酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ペルーの異端審問」~聖と性の境界を笑い飛ばす猥雑な人間賛歌

2017-03-17 12:48:47 | 読書
 奇妙な夢を見た。入浴中、天井から5㌢ほどのヒルが落ちてきて肩に止まる。「ギャー」と叫んで、掴んで浴槽に投げると、事態はさらに悪化した。ヒルは膨らみながら浮上し、鼠からリス、やがて猫に形を変え、ひょいと流し場に降り立った。心臓が破裂するかと感じた刹那、アラームが鳴る。

 渡瀬恒彦さんが亡くなった。映画でも5作品で主演賞、助演賞に輝いているが、テレビでの活躍は傑出している。刑事ドラマは俺にとって〝飯の供〟で、録画して数日後に見るのがパターンだが、渡瀬さんこそ〝最高のおかず〟というべき役者だった。優しさや怒りを目で表現し、おのずとチームの結び目になっている。強烈な個性を束ねる「警視庁捜査一課9係」が典型だった。最も印象に残るのは「十津川警部シリーズ」で、ラストでの伊東四朗(亀井刑事役)との掛け合いに心が和んだ。親和力に秀でた名優の死を心から悼みたい。

 〝籠池爆弾〟が安倍政権を追い詰めている。登場する籠池夫妻、首相夫妻、稲田防衛相、松井大阪府知事、鴻池元防災相らを繋いでいるのは教育勅語だ。古今東西、<大声で倫理を説く輩は怪しい>という〝真理〟は、上記の人たちにも当てはまる。徳を説く同志に切り捨てられた憤りが、籠池氏の逆噴射の理由なのだろう。

 政治家、教育者、軍人といった連中は大抵、怪しく薄っぺらだ。果たして宗教家はどうだろう。「沈黙-サイレンス」(16年、マーティン・スコセッシ監督)に登場したロドリゴとガルベの苦悩は想像を絶するものがあった。全ての修道士は2人のように高潔かつストイックだったのか……。そんなことはない。聖人であっても状況によって変わることを「ペルーの異端審問」(新評論)は描いている。

 著者のフェルナンド・イワサキは日系3世だが、写真を見る限り、日本人だけでなく複数の民族の血を継いでいるようだ。DNAだけでなく、イワサキは歴史家、文献学者、評論家、そして作家と複数の顔を持つ。その懐の深さとキャパの大きさが、本作に無限の広がりを持たせ、読む側の想像力を掻き立てる。

 発表後20年も邦訳されなかったのも不思議だが、巻頭言の筒井康隆、序文のバルガス・リョサの名に惹かれたのも購入した理由のひとつだ。17編から成る短編集で、帯には「中世の欲情短編集」とあるが、日本の区分でいえば近世(1500~1600年代)リマを舞台にしている。ちなみにカトリックによる異端審問は、ルターらの宗教改革への対抗措置だった。

 悪魔に操られて聖職者たちを次々に籠絡した女、多くの淑女と関係を持った聴罪司祭、イエス・キリストと寝たと語る女たち、死後もペニスが屹立したままの聖人、囚人や修道士の精液を材料に菓子を作る女、背徳文学を誘惑の手段にする修道士、天使を自称し全裸で闊歩する女……。強烈なキャラが各編に登場する。現在風にいえば性依存症、倒錯のオンパレードだ。女たちの告白は赤裸々で、修道士の多くは光源氏並みのドンファンである。

 一読して、「マジックリアリズム」の系譜に連なり、「メタフィクション」の手法を極めた小説と感じた。もっともらしい史料も含め、全てフィクションと結論付け、筒井の巻頭言とリョサの序文を再読して腑に落ちた。すべて、史実に基づいている!

 セビリアに移住したイワサキは、ペルーからスペインに持ち去られた虫食い状態の史料を精査する。想像と創造を施した本作では、善と悪、正義と罪、純潔と淫蕩、情熱と冷酷が奇妙な整合性をとって個人の中に同居している。人々は束縛から逃れようと喘ぐが、欲望という縛りから決して自由になれない。「ペルーの異端審問」は聖と性の境界を彷徨う人間を肯定的に描く人間賛歌である。

 かねて不思議に思っていたのは、フランス、イタリア、スペイン、そして南米と、享楽的、情熱的、刹那的とされる国で、戒律が厳しいカトリックが信奉されていることだ。非キリスト教徒の俺の理解を超えた〝了解の仕組み〟が暗黙の裡に成立しているのだろう。本作では拷問の血なまぐささは抑えられ、悪業も懺悔や告解で赦される。異端と審判が下っても国外追放、鞭打ち程度で、愚者、狂人と判断されたら罪は軽くなる。唆した悪魔が罪を負うこともしばしばだから、神と悪魔は分ち難い対語なのだろう。

 偽悪者たる俺は自称〝煩悩の塊〟だが、本作の登場人物には遥かに及ばない。人間とは滑稽かつ哀れで、愛すべき存在だと教えられた。上記した「沈黙」の2人の神父が、日本ではなくペルーに派遣されていたら……。愚にもつかないことを妄想して悦に入っている。
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