世の中で落語といえば「笑点」のことらしく、誰が桂歌丸を継いで司会者になるかメディアは喧しい。俺は先月、三遊亭白鳥がトリを務める鈴本演芸場に足を運んだ。数十人の列に興味を持ったおばさん2人が看板を繁々と眺め、「知らない人ばっかり」と言って踵を返す。その夜は白鳥以外、橘家文左衛門、三遊亭天どん、柳家三三、春風亭一之輔といった錚々たる面々が名を連ねていた。
「笑点」に出演する落語家しか知らない人たちが、寄席やホールで至芸に触れる可能性は低い。両者を繋ぐ接点がないからで、人間国宝の柳家小三治でさえ世間的に無名なのだ。似たような課題を俺も抱えている。緑の党に入会して1年半、多様性とアイデンティティーの尊重、環境第一と脱原発、脱成長と循環型社会etc……。掲げる理想は残念ながら、殆ど外で知られていない。
ならば、意思を持って伝えるしかないと決意する。映画、文学、ロックに長年親しみ、感性を磨いてきた(つもり?)の俺は格好の目標を見つけ、視界が一気に広がった。それは<人と人を文化の糸で紡ぐこと>で、ブログに昨日、コメントしてくれた高坂勝さんはキーパーソンである。
夏の甲子園が始まった。第1回(1915年)から100周年でもあり、メディアの扱いも大きい。野球以外のスポーツが存在しなかったような〝一色ムード〟は、<集団化>を好む日本人らしい。1930年代、高校(当時は中学)スポーツで野球と匹敵する人気を誇っていたのはラグビ-で、戦死した山中貞雄(映画監督、享年28歳)は中国でも試合の結果を気にしていた。
「幻の甲子園~戦争に埋もれた球児たちの夏」(BS朝日)は秀逸なドキュメンタリーだった。大会史に残されていないが1942年8月、全国中等学校体育大会(今でいうインターハイ)の一環で、16校が甲子園に集結する。朝日新聞主催ではなく、軍部と文部省が統括していた。選手は「選士」と呼ばれ、打者は危険球をよけてはならず、ケガや体調不良による交代は禁止と、突撃精神が前面に掲げられた。
本作ではベスト4に残った徳島商(優勝)、平安中(準優勝=現龍谷大平安)、海草中(現向陽高)、広島商の過去と現在に迫っている。出場した選手が語る仲間への鎮魂の思い、原爆など戦災の悲惨さ、そして反戦の誓い……。メッセージは声高に叫ばれないが、見終えた時、安倍政権の愚かさが浮き彫りになってくる。
興味深かったのは台北工のエピソードだ。6月にミッドウェー海戦で敗れ、戦況は早くもアメリカに傾いていた。台湾と日本を航行する船の安全が保障されるはずはなく、命懸けの甲子園出場だった。<後方支援だから危険は小さい>と語る安倍首相の言葉は明らかな嘘である。米軍は戦時中、非戦闘員を運ぶ輸送船を多く沈めたし、イラクなどに派遣された自衛隊員は兵站担当部隊のシビアな状況を証言している。
本作は<悪夢の時代に翻弄された高校球児たち>という前提だが、へそ曲がりの俺は穿った見方をしてしまう。高校野球のメンタリティーは極めて軍隊に近いのではないかと……。頻繁に報じられているように、名門校では現在も不条理、非合理が罷り通り、いじめや暴力が横行している。国民の多くは酷いことが起きていることを承知しながら、<汗と涙と友情>の偽装ドラマを受け入れているのだ。
「フルメタル・ジャケット」(87年、キューブリック監督)、「半島を出よ」(06年、村上龍)、そして韓国映画の数々に描かれているように、軍隊における訓練はまさにしごきで、理不尽と服従を受け入れることが求められる。高校野球とは軍隊の基礎工程といっていい。自衛隊員の自殺者が公表されているだけで50人を超えることに、戦争と乖離した現在日本の土壌が窺える。
高校野球だけが純粋であるはずもない。シーズンが深まればプロ野球選手も、何十億も稼いでいるMLB選手だって必死の形相でプレーしている。若いから純粋というのは、人々が自分につく嘘の類だ。自身を振り返っても、10代、20代の頃の恋は欲望に衝き動かされていた。アラカンの今の方がよっぽど純粋である。
高校野球の最大の問題点は、よどんだ顔をした監督たちだ。奇麗事を言っているが、自らの支配欲と功名心のために選手たちを利用している。選手がプロに入る際、礼金を要求する輩もいるというからもっての外だ。高校野球は日本社会の負の部分を写す鏡にもなっている。
かく言う俺は勤め人だった20年、高校野球と不純に交遊してきた。複数のトトカルチョに毎年参加したが、何と全敗。高校野球の純粋?な女神が俺に微笑まなかったのは当然だろう。ちなみに、学校愛、会社愛、愛国心に甚だしく欠ける俺だが、郷土愛だけは人並みだ。高校野球に限らず京都のチーム(今夏は鳥羽)を応援してしまう。
