まだ明けぬコロナ梅雨の下、人と人の距離は広がったが、彼我の境界線は縮んだように思う。そんな折、三浦春馬さんの自殺が報じられた。三浦さんは「ダイイング・アイ」(2019年、連続ドラマW)で主人公の心情を繊細に演じ切っていた。死にゆく彼の目に、何が映っていたのだろう。若き役者の冥福を心から祈りたい。
馳星周のデビュー作「不夜城」(1996年)、続編「鎮魂歌」、「夜光虫」に、ジェームズ・エルロイ並みのノワール小説の書き手が日本に現れたことを実感した。その馳の直木賞受賞の報に、まだ、取っていなかったのか……と驚いた。ノーベル文学賞にも合点がいかぬことが多いが、有力候補と目される多和田葉子の「百年の散歩」(2017年、新潮社)を読了した。
「百年の散歩」は全10章らなり、わたし(多和田の分身)がベルリンの10の通り、広場、環状通りをあてどなく散策する〝ベルリン彷徨詩集〟で、赤、白、青、緑など章ごとに基調になるカラフルな色彩を背景に、溢れ出るイメージを紡いでいく。
別稿(7月9日)で紹介した「よそ者たちの愛」テレツィア・モーラ著)と通底する部分もある。<匿名の身体になりたくてわざわざ都会の、しかも自分の住んでいない地区をうろうろする>わたしは〝よそ者〟の日本人で、同化できない疎外感から抜け出せない。ドイツ語と日本語の狭間での言葉遊びを、<飛んできたドイツ語が、わたしの脳の表面にぶつかった瞬間、ひらがなに変身した>と表現していた。
散歩するとは即ち休むこと。わたしは喫茶店やレストランが大好きで、♯1「カント通り」の書き出しは<黒い奇異茶店>である。あの人と合うという目的があるが毎章、すれ違いだ。公園のベンチに腰掛けながら<わたしはたった一人の人間を待つようにはできていないのかもしれない>と真情を吐露する。
あの人はメタファーかと思ったが、少しずつ肉付けされていく。わたしは同じ街に暮らすあの人に絵葉書を送るほど思いを寄せているが、<都市は水のように指の間からもれて、人間たちは気体になって蒸発し、期待して、待っても、今日、あの人はきっと来ないだろう>と諦念を滲ませる。ラストの<別れというのは、こんなに快い、春のようなものだったのか>に決別の思いを込めたのだろうか。
観察力に根差したベルリン論、都市への憧憬が綴られるが、章が進むごとに多和田の思想信条が貌を表してくる。リスペクトする者の名を冠した通りを選んでいるのだ。カント、カール・マルクス、ローザ・ルクセンブルク、プーシキン、リヒャルト・ワーグナーは知名度が高い。
一方で、レネー・シンテニス、コルヴィッツ、トゥホルスキー、マヤコフスキーの業績は殆ど知らなかった。反抗と変革を訴え、弾圧と闘い、前衛の表現者として世界を震撼させた彼らの生き様に現在のベルリンを重ねせ、時空を往き来する。タイトルの<百年>は〝マジックリアリズムの本家〟ガルシア・マルケスの「百年の孤独」にインスパイアされたのだろう。
ローザ・ルクセンブルクへのオマージュを感じた。ローザ・ルクセンブルク広場で人の波に逆らいながら、わたしは碑に刻まれたローザの言葉<ブルジョワ社会は名誉を失い、汚いものをぽたぽた体から垂らしながら血の池の中を歩いている>を読み、<歩道は知で赤く濡れていた>と続けている。
全編に戦争への忌避感が溢れていた。ナチスドイツに抵抗した白薔薇の芝居が紹介され、二つの世界大戦直後と現在のベルリンが交錯するイリュージョンが描かれている。わたしは子供の幽霊に導かれ、100年前のベルリンを訪れる。コルヴィッツの夫は貧しい人々に手を差し伸べる医者だった。自分の居場所が曖昧になったわたしは、あの人に会えるのか不安になる。
<死から逆算し、詩を二乗しながら生きている>など、イメージの連なりと詩的な表現がちりばめられている。舞台「賭博者」(ドストエフスキー原作)のエロスを軸にした解読には陶然とさせられた。♯7「リヒャルト・ワーグナー」ではオペラと物語をリンクさせている。
