市民社会への介入を厭わず、情報を収集するオバマ大統領の素顔を暴いたスノーデン氏(元CIA職員)の行き先が、世界中の耳目を集めている。オバマは奇麗事を言う分、ブッシュより質が悪い。再選に歓喜したボブ・ディランには、訣別の歌を作ってほしい。
貧困と格差、戦争を必要とする国家の仕組み、劣悪な医療福祉制度……。そこに、<21世紀型1984>が加わったのだから、オバマが掲げる<自由と民主主義>は虚しく響く。文字通り消される可能性も高いスノーデン氏に、心強い味方が現れた。米軍の不当な暴力を文書と動画で告発したウィキリークスのアサンジ編集長である。俺は<反管理連合>を応援するが、秩序を好む日本社会では少数派に違いない。
川上未映子の「ヘヴン」を前々稿で取り上げた。安直としか言いようがないが、今回は夫の作品を紹介する。阿部和重の「グランド・フィナーレ」(講談社文庫、全4編)だ。阿部の小説について記すのは、「ピストルズ」、「シンセミア」に次いで3度目になる。小説のあらゆる要素が織り込まれた「シンセミア」(1600枚)を、<聖と俗、寓話とご都合主義の境界から神話の領域へと飛翔している>と別稿で絶賛した。
「シンセミア」に登場するのは俗っぽく、歪んだ数十人だが、物語に配置され、ひしめき合ううちに、錆と穢れがとれて聖なる輝きを放ち始める。そこが神話と評した由縁だ。<俯瞰の目で創り上げた壮大なジグソーパズル>から零れ落ちたピースの数々が、「グランド・フィナーレ」収録作の登場人物といえるだろう。
「グランド・フィナーレ」の沢見は、ロリコンを妻に知られ、三行半を突き付けられた中年男だ。ビジネスとして、趣味として、自分の娘だけでなく、幼い女の子のヌード写真をデジカメで撮っていたのだから仕方がない。仕事関係の人脈も絡んでいたから職も失い、故郷の神町(阿部の出身地)に帰る。
倫理や良識と無縁の俺は、それがアブノーマルであっても、個の性癖に寛容だが、沢見には忌避感を拭えなかった。その分、読みも浅くなってしまう。性的な趣向が、魂を結びつけるための手段になるのなら、何の問題はない。ところが、沢見は逸脱している。小説の主人公に怒りを覚えること自体、理不尽といわれたら返す言葉はないが、沢見が女性の友人に語った内容が真実なら、欲望に衝き動かされただけと断じるしかない。人としてしての重い罪に、対置するべき償いは何か。フィナーレに物足りなさを感じたのは、阿部への期待が大き過ぎるからだろう。
「シンセミア」は俺の中で「狂風記」(石川淳)、一般的には「万延元年のフットボール」(大江健三郎)と並び称される現代文学の金字塔だ。文壇で地位を確立した後、本作で芥川賞受賞というのも奇異な感じがする。ちなみに、阿部の主な作品は神町が舞台になっている。「シンセミア」、「ピストルズ」に次ぐ「神町サーガ」を構想中というから楽しみだ。
以下に、収録作について簡単に記したい。「馬小屋の乙女」では、性具収集のために神町に降り立った主人公が、ある嗜好の扉へと誘われる。善と悪が拮抗する街のムードに気付いた主人公の直感は正しかったわけだ。地方自治体は出身者が名を上げると<名誉市民賞>などを贈るのが常だが、神町(東根市)が阿部を顕彰することはありえない。
「20世紀」は神町の歴史に魅せられた男と、町に住む女性が結ばれる経緯を淡々と綴っている。この平凡なピースも、いずれ「神町サーガ」に組み込まれ、別の貌を曝け出すかもしれない。「新宿 ヨドバシカメラ」では、400年にわたる新宿の歴史が、年の差カップルのエロチックな逢瀬と重ねて描かれている。
