高村自民党副総裁は、「政府の警告を振り切ってシリア入りした後藤健二氏の行為は蛮勇」(論旨)と語った。ならば、人質2人の存在を把握した上でイスラム国を挑発した安倍首相こそ、日本人を危機に晒す「蛮勇のリーダー」ではないか。今回の件でテレビの取材を受けたジャーナリストはオンエアを見て愕然とする。政府の対応を批判した部分が全てカットされていたからだ。
「反安倍」を掲げる側が、メディアの翼賛会化を嘆いていても仕方ない。スコットランド独立の賛否を問う住民投票(昨年9月)では、BBCを筆頭に、反対派に与する英メディアの偏向は甚だしいものだった。それでも賛成派は斬新な方法で支持を広めていく。楽観派の俺は、志ある者が連携すれば流れは変わると確信じている。
「報道ステーション」(4日夜)にトマ・ピケティ(フランスの経済学者)が出演した。世界的ベストセラーの「21世紀の資本」では、<資産(株や不動産)は必ず賃金を上回り、必然的に格差が生じる>という仮説を、莫大なデータによって裏付けた。〝21世紀のマルクス〟と評する声もあるが、当人は資本主義の新たな可能性(格差の是正)を見据えている。
同国人のジャック・アタリと同じく、<資本主義の前提は民主主義>と強調していた。民主主義が機能すれば不平等は改善され、各国が協力すればグローバル企業から相応の税を徴収出来ると述べていた。富裕層(企業を含め)を優遇し、消費税アップで弱者から搾り取るアベノミクスに否定的であることが窺える。<格差と貧困が排外主義を育み、様々な社会不安の要因になる>は凡人たる俺の主張だが、天才ピケティが論理的に語ると、説得力はグーンと増す。
高村薫については頻繁に取り上げてきたが、最新作「四人組がいた。」(14年、文藝春秋)を読了した。前々作「太陽を曳く馬」(09年)を<純文学を超えた天上の文学>、前作「冷血」(12年)を<深淵と混沌の極みにそびえる搭>と絶賛しつつ、俺は作者の消耗を慮っていた。〝骨休め〟ともいえる本作に触れて、ひとまず安堵した。
12章から成る「四人組がいた。」は、他の作品と空気が異なる。帯に「高村薫 ユーモア小説に挑む」とあるが、四人組で思い出すのは文革だ。「ユーモア小説にしては文章が硬いし、そのうち社会的テーマに行き着くはず」と身構えていたが、ページを繰るうち、ほぐれていく。俺は虚実ないまぜの迷路に迷い込んだ。
四人組とは後期高齢者と思しき元村長、元助役、郵便局長、キクエ小母さんで、郵便局兼集会所でのんびり日々を過ごしている。舞台の村は合併で市になったが、変化の兆しはない。第1章「四人組、怪しむ」で頭に浮かぶのは、長閑な山あいの限界集落だ。四人組は恬淡、諦念、解脱と無縁で、老いても妄想と好奇心に支配されている。
山師、エセ宗教家、怪しいセールスマン、お尋ね者etc……。四人組が形づくる磁場に引き寄せられてドアを叩くのは、人間ばかりじゃない。動物や宇宙人まで人間に化けてやってくる。連中は四人組の暇つぶし、からかいの対象、遊び相手になるが、その場の会話が事件のきっかけになる。村は異界との出入り口、不老不死の妖怪村の様相を呈し、時間は迂遠に歪んで流れる。
本作のハイライトは第11章「四人組、伝説になる」だ。村が生んだアイドルグループ(実はタヌキの娘たち)の解散公演を応援するため、村人や獣たちが四人組企画の東京ツアーに参加した。高村のイマジネーションが爆発し、混沌と祝祭のステージはフィナーレを迎える。
高村ワールドに緊張を強いられてきたファンは、本作に開放感を覚えたはずだ。「わたしって、意外とおちゃめでしょう」と笑いながら。高村は筆を走らせたに違いない。戯画化して虚を描きながら、裏返しになったリアルを感じさせるのも高村らしい。ちりばめられた文明批評が、日本の現実を穿っていた。
