酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ぼくのエリ~200歳の少女」~<愛の意味>を問う残酷なメルヘン

2010-07-27 02:56:18 | 映画、ドラマ
 数学者の森毅氏が亡くなった。享年82歳である。著書に触れたことはないが、自然科学に通じた氏の論評は実に刺激的だった。以下に一例を記したい。

 <蟻を働き者、普通、怠け者に3等分する。働き蟻を集めた〝精鋭軍団〟の勤勉度は33%ずつになり、怠け蟻だけの〝窓際集団〟も結果は変わらない。人間だって似たようなものだ>……。

 人は目に見えるものだけに踊らされがちだが、森氏は俯瞰の目と万年単位のスパンで物事を捉え、透徹した分析を提示した。ユーモアに満ちた庶民派学者の冥福を祈りたい。

 銀座テアトルシネマで先日、スウェーデン映画「ぼくのエリ~200歳の少女」(08年)を見た。1980年代の当地を背景に描かれたヴァンパイア映画で、<愛の意味>を鋭く問う作品だった。

 <愛の意味>と書いたが、俺はこの年(53歳)になっても愛の迷路で途方に暮れている。確実にいえるのは、愛に定番やマニュアルが存在しないことだけだ。一時期もてはやされた〝三高〟にしても、計算高さに基づく進化ではない。本能をむき出しにした女性たちの先祖帰りであることは、サル山を観察すればすぐわかる。

 <あなたたちが価値を置く愛は、そんなに素敵ですか>……。ペドロ・アルモドバルは自らの体験に根差し、「アタメ」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「トーク・トゥ・ハー」らの諸作品で、型通りの愛が到達しづらい神話を見る者の心に刻印した。

 「ぼくのエリ――」もまた、尋常ではない設定の上に成立した愛を描いている。主人公のオスカーは陰湿ないじめに遭う12歳だ。両親は離婚しており、母と暮らすアパートの中庭で、隣に引っ越してきた裸足の少女エリと出会う。

 エリは学校に通わず、おかしな匂いがする。直感が鋭いのか、ルービックキューブをたちまち完成させた。オスカーが年齢を問うと、エリは「だいたい12歳」と答え、自分の誕生日を知らないという。壁越しのモールス信号で交流するなど、孤独な二つの魂は相寄っていく。

 連続殺人が人々の耳目を集めていた。血を抜かれた惨殺体が街で相次いで発見される、犯人は隣室の住人でエリの保護者らしき中年男ホーカンだ。真っ暗な部屋、ホーカンを罵る恐ろしい声の主は……。未遂に終わった事件で連行される直前、ホーカンは自らの顔に塩酸をかけて病院に搬送される。エリが病室を訪ねた後、ホーカンは身を投げた。

 本作をヴァンパイア版「小さな恋のメロディ」と評する向きもあるが、色合いは全く異なる。エリはオスカーの初恋の相手だが、200歳のエリにとってオスカーは新たな保護者(共犯者)候補だ。エキゾチックで謎めいたエリは、オスカーを官能のとば口に誘う。血塗られたファーストキスは、希望と同時に呪いのスタートだったのか。

 本作を見終えた後、「ラビット」や「ブルート」(ともにカナダ製作)といったクローネンバーグの初期の作品を思い出していた。「ぼくのエリ――」同じく、異形の者を描くことで愛の本質に迫った作品だが、デジャヴを覚えた理由は作品の質感にある。スウェーデンとカナダは気候が似ており、灰色を基調にした映像はともに閉塞感を滲ませていた。

 他の選択肢が消えたオスカーは新たな一歩を踏み出す。ラストの列車のシーン、モールス信号で箱を叩くオスカーに、ホーカンの凄惨な表情が重なった。30年後も12歳のままのエリは、第二のオスカーを見つけているだろう。

 残酷で暗示的なメルヘンは「ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女」同様、ハリウッドでリメークされる。スウェーデンは今、エンターテインメントの発信地になっているようだ。

コメント (2)
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