酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「顔のない裸体たち」~ネットの海を漂流する男と女

2013-10-10 20:59:12 | 読書
 昨日朝、出勤間際に定期入れが定位置にないことに気付く。キャッシュカード、クレジットカード、パスモ、健康保険証、各種ポイントカードに現金と、必要なものが全て入っているから、腑抜けの気分で部屋を出た。

 前夜訪れたコンビニ2軒に電話したが、預かっていないという。カード会社と警察に届け出ようとした刹那、記憶が甦った。夜9時半に定期入れから名刺を取り出し、電話したことを思い出したのだ。帰宅すると、部屋にあった。予想と少し違った場所に……。

 この国は壊れつつあると当ブログで嘆いているが、俺自身の崩壊の方がより深刻だ。血糖値は高いし、膝、腰、肩とあちこち痛い。物忘れやボケだけでなく、解離性障害に似た感覚にしばしば襲われる。父は69歳で死んだが、今の俺の年齢(もうすぐ57歳)の頃、バリバリ稼ぎ、遊んでいた。俺は70の坂を越せそうもない。-

 平野啓一郎の「顔のない裸体たち」(06年、新潮文庫)を読了した。三鷹で起きた事件と重なる部分もあるので、リンクさせながら以下に綴る。本作、そして本作を下敷きにした「決壊」(08年)で、平野はネットという檻で増殖し暴走する狂気を提示した。「決壊」については別稿で、以下のように記している。

 <「決壊」における悪魔は、残虐な行為の主体というより、悪意を効率的に伝播して蔓延させる媒体なのかもしれない>……。

 ちなみに、「顔のない――」に登場するのは悪魔もどきだが、三鷹の事件で加害者(池永容疑者)は一線を越えてしまった。本作の2人の主人公は30過ぎで、交際サイトで知り合う。中学教師の吉田希美子と地方公務員の片原盈で、ハンドルネームはミッキーとミッチーだ。

 2人の共通点は存在感が希薄なことだ。希美子について作者は、<彼女は何処か、彼女自身というよりも、彼女を写した写真に似ていた>と記している。巨乳の持ち主だが、顔立ちが地味で、異性を惹きつけることはなかった。一方の盈は、衝動と闘っていることが透けて見え、同性からも異性からも避けられていた。

 池永容疑者と被害者はフェイスブックで知り合った。作中の2人と同様、<ネット恋愛>に分類されるかもしれないが、フェイスブックは透明性が高いツールだから、匿名性の強い他のSNSと同一に論じることに抵抗を持つ人はいるだろう。

 希美子と盈は出会った夜、肉体関係を持つ。盈は女性に対して支配的で、奥手の希美子を思いのまま扱う。〝三島の再来〟と評される平野は、男女の心と体の交わりを精緻に描くことに長けている。本作は「高瀬川」(03年)とともに秀逸なポルノグラフィーといえるだろう。

 盈は希美子の、そして池永容疑者は被害者を撮影していた。2人の男は撮ることで所有欲を満たし、女性を〝自分のモノ〟と錯覚していたのではないか。被害者に拒絶されて池永容疑者は逆上し、ネットに写真や動画をぶちまけた。

 一方の希美子は、盈が投稿したものに触れ、<(モザイクを施された)自分の顔が、見知らぬ匿名の裸体に乱暴に接合されている>と感じた。盈に怒りを覚えたが、膨大なアクセス数と自分の肉体を褒めそやす投稿の嵐に奇妙な優越感を覚える。誰にも気付かれなかった希美子は、ミッキーとしてサイトの〝女神〟になったのだ。

 冗談か本音か、盈が結婚を切り出した時、希美子は別れを意識する。希美子とミッキーは乖離し、盈は希美子には相応しい男ではないと冷静に分析する。結婚の仄めかしは、自分を永遠に所有したいという邪な願望に基づいていると確信したのだ。生じた亀裂に悪い予感がしたが。起きたのは喜劇であり、恥辱の極致だった。悲劇とカタストスロフィーは「決壊」に持ち越され、平野は<分人>というテーゼを世に問うことになる。

 <ネット恋愛>で思い出したのが、数年前の「世にも奇妙な物語」の一編だ。主人公(椎名桔平だっけ)は会社をクビになり、夫婦関係も冷え切っている。夫は妻の名前を使って交際サイトでメールをやりとりする。相手は女子大生のはずが、実は妻のストーカーで、夫は借金を返すため妻殺しを企てる。計画が成就した後、メール相手の正体が判明した。妻の愛を知り、夫が泣き崩れるというラストだった。

 本作、三鷹の事件、そして上記のドラマは、男と女がいかなる絆を築くべきかについて、考えるヒントを与えてくれる。識者は事件についてあれこれ論じるだろうが、嘘っぽく聞こえるに違いない。男女関係は全てのケースが特殊で、メディアが気軽に用いる<交際>という言葉にさえ、明確な基準はないのだから……。

 最後に、村上春樹が今年もノーベル賞を逃した。村上が敬意を抱くギュンター・グラスなど、「ブリキの太鼓」を発表してからノーベル賞まで40年かかった。焦る必要などない。
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