酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「雪の階」~奧泉光が仕掛けた壮大な文学の実験

2019-02-16 19:35:03 | 読書
 藤井聡大七段が朝日杯将棋オープンを連覇した。昨年は広瀬現竜王、羽生九段を準決勝、決勝で破ったが、今年の決勝の相手は絶好調の渡辺明棋王だった。藤井は中盤でリードを奪い、最終盤で鋭い切れ味を見せた。対局に色を添えたのは、高見叡王と深浦九段によるユーモアたっぷりの解説だった。

 昨年の米中間選挙で、イスラム教徒の女性下院議員2人(ともに民主党)が誕生した。<多様性>を象徴するラシダ・トレイブ(ミシガン州選出)とイルハン・オマール(ミネソタ州選出)だが、保守派の攻撃に晒されている。ゲイを公表し、自身も<多様性>の価値を体現するグレン・グリーンウォルド(ジャーナリスト)が以下のようにツイートした。

 <マッカーシー共和党院内総務は、イスラエルを批判したトレイプとオマール両議員を罰すると脅している。米国の政治指導者が自国における言論の自由を侵すことも辞さず、多大な時間を費やしてイスラエルを擁護していることに驚かされる>……。

 最近の小説を読み漁ったことで<多様性>の意味に気付いた。それが緑の党入会のきっかけになったのだが、それはともかく、日本文学のトップランナーは<多様性>を作品の軸に据えている。そのひとり、奧泉光の最新作「雪の階」(2018年、中央公論新社)を読了した。

 メタフィクションとマジックリアリズムの手法を駆使した「東京自叙伝」(14年)、極大(人類の危機)と極小(個の遺伝子)の連なりを希求したSFエンターテインメント「ビビビ・ビ・バップ」(16年)、そして本作……。短いインターバルで大作を発表する奧泉は、キャリアのピークを迎えているらしい。

 「雪の階」の舞台は二・二六事件(1936年)前夜だ。主人公の笹宮惟佐子は伯爵家令嬢で、数学が得意で囲碁も強い。論理と直観に秀でた女子大生だが、食虫植物のように男を翻弄する淫靡さを併せ持っている。唯一の友である宇田川寿子が失踪し、富士の樹海で遺体になって発見される。心中死との報道が世間を賑わせた。

 神秘主義者でナチスの優生思想の支持者であるピアニストの来日と寿子の死はリンクしている……。そう考えた惟佐子は、自身の少女時代、〝おあいてさん〟(遊び相手)として笹宮家に仕えていたカメラマンの千代子に協力を要請する。

 寿子は天皇機関説を唱える学者の娘、心中相手とされる陸軍士官は絶望的な格差を憂える皇道派に属していた。死出の旅路を共にするなんてあり得ないと惟佐子は直観していた。千代子は顔見知りの蔵原記者と調査を開始するが、ミステリアスな不審死が相次いだ。

 オルタナティブ・ファクト(起こり得た史実)を描いた小説ゆえ、当時の状況が織り込まれている。惟佐子の父は威勢良く天皇機関説を排撃する貴族院議員だが、魑魅魍魎が跋扈する政界を泳ぎ切る器ではない。アメリカに憧れる異母弟が〝洗脳〟によって瞬く間に底の浅い愛国者に様変わりする辺り、1930年代の日本の空気を反映していた。

 ソ連やドイツの間諜が蠢き、物語の系は絡まったり、よじれたりしつつ、惟佐子周辺に収斂していく。実験性とエンターテインメントを巧みに混淆させ、物語を紡ぐ奧泉の手腕に感嘆させられた。千代子と蔵原のサイドストーリーに癒やしとカタルシスを覚える。

 「石の来歴」と「浪漫的な行軍の記録」を紹介した稿で、奧泉を〝遅れてきた戦争文学者〟と評したが、反戦の思いは惟佐子、千代子、榊原の言動に滲んでいた。ミステリーの形式を採ることについて著者自身、「長編についてきてもらうための有効な技法」(要旨)と語っていた。バラエティーに富む登場人物、造詣の深い分野への蘊蓄など、奥泉ワールドは万華鏡の趣がある。

 二・二六事件は<天皇親政を目指したクーデター>とされるが、革新派将校の理論的主柱だった北一輝は10代の頃から反皇室主義者で、大逆事件に連座する可能性もあった。<木偶として担いだ天皇を実権獲得後、政治の世界から追う>道筋を見据えた革命家が、実像に近いのではないか。岸信介は北一輝に師事した。安倍首相の皇室軽視、国家社会主義的施策に、岸の、そして北の影が窺える。

 惟佐子の血脈が、二・二六事件に重なっていく。皇室を渡来者の末裔と断じ、日本古来の聖なる血を受け継ぐ神人が日本の新時代を切り開く……。そう刷り込まれた惟佐子の記憶の片隅に、神秘的な心象風景が焼き付いていた。惟佐子の決断に結末が委ねられる。

 タイトルの「階」の読みは「きざはし」で、階段の意味だ。著者は<我々もまたどこかの階段の途中にいて、なにかしら不穏な空気を感じている>と作意を述べていた。二・二六事件から80年余、この国の空気は冷め切り、悲しいほど淀んでいる。
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