酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「サーミの血」~アイデンティティーと自由の狭間を問う

2017-10-05 22:52:24 | 映画、ドラマ
 カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞の報に、感慨に浸っている。長崎で生まれ、5歳時に両親と渡英したイシグロの作品は、英文学の白眉であると同時に、矜持、感応、諦念、もののあはれ、恥の意識といった和の情念に彩られた日本文学の精華なのだ。

 代表作「わたしを離さないで」について、<不条理と非情な仕組みを粛々と宿命的に受け入れる登場人物に違和感を覚える>(論旨)と記した。3・11以降の日本人の沈黙と重なったからである。日本人のDNA、そして英国の気風……。イシグロが引き裂かれた<アイデンティティーと自由のアンビバレンツ>に重なる映画を新宿武蔵野館で見た。「サーミの血」(16年、アマンダ・シェーネル監督)である。

 舞台のスウェーデンに加え、ノルウェーとデンマークが製作に携わっている。本作は世界中の映画祭で絶賛され、30歳のシェーネルは世界が最も注目する新鋭映像作家だ。サーミの血を継いでいることが本作を撮るきっかけになったという。主人公を演じた2人もサーミである。

 本作で「ラップランド人」(蔑称)と呼ばれるサーミは古来、トナカイの放牧を生業にする遊牧民で、現在はスウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアで暮らしている。<定着しないこと>と<主要な生産様式から排除されていること>が差別を生むのは万国共通で、本作には〝人権国家〟スウェーデンの知られざる裏面が描かれていた。

 エレ・マリャは10代半ばで自由を求め、サーミのコミュニティーを出た。きっかけは恋である。サーミ名を捨て、クリスティ-ナとして都会の荒波に放り込まれる。妹の葬儀に参列するため数十年ぶりに故郷に帰ったエレ・マリャは、親族と打ち解けられない。残った者、去った者の溝は深いのだ。21世紀から1930年代、そしてラストは21世紀に戻る。ラストで明かされる姉妹の絆に余韻は去らない。

 苦難の歴史を生き抜いたサーミと重なるのがアイヌだ。アイヌは明治政府によって言葉、名前、職業を奪われ<旧土人>と規定された。江戸幕府による弾圧は「蝦夷地別件」(船戸与一)、明治政府の暴虐は「静かな大地」(池澤夏樹)に詳述されている。この国の酷い貌を知る上でも必読の小説だ。

 本作でも歌われるサーミの伝統歌唱「ヨイク」とアイヌの叙事詩「ユーカラ」に通底するものを感じる。サーミとアイヌは現在、文化的交流を続けているという。サーミへの差別が、日本のように法制化に至ったかは不明だが、学校でサーミ語は禁止されていた。エレ・マリャは寄宿舎で屈辱的な仕打ちを受ける。サーミを人類学的にチェックするため派遣された研究者の前で、裸になることを余儀なくされるのだ。〝土人的〟扱いと差別は社会に蔓延していた。

 成績優秀だったエレ・マリャだが、高校進学の道を閉ざされていた。優しく接してきた女教師でさえ、「サーミは文明社会に対応出来ない。あなたには仕事(トナカイの放牧)が待っている」と言い放つ。反抗的になったエレ・マリャの前で、教師は〝理解者〟の仮面を脱ぎ捨て、〝支配者〟の素顔をのぞかせた。

 伝統と風習を守る温かいコミュニティー、個として生きる都会……。エレ・マリャが選んだのは後者だった。サーミほど極端ではないにせよ、俺も大学進学時、選択を迫られて後者を選んだ。だが、齢を重ねるにつれ〝里心〟が疼いてくる。とどまるか、あるいは越えるか、特殊な状況を背景にした本作は、誰しもが直面する青春の壁を描いた秀作だった。

 <連帯と共感>を生むと期待されたインターネットだが、現実は真逆で<分断のツール>になっている。本作を見る限り、21世紀のスウェーデンでもサーミへの差別が根強い。自由と民主主義を型通りに語るだけでは、人々の心から偏見を消し去ることは出来ない。ミャンマーにおけるロヒンギャ虐殺など、暗澹たる気持ちにさせられる事件が続いている。
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