酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「瓦礫の中から言葉を」~辺見庸の鎮魂の思いに心洗われ

2011-04-27 01:14:47 | カルチャー
 大震災や原発事故について、蓄積もないのにあれこれ綴ってきた。浅い井戸は尽き、喉も涸れている。干からびた俺を洗ってくれたのが、「こころの時代」(NHK教育)に登場した辺見庸だ。タイトルは「瓦礫の中から言葉を」である。

 中原中也賞を受賞した第1詩集「生首」は、俺の'10ベストブックだった。何より自らを穿つ言葉の凄みに、遺書代わりではと想像していたが、画面に映る辺見の顔は、思いのほか血色が良かった。

 辺見は記者としてカンボジア、ソマリア、ボスニアなどの戦場、人々が飢餓と疾病で斃れていくこの世の地獄を取材してきた。そんな折、辺見を苛んだのは〝コスモポリタン(デラシネ)としての罪の意識〟だったが、故郷石巻の惨状を目の当たりにし、自らのルーツを痛いほど認識したという。

 <ぼくは葦にひそみ 葦と葦の間から 入江を見つづけた 入江の中央に 銀色の水柱がそばだつのを ざわっと聳えるのを じっと待ちつづけた>……

 「入江」(「生首」収録)に記された辺見の予兆、孕み、怯え、畏れは最悪の形で現実になった。3・11を表す言葉は、数字以外に存在するだろうか。メディアの空疎な言葉は、事態の本質に迫っているだろうか……。こう問いかけた辺見は、以下のように語る。

 <放射能の水たまりに浸けられた瓦礫の中に、我々が浪費した言葉たちの欠片が落ちている。それを一つ一つ拾い集めて水で洗って、抱きしめるように組み立てていく>……

 辺見はテオドール・アドルノ(ユダヤ系ドイツ人)の<アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮である>という警句と、現在の日本と重ね合わせた。悲劇を経た後、文化が以前と同じであっていいはずはない。真綿でくるまれた表現は断じて許されないと……。

 表現者の質が試される時代が来た。平野啓一郎は3月21日、以下の一文をブログに載せていた。

 <今回の出来事を作品を通じて受け止められないのであれば、僕がこの時代に小説を書き続ける意味はありません。(中略)人間について、社会について、この経験を踏まえて、改めて考え直すというのは、むしろ小説家として、最低限やるべきことです>……

 辺見はここ数年、カミュの「ペスト」について言及してきた。病原菌の恐怖におののくオランの街と、放射能に脅える現在の日本は似たような状況にある。主人公のリウー医師が実践したのは<誠実さ>だ。献身的に患者に接するリウーの周りに、志ある者が集ってくる。

 尊い無数の個の死が数字に埋没して軽くなるのと比例するように、団結や国難が合唱され、人々は集団的鼓舞に踊らされている。だが、現在試されているのはあくまで個であると、辺見は繰り返し強調する。

 3・11を境に起きた精神面の著しい変化を、辺見は二つ挙げていた。第一は<ありえないこと>、<ありうること>、<避けられないこと>を巡る意識が根底的に覆ったことだ。<ありえない>と刷り込まれてきた原発事故だが、起きてみると〝核をコントロールできる〟という発想自体が傲慢で、宇宙の摂理に反していると思い至る。三つあった選択肢は<ありうること>と<避けられないこと>の二択に狭まった。

 第二は、死生観の変容だ。俺のように東京で暮らす者でさえ<偶然生き残った>と感じるほど、生と死の距離は縮まった。チェルノブイリを検証すれば、放射能汚染による〝緩やかな死〟の進行は<避けられない>かもしれない。辺見は倒立した死生観、絶望と悲嘆、鎮魂と痛みを取り込み、外部の廃墟に見合った内部を創ることが自らの使命と考えている。

 番組最後に新作が朗読される。5月7日発売の「文学界」に一挙掲載される書き下ろし詩篇「眼の海――わたしの死者たちに」からの一篇だ。遠からず文藝春秋から発行される第2詩集が、俺にとって'11ベストブックになるだろう。

 俺の力量では辺見の思いを十分に伝えきれない。関心を持たれた方は30日午後1時からの再放送をご覧になってほしい。
コメント (2)
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