前稿冒頭に記した「ベンジャミン・バトン」は「スラムドッグ」に完敗したが、「おくりびと」は見事、アカデミー賞で外国語映画賞を獲得した。「おくりびと」については別稿(08年9月26日)で、以下のように記した。
<観客の体温と湿度は、次第に大悟と等質になる。本作は日本独特の死生観と四季の移ろいを背景にしつつ、宗教や国境を超越した普遍性を獲得した。アメリカ人であれイラン人であれ、大悟と佐々木のやりとりに噴き出し、ラストではスクリーンの大悟とともに感涙にむせぶはずだ>……。
サプライズと見る向きもあるが、本作を見た人なら納得できる受賞だと思う。
さて、本題。この時節になると、2・26事件に思いを馳せる。<右翼思想家>北一輝の影響を受けて決起した青年将校率いる反乱は、<平和主義者>昭和天皇の指示で鎮圧された……。これが常識的な事件のあらましだが、歴史は常に捏造から逃れられない。
北一輝と天皇についての<>内は、事実と遠いフェイクと確信している。昭和天皇がいかに戦争を主導したかは、ピューリッツァー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス)に詳述されていた。一方の北一輝は、終生変わらぬ社会主義者である。今回は名著の誉れ高い「北一輝」(渡辺京二著)をベースに、日本近現代史の蜃気楼、北一輝について記したい。
北は明治維新を民衆による第一の革命と位置付け、第二、第三の革命を目指した。同書で意外な発見をする。<維新で落ちこぼれた士族たちに担がれた守旧派の象徴>というイメージが強い西郷隆盛に、北は強いシンパシーを抱いていた。中央より地方、官より民、管理より自由を重視するコミューン志向者と捉えていたようだ。
北は10代にして社会主義者となり、堺利彦や幸徳秋水と交遊する。23歳で発表した「国体論及び純正社会主義」は知識人に大きな衝撃を与えたが、刊行後ただちに発禁となり、当局からの厳しいマークに遭う。大逆事件の連座を逃れたのは、中国革命に関心を抱いた北が、幸徳らと疎遠になっていたからだ。
反皇室主義者の北は、<国家社会主義信奉者の青年将校とプロレタリアート出身の兵士の蜂起(実権奪取)⇒木偶として担いだ天皇の排除(民主革命)⇒成熟した民主主義から社会主義への移行>と、革命への道程を想定していた。
妄想の類と一笑に付す者もいるだろうが、山村工作隊を革命の軸に据えた戦後の共産党より、遥かにリアリティーがある。北が決起に関与していなかったのは事実だが、幸徳同様、その思想ゆえに刑場の露と消えた。
北は20代前半で空前絶後の書を著したヘーゲル⇒マルクスの流れを汲む社会主義者であり、哲学や文化を語る思想家であり、与謝野鉄幹に激賞された文芸批評家でもあった。中国革命に身を投じた若者が戦いで磨かれ、煌く玉になったのかと思いきや、マイナス面も大きかったという。
北は孫文を「民主主義的自治政体を夢見る天使」と評し、路線的にも対立していた。北にとって中国革命の指導者は、東洋的共和政を志向し、「苦痛の鬼、戦の地獄のサタン」たる自覚も併せ持つカリスマだった。毛沢東こそ、まさに理想のタイプだったのだ。
北が革命運動で身に付けたのは、ある種の荒みと権謀術数だった。帰国後の北は世間の目に、強請りと謀略を生業にする政治ゴロと映ったことだろう。果たして、北は変質したのだろうか。渡辺氏は<常に塵や泥にまみれて居りながら、その本質は微塵も汚されぬことのない北君の水晶のような魂>という大川周明の言葉を引き、北が初心を貫いたことを強調していた。
現在の日本を恐慌時と重ね、ナショナリズムの勃興を危惧する識者も少なくないが、忘れてはならないこともある。治安維持法施行直後の80年前、労働者と学生だけでなく、少年やマネキンガールまで抗議の声を上げる。当時は日本の反体制運動の黄金期だったのだ。
