昨日(4日)は鈴本演芸場の新春特別興行(第3部)に足を運んだ。柳家小三治の休演日だったが立ち見も出る盛況で、トリの三三まで手練れの芸を満喫した。個人的なハイライトは権太楼で、「代書屋」の軽妙なやりとりに聞き惚れる。落語だけでなく正楽の神業の紙切り、場を和ませる夢葉の奇術など、3時間余は瞬く間に過ぎた。
アイデンティティー拒否症候群の俺だが、高校スポーツは素直に郷里のチームを応援する。サッカーでは橘が準々決勝で市立船橋を2―0で破った。京都のチームは最後の詰めが甘いが、昨年決勝で敗れた橘が優勝すれば、「餃子の王将」前社長がチームに餃子を差し入れたエピソードが大きく紹介されるはずだ。
都知事選では宇都宮健児氏に続き、立ち位置が対極の田母神俊雄氏(元航空幕僚長)が立候補の意思を表明した。驚いたのは一部メディアが伝えた細川元首相擁立の動きで、小泉元首相が支援に回り、<脱原発>を掲げるという。だが、<護憲><反貧困><アジアとの共存>というリトマス紙を通すと、小泉氏を支持する気にはなれない。
読書はきっと、ロッククライミングに似ている。シューズが壁面をグリップしないと頂上に辿り着けない。脳が摩耗して滑落(放り出し)を繰り返していた俺が読書初めに選んだのは、中村文則の最新作「去年の冬、きみと別れ」(13年、幻冬舎)である。
俺にとって掴みのいい中村の作品については、当ブログで何度も紹介してきた。対話が重要な位置を占め、本作も死刑囚である木原坂雄大と「僕」(ライター)との接見シーンからスタートする。
中村ワールドには〝捨てられた子供たち〟が頻繁に現れる。あらかじめ失われていることがキャラクターに織り込まれ、登場人物は喪失感と孤独に彩られている。善悪の彼我を超越し、独特の世界を追求する中村の志向は、「戦慄のミステリー」と銘打たれた本作でも変わらない。
カメラマンである雄大は幼少時を、姉の朱里とともに養護施設で過ごした。「地獄変」(芥川龍之介)に着想を得た雄大はスランプから脱出するため、焔に焼かれる女性を撮影しようと試みる。芸術のために犠牲は厭わぬ姿勢は「地獄変」の主人公(絵師)と重なり、怪しい人形師も登場する。
<資料>と名付けられた章に、雄大や朱里を巡る経緯、主観不明のモノローグや会話が挿入され、時空を超えて遡行しつつ真実に迫っていく。その過程で輪郭が揺らぎ始め、複数の「僕」が混沌に導く。タイトルに含まれる「きみ」の正体に行き着くのはラスト近くだ。細部まで仕掛けが施されており、読み返してようやく痕跡に気付く。憎しみとは、その根源にある愛とは、狂気とは、そして罪(原罪)と罰(法律上の刑)の境界とは……。読む側に問い掛ける作品だ。
本作にはカポーティの「冷血」について言及する部分がある。タイトルを借りた高村は、一家惨殺に至った2人の男の心情に迫っていた。昨年末に読んだ「歌うクジラ」に感じたのは、文学と格闘する村上龍の意志である。<長い=力作>とは言わないし、「去年の冬――」が濃密さで両作に劣ることはないが、中村に不満を覚えるのは重量感のなさで、本作を読み終えるのに3時間かからなかった。
中村の作風を端的に表すなら<厚い壁を一撃で抉る鋭利なナイフ>だが、俺は饒舌な長編を切に願っている。何せ中村は、亀山郁夫前東外大学長が<ドストエフスキーのテーマを現在の日本に甦らせた>と評した作家で、サルトルへの傾倒も窺える。質量とも読み手を圧倒する作品を期待するのは、決して高望みではないだろう。
途中で本を放り出す癖がついていた俺だが、「去年の冬、きみと別れ」は格好なトレーニングになった。今年も読書ライフを楽しみたいと思う。
アイデンティティー拒否症候群の俺だが、高校スポーツは素直に郷里のチームを応援する。サッカーでは橘が準々決勝で市立船橋を2―0で破った。京都のチームは最後の詰めが甘いが、昨年決勝で敗れた橘が優勝すれば、「餃子の王将」前社長がチームに餃子を差し入れたエピソードが大きく紹介されるはずだ。
都知事選では宇都宮健児氏に続き、立ち位置が対極の田母神俊雄氏(元航空幕僚長)が立候補の意思を表明した。驚いたのは一部メディアが伝えた細川元首相擁立の動きで、小泉元首相が支援に回り、<脱原発>を掲げるという。だが、<護憲><反貧困><アジアとの共存>というリトマス紙を通すと、小泉氏を支持する気にはなれない。
読書はきっと、ロッククライミングに似ている。シューズが壁面をグリップしないと頂上に辿り着けない。脳が摩耗して滑落(放り出し)を繰り返していた俺が読書初めに選んだのは、中村文則の最新作「去年の冬、きみと別れ」(13年、幻冬舎)である。
俺にとって掴みのいい中村の作品については、当ブログで何度も紹介してきた。対話が重要な位置を占め、本作も死刑囚である木原坂雄大と「僕」(ライター)との接見シーンからスタートする。
中村ワールドには〝捨てられた子供たち〟が頻繁に現れる。あらかじめ失われていることがキャラクターに織り込まれ、登場人物は喪失感と孤独に彩られている。善悪の彼我を超越し、独特の世界を追求する中村の志向は、「戦慄のミステリー」と銘打たれた本作でも変わらない。
カメラマンである雄大は幼少時を、姉の朱里とともに養護施設で過ごした。「地獄変」(芥川龍之介)に着想を得た雄大はスランプから脱出するため、焔に焼かれる女性を撮影しようと試みる。芸術のために犠牲は厭わぬ姿勢は「地獄変」の主人公(絵師)と重なり、怪しい人形師も登場する。
<資料>と名付けられた章に、雄大や朱里を巡る経緯、主観不明のモノローグや会話が挿入され、時空を超えて遡行しつつ真実に迫っていく。その過程で輪郭が揺らぎ始め、複数の「僕」が混沌に導く。タイトルに含まれる「きみ」の正体に行き着くのはラスト近くだ。細部まで仕掛けが施されており、読み返してようやく痕跡に気付く。憎しみとは、その根源にある愛とは、狂気とは、そして罪(原罪)と罰(法律上の刑)の境界とは……。読む側に問い掛ける作品だ。
本作にはカポーティの「冷血」について言及する部分がある。タイトルを借りた高村は、一家惨殺に至った2人の男の心情に迫っていた。昨年末に読んだ「歌うクジラ」に感じたのは、文学と格闘する村上龍の意志である。<長い=力作>とは言わないし、「去年の冬――」が濃密さで両作に劣ることはないが、中村に不満を覚えるのは重量感のなさで、本作を読み終えるのに3時間かからなかった。
中村の作風を端的に表すなら<厚い壁を一撃で抉る鋭利なナイフ>だが、俺は饒舌な長編を切に願っている。何せ中村は、亀山郁夫前東外大学長が<ドストエフスキーのテーマを現在の日本に甦らせた>と評した作家で、サルトルへの傾倒も窺える。質量とも読み手を圧倒する作品を期待するのは、決して高望みではないだろう。
途中で本を放り出す癖がついていた俺だが、「去年の冬、きみと別れ」は格好なトレーニングになった。今年も読書ライフを楽しみたいと思う。