろう。「悪声」を石川淳の「荒魂」を重ねたが、俺は町田の「告白」と「宿屋めぐり」を、<21世紀の日本文学が到達した高みで、石川淳の「狂風記」彷彿させる土着的パワーに溢れている>と別稿で評した。
石川淳以外の〝導き〟はダウナーな気分だ。人はパッとしない時、より冴えない者を見つけて安心しようとする。町田康、いや、町田ワールドの住人たちの偽悪的で自虐的な独白には親近感を覚えている。「きれぎれ」の主人公(俺、時々僕)も救い難い放蕩息子だった。
主人公は画家を志しているが、努力は一切しない。幼児性剥き出しの言動で嘲笑の対象になっている。画家として認められた吉原と、家業の実権を握る叔父に生理的反感を抱いているが、反抗は空振りで、相手にかすり傷ひとつ残せない。他のレビューをネットで読んだが、俺が気になったのに、誰も言及していない点が一つあった。それは女性観だ。
本作には対照的な二人の女性が登場する。良家の娘で見合い相手の新田富子、ランパブで働くサトエだ。キャラはパブリックイメージ通りだが、興味深いのは、主人公の主観で美醜が入れ違うことである。容貌もパッとせず退屈と感じた富子の前で、主人公は突飛な言動を繰り返し、意図通り破談になった。ところが、後に吉原と結婚した富子は美人という評判で、主人公も恋い焦がれるようになる。
一方のサトエは、結婚するやたちまち醜くなり、ゴミ屋敷と化した部屋でモグラのように棲息している。二人の姿は主人公の心象風景の反映だろうか……なんて考えていたが、パンクロッカー町田の作品を〝常識的〟に理解するのは不可能なのだろう。ロックや歌謡曲、落語や漫才のリズム、河内音頭、日本の古典、哲学、フランス文学といった幅広い語彙を坩堝で攪拌したのが町田ワールドなのだ。
併録作「人生の壁」は最初、「きれぎれ」の後日談かと思ったが、読むうちに混乱していく。脳が働き過ぎて廃人に至る強脳病に罹った男、頭蓋骨を透明にした男など、主人公と取り巻きがクレージーに暴れ回る。パラレルワールド、ヴァーチャルリアリティーでポップに下降する様は、悪夢や妄想といったレベルを超越したアヴァンギャルドの極致といえる。
より冴えない者を見つけて安心しようとした俺は、アナーキーなナイフで切り刻まれた。読了後、全身から血が噴き出す感覚が、妙に心地良かった。町田は「告白」や「宿屋めぐり」に匹敵する重厚な作品を発表しているようだ。次回は長編を読むことにする。
台風接近の明日はどうなるだろう。下馬評は自公圧勝だが、安倍政権支持と不支持率は拮抗している。俺はかねて枝野氏を否定的に論じてきたが、事ここに至った以上、立憲民主党を軸にした勢力が議席を増やし、自公、維新、希望の暴走を食い止めてくれることを願っている。
大番狂わせの期待といえば、まず菊花賞だ。捕らぬ狸の皮算用というべきだが、ダービー終了時、数頭のPOG指名馬が菊花賞に出走すると確信していた。ところが大将格アドミラブルがリタイアするなど思い通りにいかず、ゲートイン出来たのは⑤トリコロールブルーと⑥マイネルヴンシュの2頭のみだ。ともにステイゴールド産駒で、渋った馬場も有利に働く。両馬に②ウインガナドル、⑩ベストアプローチを絡めた馬連、ワイド、3連複を買ってレースを楽しみたい。
いしいしんじの「悪声」を前々稿で紹介した。読了後、条件反射のように手に取ったのは町田康の芥川賞受賞作「きれぎれ」(文春文庫)である。タイトルは他の町田作品に見られるように落語のオチに近い。町田作品を選んだのは〝導き〟があったからだろう。「悪声」を石川淳の「荒魂」を重ねたが、俺は町田の「告白」と「宿屋めぐり」を、<21世紀の日本文学が到達した高みで、石川淳の「狂風記」彷彿させる土着的パワーに溢れている>と別稿で評した。
石川淳以外の〝導き〟はダウナーな気分だ。人はパッとしない時、より冴えない者を見つけて安心しようとする。町田康、いや、町田ワールドの住人たちの偽悪的で自虐的な独白には親近感を覚えている。「きれぎれ」の主人公(俺、時々僕)も救い難い放蕩息子だった。
主人公は画家を志しているが、努力は一切しない。幼児性剥き出しの言動で嘲笑の対象になっている。画家として認められた吉原と、家業の実権を握る叔父に生理的反感を抱いているが、反抗は空振りで、相手にかすり傷ひとつ残せない。他のレビューをネットで読んだが、俺が気になったのに、誰も言及していない点が一つあった。それは女性観だ。
本作には対照的な二人の女性が登場する。良家の娘で見合い相手の新田富子、ランパブで働くサトエだ。キャラはパブリックイメージ通りだが、興味深いのは、主人公の主観で美醜が入れ違うことである。容貌もパッとせず退屈と感じた富子の前で、主人公は突飛な言動を繰り返し、意図通り破談になった。ところが、後に吉原と結婚した富子は美人という評判で、主人公も恋い焦がれるようになる。
一方のサトエは、結婚するやたちまち醜くなり、ゴミ屋敷と化した部屋でモグラのように棲息している。二人の姿は主人公の心象風景の反映だろうか……なんて考えていたが、パンクロッカー町田の作品を〝常識的〟に理解するのは不可能なのだろう。ロックや歌謡曲、落語や漫才のリズム、河内音頭、日本の古典、哲学、フランス文学といった幅広い語彙を坩堝で攪拌したのが町田ワールドなのだ。
併録作「人生の壁」は最初、「きれぎれ」の後日談かと思ったが、読むうちに混乱していく。脳が働き過ぎて廃人に至る強脳病に罹った男、頭蓋骨を透明にした男など、主人公と取り巻きがクレージーに暴れ回る。パラレルワールド、ヴァーチャルリアリティーでポップに下降する様は、悪夢や妄想といったレベルを超越したアヴァンギャルドの極致といえる。
より冴えない者を見つけて安心しようとした俺は、アナーキーなナイフで切り刻まれた。読了後、全身から血が噴き出す感覚が、妙に心地良かった。町田は「告白」や「宿屋めぐり」に匹敵する重厚な作品を発表しているようだ。次回は長編を読むことにする。