酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「独裁者と小さな孫」~憎悪の連鎖を断ち切るために

2015-12-15 23:55:17 | 映画、ドラマ
 当ブログでも今年前半のリベラル=ラディカルシフトについて記してきた。スペインのポデモスが象徴だが、直接民主主義が議会制民主主義に直結する動きが現れてきた。スコットランド独立の動きを推進した国民党、最左派コービンの英労働党党首就任、米大統領選民主党候補指名争いにおける社会主義者サンダース候補の健闘、台湾のひまわり運動と香港の雨傘革命……。空気を共有するように、日本でも戦争法案への抗議が広がった。

 好ましい方向に世界は進みつつある……。そんな希望は潰えてしまった。シリア難民問題が顕在化したあたりで潮目が変わる。先進国による殺戮に目を瞑り、<イスラム教徒=テロリスト>と見做す風潮が広がっている。共和党指名争いをリードするトランプ候補は「イスラム教徒入国禁止」発言後、支持率が急上昇する。極右躍進もフランスだけでなく全欧に広がっており、ドイツでは難民受け入れに積極的なメルケル首相への風当たりが強まっている。

 世界を覆う二元論的思考を助長しているのは、二進法で成立するインターネットだ。人々を世界に解き放つツールのはずだったインターネットは、無数の<思考のタコツボ>を創り上げる。低レベルで善悪が切り分けられ、排外主義に彩られたナショナリズムが勃興している。

 そんな世界で今、最も見られるべき映画「独裁者と小さな孫」(2014年、モフマン・マフマルバフ監督)を封切り初日、新宿武蔵野館で観賞した。制作国にはジョージア(旧グルジア)、仏、英、独が名を連ねており、台詞は全編、ジョージア語だ。

 俺にとって〝映画の聖地〟はハリウッドでもなく、フランスでもない。ここ30年、イラン出身の監督たちは映画を寓話、神話の領域に高めた。その中心的存在といえるのがマフマルバフで、シネフィルイマジカ(現イマジカBS)でオンエアされた「サイクリスト」(1989年)、「ギャベ」、「パンと植木鉢」(ともに96年)、「カンダハール」(01年)に深い感銘を覚えた。扉を開いてくれたのがマフマルバフで、当ブログでその後、多くのイラン映画について記してきた。

 マフバルバフについて、どんな風に書いていたのだろう……。これまでの稿を検索してみて驚いた。ヒットしないのである。理由を思いついた。当時の俺、そして今もそうだが、マフマルバフの作品を論じるレベルに達していなかったから、やり過ごしたのだ。「独裁者と小さな孫」は俺にとって、初めてのマフマルバフ評になる。

 冒頭が印象的だ。大統領(ミシャ・ゴミアシュウィリ)と孫が、高台にある宮殿から首都の夜景を見下ろしている。祖父は孫に、独裁者の力を見せつける。「明かりを全て消せ」と電話で命じると闇になり、「灯せ」と伝えれば煌々たる街が甦る。孫もこのゲームに加わるが、やがて闇が停滞し、砲弾による光の渦があちこちで生じる。

 親族は翌朝、海外に飛び立つが、自身の力を過信した大統領、お祖父ちゃん大好きの孫は国に残る。2人を待ち受けていたのは、「アラブの春」を伝えるニュース映像そのままのデモだ。うねりは分単位で抗議運動から叛乱へ、そして軍も加担したクーデターに拡大する。賞金首になった祖父と孫は正体を偽るため、旅芸人に身をやつした。

 映画は主人公の主観で進行する。汚れなき孫の澄んだ瞳にほだされ、独裁や権力を嫌う俺だが、いつの間にか大統領に肩入れしていた。かつての女性との関わり、少年(今は中年)との交遊も描かれ、冷酷非道の独裁者が〝人間〟だった頃の面影が窺われる。マフマルバフの他の作品ほどシュールではなく、独裁者は旅の過程で、自分が治めていた国のリアルな貌を知る。

 決定的なエピソードは、自身の命令で投獄された活動家たちとの邂逅だった。独裁者は拷問によって歩けなくなった男を背負い、恋人の元に送り届ける。待ち受けていた哀しい現実に、独裁者は心の中で慟哭した。反体制派の中には、息子夫婦、即ち孫の両親の命を奪った者もいる。独裁者が怒りを収めたのは、保身のためではなかった。

 権力崩壊後、起きることは決まっている。かつて体制側にいた連中が看板をすげ替え闊歩するのだ。本作にも傍若無人に振る舞う自称〝叛乱軍〟が登場し、独裁者は彼らの蛮行に自身の来し方を重ねる。無垢な孫との道行きは、赦しと救済の旅でもあった。

 イラン映画のラストは常にミステリアスで、結末は見る側の判断に委ねられる。本作では反体制派だった男が現れ、勇気を持って<憎悪の連鎖を断ち切ること>を訴える。海辺で旅芸人の老人と戯れる孫、そして独裁者の運命は? 俺にとって理想的なエンディングは恐らく、他の方とは異なっているだろう。

 多様性を重視し、アイデンティティーを尊重する……。俺が会員である緑の党の理念は、本作のテーマと重なる部分もあるが、二元論が幅を利かす国内外で、今や「風にそよぐ葦」の如き状態だ。13年末の参院選で緑の党公認候補(比例区)だった三宅洋平は、演説で「チャランケ」(アイヌ語でとことん話し合うこと)を頻繁に用いた。憎悪の連鎖を断ち切るために必要なのは「チャランケ精神」だと確信している。
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