自由が保障された現憲法下の日本で、怒りの声は広がらない。北と昭和天皇だけでなく、帝国憲法と平和憲法もまた、歴史のパラドックスに彩られている。
<観客の体温と湿度は、次第に大悟と等質になる。本作は日本独特の死生観と四季の移ろいを背景にしつつ、宗教や国境を超越した普遍性を獲得した。アメリカ人であれイラン人であれ、大悟と佐々木のやりとりに噴き出し、ラストではスクリーンの大悟とともに感涙にむせぶはずだ>……。
サプライズと見る向きもあるが、本作を見た人なら納得できる受賞だと思う。
さて、本題。この時節になると、2・26事件に思いを馳せる。<右翼思想家>北一輝の影響を受けて決起した青年将校率いる反乱は、<平和主義者>昭和天皇の指示で鎮圧された……。これが常識的な事件のあらましだが、歴史は常に捏造から逃れられない。
北一輝と天皇についての<>内は、事実と遠いフェイクと確信している。昭和天皇がいかに戦争を主導したかは、ピューリッツァー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス)に詳述されていた。一方の北一輝は、終生変わらぬ社会主義者である。今回は名著の誉れ高い「北一輝」(渡辺京二著)をベースに、日本近現代史の蜃気楼、北一輝について記したい。
北は明治維新を民衆による第一の革命と位置付け、第二、第三の革命を目指した。同書で意外な発見をする。<維新で落ちこぼれた士族たちに担がれた守旧派の象徴>というイメージが強い西郷隆盛に、北は強いシンパシーを抱いていた。中央より地方、官より民、管理より自由を重視するコミューン志向者と捉えていたようだ。
北は10代にして社会主義者となり、堺利彦や幸徳秋水と交遊する。23歳で発表した「国体論及び純正社会主義」は知識人に大きな衝撃を与えたが、刊行後ただちに発禁となり、当局からの厳しいマークに遭う。大逆事件の連座を逃れたのは、中国革命に関心を抱いた北が、幸徳らと疎遠になっていたからだ。
反皇室主義者の北は、<国家社会主義信奉者の青年将校とプロレタリアート出身の兵士の蜂起(実権奪取)⇒木偶として担いだ天皇の排除(民主革命)⇒成熟した民主主義から社会主義への移行>と、革命への道程を想定していた。
妄想の類と一笑に付す者もいるだろうが、山村工作隊を革命の軸に据えた戦後の共産党より、遥かにリアリティーがある。北が決起に関与していなかったのは事実だが、幸徳同様、その思想ゆえに刑場の露と消えた。
北は20代前半で空前絶後の書を著したヘーゲル⇒マルクスの流れを汲む社会主義者であり、哲学や文化を語る思想家であり、与謝野鉄幹に激賞された文芸批評家でもあった。中国革命に身を投じた若者が戦いで磨かれ、煌く玉になったのかと思いきや、マイナス面も大きかったという。
北は孫文を「民主主義的自治政体を夢見る天使」と評し、路線的にも対立していた。北にとって中国革命の指導者は、東洋的共和政を志向し、「苦痛の鬼、戦の地獄のサタン」たる自覚も併せ持つカリスマだった。毛沢東こそ、まさに理想のタイプだったのだ。
北が革命運動で身に付けたのは、ある種の荒みと権謀術数だった。帰国後の北は世間の目に、強請りと謀略を生業にする政治ゴロと映ったことだろう。果たして、北は変質したのだろうか。渡辺氏は<常に塵や泥にまみれて居りながら、その本質は微塵も汚されぬことのない北君の水晶のような魂>という大川周明の言葉を引き、北が初心を貫いたことを強調していた。
現在の日本を恐慌時と重ね、ナショナリズムの勃興を危惧する識者も少なくないが、忘れてはならないこともある。治安維持法施行直後の80年前、労働者と学生だけでなく、少年やマネキンガールまで抗議の声を上げる。当時は日本の反体制運動の黄金期だったのだ。
自由が保障された現憲法下の日本で、怒りの声は広がらない。北と昭和天皇だけでなく、帝国憲法と平和憲法もまた、歴史のパラドックスに彩られている。