各章の扉を叩くたびに迷宮に誘う作者の想像力と創造力に感嘆させられた。未読の小説を少しずつ読破し、〝多和田ワールド〟の頂に近づきたい。
馳星周のデビュー作「不夜城」(1996年)、続編「鎮魂歌」、「夜光虫」に、ジェームズ・エルロイ並みのノワール小説の書き手が日本に現れたことを実感した。その馳の直木賞受賞の報に、まだ、取っていなかったのか……と驚いた。ノーベル文学賞にも合点がいかぬことが多いが、有力候補と目される多和田葉子の「百年の散歩」(2017年、新潮社)を読了した。
「百年の散歩」は全10章らなり、わたし(多和田の分身)がベルリンの10の通り、広場、環状通りをあてどなく散策する〝ベルリン彷徨詩集〟で、赤、白、青、緑など章ごとに基調になるカラフルな色彩を背景に、溢れ出るイメージを紡いでいく。
別稿(7月9日)で紹介した「よそ者たちの愛」テレツィア・モーラ著)と通底する部分もある。<匿名の身体になりたくてわざわざ都会の、しかも自分の住んでいない地区をうろうろする>わたしは〝よそ者〟の日本人で、同化できない疎外感から抜け出せない。ドイツ語と日本語の狭間での言葉遊びを、<飛んできたドイツ語が、わたしの脳の表面にぶつかった瞬間、ひらがなに変身した>と表現していた。
散歩するとは即ち休むこと。わたしは喫茶店やレストランが大好きで、♯1「カント通り」の書き出しは<黒い奇異茶店>である。あの人と合うという目的があるが毎章、すれ違いだ。公園のベンチに腰掛けながら<わたしはたった一人の人間を待つようにはできていないのかもしれない>と真情を吐露する。
あの人はメタファーかと思ったが、少しずつ肉付けされていく。わたしは同じ街に暮らすあの人に絵葉書を送るほど思いを寄せているが、<都市は水のように指の間からもれて、人間たちは気体になって蒸発し、期待して、待っても、今日、あの人はきっと来ないだろう>と諦念を滲ませる。ラストの<別れというのは、こんなに快い、春のようなものだったのか>に決別の思いを込めたのだろうか。
観察力に根差したベルリン論、都市への憧憬が綴られるが、章が進むごとに多和田の思想信条が貌を表してくる。リスペクトする者の名を冠した通りを選んでいるのだ。カント、カール・マルクス、ローザ・ルクセンブルク、プーシキン、リヒャルト・ワーグナーは知名度が高い。
一方で、レネー・シンテニス、コルヴィッツ、トゥホルスキー、マヤコフスキーの業績は殆ど知らなかった。反抗と変革を訴え、弾圧と闘い、前衛の表現者として世界を震撼させた彼らの生き様に現在のベルリンを重ねせ、時空を往き来する。タイトルの<百年>は〝マジックリアリズムの本家〟ガルシア・マルケスの「百年の孤独」にインスパイアされたのだろう。
ローザ・ルクセンブルクへのオマージュを感じた。ローザ・ルクセンブルク広場で人の波に逆らいながら、わたしは碑に刻まれたローザの言葉<ブルジョワ社会は名誉を失い、汚いものをぽたぽた体から垂らしながら血の池の中を歩いている>を読み、<歩道は知で赤く濡れていた>と続けている。
全編に戦争への忌避感が溢れていた。ナチスドイツに抵抗した白薔薇の芝居が紹介され、二つの世界大戦直後と現在のベルリンが交錯するイリュージョンが描かれている。わたしは子供の幽霊に導かれ、100年前のベルリンを訪れる。コルヴィッツの夫は貧しい人々に手を差し伸べる医者だった。自分の居場所が曖昧になったわたしは、あの人に会えるのか不安になる。
<死から逆算し、詩を二乗しながら生きている>など、イメージの連なりと詩的な表現がちりばめられている。舞台「賭博者」(ドストエフスキー原作)のエロスを軸にした解読には陶然とさせられた。♯7「リヒャルト・ワーグナー」ではオペラと物語をリンクさせている。
各章の扉を叩くたびに迷宮に誘う作者の想像力と創造力に感嘆させられた。未読の小説を少しずつ読破し、〝多和田ワールド〟の頂に近づきたい。