1970年代から80年代にかけ、京都で<デヴィッド・ボウイを嵯峨野で見かけた>という都市伝説が流布していた。これが真実であったことを数年前、「デヴィッド・ボウイの愛した京都」(WOWOW制作)で知る。京都だけでなく、ボウイの魂の彷徨に迫ったドキュメンタリー「ムーンエイジ・デイドリーム」(2022年、ブレット・モーゲン監督)をWOWOWで見た。
劇場では見逃したが、ライブ&インタビュー映像を含め、ボウイが真情を語るモノローグも収録された貴重な作品だった。熱烈なファンというわけではないが、それでもアルバムは15枚以上持っている。ボウイは光を乱反射する透明なプリズムとしてロック史を煌めかせた。タイトルは5thアルバム「ジギースターダスト」収録曲から取っている。
ボウイとは何か……。異星人としてロックシーンに登場した時、あれこれ否定的に叩かれていたが、一貫して変わらない姿勢があった。第一は自らの個性に則った上での自由の希求で、今風にいえば<多様性>に価値を置いていたのだ。ボウイは本作で<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる。社会階層の中心が嫌いで、中道に引き込まれたくない>と語っている。訃報に接し、英誌「ガーディアン」は<世界中のアウトサイダー、偉大なフリークスたちに心の拠りどころを与え、「異形であることを恐れるな」と鼓舞した偉大なイノベーター>(要旨)と記していた。
ボウイに影響を与えたのはジョン・コルトレーンや「路上」(ジャック・ケルアック)を薦めてくれた異父兄テリーだった。ボウイは「テリーは統合失調症で終生、病院で過ごした」と語っていた。「戦場のメリークリスマス」(1983年、大島渚監督)でボウイが演じたセリウズ少佐の贖罪を込めたモノローグに、半生と重なる部分を感じた。ボウイは芥川龍之介のように、いずれ訪れる狂気を恐れていたのではないか。
ボウイは自殺したテリーに自らを重ねていた。「デヴィッド・ボウイの愛した京都」で武田好史氏は、<ボウイは次の一歩が死へのダイブになりかねない、前人未踏の地点を歩み続けた。死への通路が無数に用意されている京都の魔力に惹かれ、同時に生を実感していたのではないか>と分析していた。
ボウイはLAに拠点を移したが、薬に溺れるなど生活のリズムを崩してベルリンで再出発を期す。音楽サークルとは距離を置くボウイだが、ベルリン3部作を共同制作したトニー・ヴィスコンティとブライアン・イーノとは晩年に至るまで親交があった。ヴィスコンティは本作のプロデュースも担当している。ボウイは<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる>と語っていたが、不遇だった頃のルー・リードやイギー・ポップにも手を差し伸べている。
ベルリンや京都で自らの奥深くを旅したボウイの次の一手はアメリカへの帰還だった。本作で自身を<究極の振り子>と評したボウイは、一方の極点に達すると、正反対であるもう一点へ自然と引き戻された。1980年代、ボウイはMTVの寵児になる。当時、パンク/ニューウエーブに漬かっていた俺は、自ずとボウイから離れた。当時をボウイは<金を稼ぎ、大規模ライブもやった。でも、もういい。人生の真空地帯に来た>と振り返っている。更なる〝チェンジ〟の時機が訪れたのだ。
政治的な発言は控えていたボウイだが、時代を変革する場所に立つ機会に巡り合った。1987年、西ベルリンで野外コンサートを開催した。壁の向こうに4本のスピーカーが設置され、数千人の東ドイツ市民が集まり、「壁を壊せ」と声を上げた。チェコ共和国初代大統領に就任したハヴェルの<音楽だけで世界は変わらない。しかし、人々の魂を呼び覚ますものとして、音楽は世界を変えることに大きく貢献できる>の言葉をボウイは体現したのだ。
ボウイは<僕は社会の優れた観察者で、分野ごとにカプセル化している。毎年かそこら、その年が何だったのかをどこかに刻印するために、どうなるかより、その年の本質を捉えようとする試みなんだ>と本作で語っている。だからこそ、ボウイは変化を先取り出来たのだろう。