日本人の美徳といっていい和の精神、思いやり、自己犠牲、協調性も高校野球にちりばめられている。だが、悲しいことに、それらは常に権力者に利用され、支配の便法になってきた。
「笑点」に出演する落語家しか知らない人たちが、寄席やホールで至芸に触れる可能性は低い。両者を繋ぐ接点がないからで、人間国宝の柳家小三治でさえ世間的に無名なのだ。似たような課題を俺も抱えている。緑の党に入会して1年半、多様性とアイデンティティーの尊重、環境第一と脱原発、脱成長と循環型社会etc……。掲げる理想は残念ながら、殆ど外で知られていない。
ならば、意思を持って伝えるしかないと決意する。映画、文学、ロックに長年親しみ、感性を磨いてきた(つもり?)の俺は格好の目標を見つけ、視界が一気に広がった。それは<人と人を文化の糸で紡ぐこと>で、ブログに昨日、コメントしてくれた高坂勝さんはキーパーソンである。
夏の甲子園が始まった。第1回(1915年)から100周年でもあり、メディアの扱いも大きい。野球以外のスポーツが存在しなかったような〝一色ムード〟は、<集団化>を好む日本人らしい。1930年代、高校(当時は中学)スポーツで野球と匹敵する人気を誇っていたのはラグビ-で、戦死した山中貞雄(映画監督、享年28歳)は中国でも試合の結果を気にしていた。
「幻の甲子園~戦争に埋もれた球児たちの夏」(BS朝日)は秀逸なドキュメンタリーだった。大会史に残されていないが1942年8月、全国中等学校体育大会(今でいうインターハイ)の一環で、16校が甲子園に集結する。朝日新聞主催ではなく、軍部と文部省が統括していた。選手は「選士」と呼ばれ、打者は危険球をよけてはならず、ケガや体調不良による交代は禁止と、突撃精神が前面に掲げられた。
本作ではベスト4に残った徳島商(優勝)、平安中(準優勝=現龍谷大平安)、海草中(現向陽高)、広島商の過去と現在に迫っている。出場した選手が語る仲間への鎮魂の思い、原爆など戦災の悲惨さ、そして反戦の誓い……。メッセージは声高に叫ばれないが、見終えた時、安倍政権の愚かさが浮き彫りになってくる。
興味深かったのは台北工のエピソードだ。6月にミッドウェー海戦で敗れ、戦況は早くもアメリカに傾いていた。台湾と日本を航行する船の安全が保障されるはずはなく、命懸けの甲子園出場だった。<後方支援だから危険は小さい>と語る安倍首相の言葉は明らかな嘘である。米軍は戦時中、非戦闘員を運ぶ輸送船を多く沈めたし、イラクなどに派遣された自衛隊員は兵站担当部隊のシビアな状況を証言している。
本作は<悪夢の時代に翻弄された高校球児たち>という前提だが、へそ曲がりの俺は穿った見方をしてしまう。高校野球のメンタリティーは極めて軍隊に近いのではないかと……。頻繁に報じられているように、名門校では現在も不条理、非合理が罷り通り、いじめや暴力が横行している。国民の多くは酷いことが起きていることを承知しながら、<汗と涙と友情>の偽装ドラマを受け入れているのだ。
「フルメタル・ジャケット」(87年、キューブリック監督)、「半島を出よ」(06年、村上龍)、そして韓国映画の数々に描かれているように、軍隊における訓練はまさにしごきで、理不尽と服従を受け入れることが求められる。高校野球とは軍隊の基礎工程といっていい。自衛隊員の自殺者が公表されているだけで50人を超えることに、戦争と乖離した現在日本の土壌が窺える。
高校野球だけが純粋であるはずもない。シーズンが深まればプロ野球選手も、何十億も稼いでいるMLB選手だって必死の形相でプレーしている。若いから純粋というのは、人々が自分につく嘘の類だ。自身を振り返っても、10代、20代の頃の恋は欲望に衝き動かされていた。アラカンの今の方がよっぽど純粋である。
高校野球の最大の問題点は、よどんだ顔をした監督たちだ。奇麗事を言っているが、自らの支配欲と功名心のために選手たちを利用している。選手がプロに入る際、礼金を要求する輩もいるというからもっての外だ。高校野球は日本社会の負の部分を写す鏡にもなっている。
かく言う俺は勤め人だった20年、高校野球と不純に交遊してきた。複数のトトカルチョに毎年参加したが、何と全敗。高校野球の純粋?な女神が俺に微笑まなかったのは当然だろう。ちなみに、学校愛、会社愛、愛国心に甚だしく欠ける俺だが、郷土愛だけは人並みだ。高校野球に限らず京都のチーム(今夏は鳥羽)を応援してしまう。
日本人の美徳といっていい和の精神、思いやり、自己犠牲、協調性も高校野球にちりばめられている。だが、悲しいことに、それらは常に権力者に利用され、支配の便法になってきた。
アホなんですか?