阿部と川上は、家庭でどんな会話を交わしているのだろう。神町にこだわっている阿部のこと、川上に「ヘヴン」の続編を書くよう勧めているに違いないと、勝手に想像している。
貧困と格差、戦争を必要とする国家の仕組み、劣悪な医療福祉制度……。そこに、<21世紀型1984>が加わったのだから、オバマが掲げる<自由と民主主義>は虚しく響く。文字通り消される可能性も高いスノーデン氏に、心強い味方が現れた。米軍の不当な暴力を文書と動画で告発したウィキリークスのアサンジ編集長である。俺は<反管理連合>を応援するが、秩序を好む日本社会では少数派に違いない。
川上未映子の「ヘヴン」を前々稿で取り上げた。安直としか言いようがないが、今回は夫の作品を紹介する。阿部和重の「グランド・フィナーレ」(講談社文庫、全4編)だ。阿部の小説について記すのは、「ピストルズ」、「シンセミア」に次いで3度目になる。小説のあらゆる要素が織り込まれた「シンセミア」(1600枚)を、<聖と俗、寓話とご都合主義の境界から神話の領域へと飛翔している>と別稿で絶賛した。
「シンセミア」に登場するのは俗っぽく、歪んだ数十人だが、物語に配置され、ひしめき合ううちに、錆と穢れがとれて聖なる輝きを放ち始める。そこが神話と評した由縁だ。<俯瞰の目で創り上げた壮大なジグソーパズル>から零れ落ちたピースの数々が、「グランド・フィナーレ」収録作の登場人物といえるだろう。
「グランド・フィナーレ」の沢見は、ロリコンを妻に知られ、三行半を突き付けられた中年男だ。ビジネスとして、趣味として、自分の娘だけでなく、幼い女の子のヌード写真をデジカメで撮っていたのだから仕方がない。仕事関係の人脈も絡んでいたから職も失い、故郷の神町(阿部の出身地)に帰る。
倫理や良識と無縁の俺は、それがアブノーマルであっても、個の性癖に寛容だが、沢見には忌避感を拭えなかった。その分、読みも浅くなってしまう。性的な趣向が、魂を結びつけるための手段になるのなら、何の問題はない。ところが、沢見は逸脱している。小説の主人公に怒りを覚えること自体、理不尽といわれたら返す言葉はないが、沢見が女性の友人に語った内容が真実なら、欲望に衝き動かされただけと断じるしかない。人としてしての重い罪に、対置するべき償いは何か。フィナーレに物足りなさを感じたのは、阿部への期待が大き過ぎるからだろう。
「シンセミア」は俺の中で「狂風記」(石川淳)、一般的には「万延元年のフットボール」(大江健三郎)と並び称される現代文学の金字塔だ。文壇で地位を確立した後、本作で芥川賞受賞というのも奇異な感じがする。ちなみに、阿部の主な作品は神町が舞台になっている。「シンセミア」、「ピストルズ」に次ぐ「神町サーガ」を構想中というから楽しみだ。
以下に、収録作について簡単に記したい。「馬小屋の乙女」では、性具収集のために神町に降り立った主人公が、ある嗜好の扉へと誘われる。善と悪が拮抗する街のムードに気付いた主人公の直感は正しかったわけだ。地方自治体は出身者が名を上げると<名誉市民賞>などを贈るのが常だが、神町(東根市)が阿部を顕彰することはありえない。
「20世紀」は神町の歴史に魅せられた男と、町に住む女性が結ばれる経緯を淡々と綴っている。この平凡なピースも、いずれ「神町サーガ」に組み込まれ、別の貌を曝け出すかもしれない。「新宿 ヨドバシカメラ」では、400年にわたる新宿の歴史が、年の差カップルのエロチックな逢瀬と重ねて描かれている。
阿部と川上は、家庭でどんな会話を交わしているのだろう。神町にこだわっている阿部のこと、川上に「ヘヴン」の続編を書くよう勧めているに違いないと、勝手に想像している。