「アースリング」(1997以降)、ショービジネスの一線から退いた作品群こそボウイの真骨頂ではないか。10年のインタバルを経て発表された「ザ・ネクスト・デイ」、そして「ブラックスター」は研ぎ澄まされた瑞々しい作品だった。蛇行と遡行を繰り返して半世紀、ボウイが駆け抜けた足跡に圧倒された。ロックに目覚めた頃からボウイとずっと一緒だったことの喜びを噛み締めている。
劇場では見逃したが、ライブ&インタビュー映像を含め、ボウイが真情を語るモノローグも収録された貴重な作品だった。熱烈なファンというわけではないが、それでもアルバムは15枚以上持っている。ボウイは光を乱反射する透明なプリズムとしてロック史を煌めかせた。タイトルは5thアルバム「ジギースターダスト」収録曲から取っている。
ボウイとは何か……。異星人としてロックシーンに登場した時、あれこれ否定的に叩かれていたが、一貫して変わらない姿勢があった。第一は自らの個性に則った上での自由の希求で、今風にいえば<多様性>に価値を置いていたのだ。ボウイは本作で<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる。社会階層の中心が嫌いで、中道に引き込まれたくない>と語っている。訃報に接し、英誌「ガーディアン」は<世界中のアウトサイダー、偉大なフリークスたちに心の拠りどころを与え、「異形であることを恐れるな」と鼓舞した偉大なイノベーター>(要旨)と記していた。
ボウイに影響を与えたのはジョン・コルトレーンや「路上」(ジャック・ケルアック)を薦めてくれた異父兄テリーだった。ボウイは「テリーは統合失調症で終生、病院で過ごした」と語っていた。「戦場のメリークリスマス」(1983年、大島渚監督)でボウイが演じたセリウズ少佐の贖罪を込めたモノローグに、半生と重なる部分を感じた。ボウイは芥川龍之介のように、いずれ訪れる狂気を恐れていたのではないか。
ボウイは自殺したテリーに自らを重ねていた。「デヴィッド・ボウイの愛した京都」で武田好史氏は、<ボウイは次の一歩が死へのダイブになりかねない、前人未踏の地点を歩み続けた。死への通路が無数に用意されている京都の魔力に惹かれ、同時に生を実感していたのではないか>と分析していた。
ボウイはLAに拠点を移したが、薬に溺れるなど生活のリズムを崩してベルリンで再出発を期す。音楽サークルとは距離を置くボウイだが、ベルリン3部作を共同制作したトニー・ヴィスコンティとブライアン・イーノとは晩年に至るまで親交があった。ヴィスコンティは本作のプロデュースも担当している。ボウイは<体制の外で活動する高潔な人に魅力を感じる>と語っていたが、不遇だった頃のルー・リードやイギー・ポップにも手を差し伸べている。
ベルリンや京都で自らの奥深くを旅したボウイの次の一手はアメリカへの帰還だった。本作で自身を<究極の振り子>と評したボウイは、一方の極点に達すると、正反対であるもう一点へ自然と引き戻された。1980年代、ボウイはMTVの寵児になる。当時、パンク/ニューウエーブに漬かっていた俺は、自ずとボウイから離れた。当時をボウイは<金を稼ぎ、大規模ライブもやった。でも、もういい。人生の真空地帯に来た>と振り返っている。更なる〝チェンジ〟の時機が訪れたのだ。
政治的な発言は控えていたボウイだが、時代を変革する場所に立つ機会に巡り合った。1987年、西ベルリンで野外コンサートを開催した。壁の向こうに4本のスピーカーが設置され、数千人の東ドイツ市民が集まり、「壁を壊せ」と声を上げた。チェコ共和国初代大統領に就任したハヴェルの<音楽だけで世界は変わらない。しかし、人々の魂を呼び覚ますものとして、音楽は世界を変えることに大きく貢献できる>の言葉をボウイは体現したのだ。
ボウイは<僕は社会の優れた観察者で、分野ごとにカプセル化している。毎年かそこら、その年が何だったのかをどこかに刻印するために、どうなるかより、その年の本質を捉えようとする試みなんだ>と本作で語っている。だからこそ、ボウイは変化を先取り出来たのだろう。
「アースリング」(1997以降)、ショービジネスの一線から退いた作品群こそボウイの真骨頂ではないか。10年のインタバルを経て発表された「ザ・ネクスト・デイ」、そして「ブラックスター」は研ぎ澄まされた瑞々しい作品だった。蛇行と遡行を繰り返して半世紀、ボウイが駆け抜けた足跡に圧倒された。ロックに目覚めた頃からボウイとずっと一緒だったことの喜びを噛み締めている。