高村は方向転換したわけではなさそうだ。重厚かつ濃密で、本来の色調とトーンに即した「土の記」を「新潮」に連載中という。新刊を心待ちにしている。
「反安倍」を掲げる側が、メディアの翼賛会化を嘆いていても仕方ない。スコットランド独立の賛否を問う住民投票(昨年9月)では、BBCを筆頭に、反対派に与する英メディアの偏向は甚だしいものだった。それでも賛成派は斬新な方法で支持を広めていく。楽観派の俺は、志ある者が連携すれば流れは変わると確信じている。
「報道ステーション」(4日夜)にトマ・ピケティ(フランスの経済学者)が出演した。世界的ベストセラーの「21世紀の資本」では、<資産(株や不動産)は必ず賃金を上回り、必然的に格差が生じる>という仮説を、莫大なデータによって裏付けた。〝21世紀のマルクス〟と評する声もあるが、当人は資本主義の新たな可能性(格差の是正)を見据えている。
同国人のジャック・アタリと同じく、<資本主義の前提は民主主義>と強調していた。民主主義が機能すれば不平等は改善され、各国が協力すればグローバル企業から相応の税を徴収出来ると述べていた。富裕層(企業を含め)を優遇し、消費税アップで弱者から搾り取るアベノミクスに否定的であることが窺える。<格差と貧困が排外主義を育み、様々な社会不安の要因になる>は凡人たる俺の主張だが、天才ピケティが論理的に語ると、説得力はグーンと増す。
高村薫については頻繁に取り上げてきたが、最新作「四人組がいた。」(14年、文藝春秋)を読了した。前々作「太陽を曳く馬」(09年)を<純文学を超えた天上の文学>、前作「冷血」(12年)を<深淵と混沌の極みにそびえる搭>と絶賛しつつ、俺は作者の消耗を慮っていた。〝骨休め〟ともいえる本作に触れて、ひとまず安堵した。
12章から成る「四人組がいた。」は、他の作品と空気が異なる。帯に「高村薫 ユーモア小説に挑む」とあるが、四人組で思い出すのは文革だ。「ユーモア小説にしては文章が硬いし、そのうち社会的テーマに行き着くはず」と身構えていたが、ページを繰るうち、ほぐれていく。俺は虚実ないまぜの迷路に迷い込んだ。
四人組とは後期高齢者と思しき元村長、元助役、郵便局長、キクエ小母さんで、郵便局兼集会所でのんびり日々を過ごしている。舞台の村は合併で市になったが、変化の兆しはない。第1章「四人組、怪しむ」で頭に浮かぶのは、長閑な山あいの限界集落だ。四人組は恬淡、諦念、解脱と無縁で、老いても妄想と好奇心に支配されている。
山師、エセ宗教家、怪しいセールスマン、お尋ね者etc……。四人組が形づくる磁場に引き寄せられてドアを叩くのは、人間ばかりじゃない。動物や宇宙人まで人間に化けてやってくる。連中は四人組の暇つぶし、からかいの対象、遊び相手になるが、その場の会話が事件のきっかけになる。村は異界との出入り口、不老不死の妖怪村の様相を呈し、時間は迂遠に歪んで流れる。
本作のハイライトは第11章「四人組、伝説になる」だ。村が生んだアイドルグループ(実はタヌキの娘たち)の解散公演を応援するため、村人や獣たちが四人組企画の東京ツアーに参加した。高村のイマジネーションが爆発し、混沌と祝祭のステージはフィナーレを迎える。
高村ワールドに緊張を強いられてきたファンは、本作に開放感を覚えたはずだ。「わたしって、意外とおちゃめでしょう」と笑いながら。高村は筆を走らせたに違いない。戯画化して虚を描きながら、裏返しになったリアルを感じさせるのも高村らしい。ちりばめられた文明批評が、日本の現実を穿っていた。
高村は方向転換したわけではなさそうだ。重厚かつ濃密で、本来の色調とトーンに即した「土の記」を「新潮」に連載中という。新刊を心待ちにしている。