決選投票に残った2人には新鮮味に欠けたが、野田佳彦元首相が立憲民主党新代表に選出された。かつて野田政権は安倍政権への露払いに徹していた印象が拭えず、枝野幸男氏は官房長官時代、「(放射能は)直ちに影響はない」と繰り返していた。俺が注目していたのは吉田晴美候補で、岸本区長や女性区議たちとともに〝改革の拠点〟杉並を支える一人だ。今後の活動に期待したい。
映画界で6年ぶりの奇跡と騒がれている「侍タイムスリッパ-」(2024年、安田淳一監督)を見た。先月17日に池袋シネマロサで公開された本作は、ネットや口コミで面白さが伝わり、「カメラを止めるな!」(2018年)を想起させる勢いで上映館を拡大している。俺が見た新宿ピカデリー(シアター2、キャパ300)は6割方埋まっていた。
タイトル通り侍がタイムスリップする。時代は幕末、会津藩士の高坂新左衛門(山口馬木也)は長州藩士の風見恭一郎(冨家ノリマサ)を討てとの藩命を受け、雷雨の中、剣を交える。同行した村田佐之助は風見の峰打ちを食らいもんどり打った。さて、決着という時に刀に落雷し、失神した高坂は140年を経て東映京都撮影所にタイムスリップしていた。服装や髪形に違和感はなく、高坂はオープンセットに溶け込んでいく。
撮影中の時代劇に入り込んだ高坂を気遣った助監督の山本優子(沙倉ゆうの)は、別の現場で頭を打って昏倒していた高坂を病院に搬送する。意識が戻って窓の外を眺めた高坂は街の景色に驚き、元の姿で脱走した。空腹で蹲っていた高坂を助けたのは、時代劇のロケ地に使われている寺の住職夫妻で、知人である優子に連絡する。
侍言葉が抜けない高坂は記憶喪失状態で寺に居候する。優子の口添えで殺陣師の関本(峰蘭太郞)に弟子入りした高坂は、斬られ役として評価されていく。ちなみに最初に関本役にキャスティングされていた福本清三は3年前に亡くなり、エンドロールで献辞が捧げられている。峰は福本の弟子で、主演の山口とも交流があった。
高坂が体験するカルチャーショックが絶え間ない笑いを引き起こすが、本作の肝は<ものづくりの精神>だ。シナリオが面白いと感じた撮影所は、日本の映画とドラマに貢献してきた伝統の力を結集して完成に協力する。時代劇を復興させたいという夢に向け、職人たちが力を注いだ。安田監督は一人で10役以上をこなした。助監督役の沙倉は、実際の撮影でも助監督を務めている。安田は米作りが本業だから、<ものづくりの精神>がスクリーンに息づいていた。
ラストの30分はトーンが異なる。かなり前に撮影所にタイムトリップしていた仇敵の風見は今や大スターで、新作の時代劇で共演するべく、高坂に声を掛ける。撮影は進行するが、自身がタイムスリップした後、会津藩の人々がなめた辛酸を知った高坂は、〝自分だけが恵まれていていいのか〟の思いから、ある提案をし、風見も了承した。存在理由を懸けた闘いに息をのみ、心が潤んだ。
素晴らしい作品に彩りを添えたのは、高坂と優子の心の揺らぎだ。演じる側は50歳と40歳だが、年齢を超越した恥じらいと和みに満ちていた。沙倉は職場にいても目立たないような風貌だが、観賞しているうちに俺も惹かれていく。恋のリアリティーも本作を支えていた。村田佐之助がタイムスリップするラストに笑ってしまった。
少子高齢化が進み、この20年で円の価値が大きく低下したことを考えれば、成長なんて言葉にリアリティーはない。俺が考える日本の問題点は、格差と貧困、ジェンダー(≒人権)、エネルギー(脱原発)で、<みんな仲良く、のんびりやっていこうよ>と生き方の転換を掲げる政治家がいてもいいと思うが、自民党総裁選に立候補した9人の中にはもちろんいない。
有力候補のひとりは小泉進次郎氏だが、兄である孝太郎がイメージチェンジした映画「愛に乱暴」(2024年、森ガキ侑大監督)を新宿ピカデリーで見た。原作は吉田修一で、当ブログでは小説を7作、映画を2本紹介してきた。今稿で計10回目になる。吉田の作品は多岐にわたり、青春小説からサスペンスまで、純文学とエンターテインメントの境界を疾走する。描写は丁寧かつオーソドックスで、行間には濃密な気配が漂っている。映画「愛に乱暴」ではスクリーンから異様な緊張感がこぼれ落ちていた。
主人公は主婦の桃子(江口のりこ)で、以前勤めていた会社が経営するカルチャーセンターで石鹸教室の講師を務めている。桃子の仏頂面が作品の主音で、はなれでともに生活する夫の真守(まもる)を演じるのは、誰かと思えば前髪を垂らした小泉孝太郎だ。ドラマで熱血漢を演じる際とは大違いで、桃子の言葉にまともに答えることもない。セックスレスの仮面夫婦といった雰囲気だ。
母屋で暮らしているのは姑の照子(風吹ジュン)だ。本作には冒頭から不穏な気配が漂っている。照子と桃子は親しく会話しているが、笑顔の影にある底意が表情に滲んでいる。近所のゴミ集積所で火事が頻発し、桃子が餌を与えている野良猫のぴーちゃんが、鳴き声は聞こえるのに姿を見せなくなった。ちなみに、家庭菜園を営む照子は、畑を荒らす猫を嫌っている。酷い生理痛に婦人科を受診した桃子の日課は妊活する女性のツイッター(X)だった。
石鹸教室の存続が怪しくなってきて、桃子は元上司に直談判するがはぐらかされる。出張から帰ってきた真守のキャリーケースをチェックしてみたら、ワイシャツは奇麗に畳まれていた。実家にも居場所はなく、真守に決定的な事実を告げられる。<付き合っている女性が妊娠したから、別れてほしい>と……。真守の交際相手は教師の奈央(馬場ふみか)だった。
桃子の仏頂面がストレス顔へ、そして狂気の色を湛えるようになる。工具店でチェーンソーを購入したあたりから、想定外のホラーに突入したかと思ったが、桃子は猫の鳴き声がする床下を掘り、泥まみれの顔でうずくまる。床下とは桃子の孤独のメタファーだったのか。ネタバレになるから書かないが、照子と真守の会話から、桃子と真守の結婚の経緯がわかり、桃子がチェックしているツイッターの書き手が判明する。女性にとって子供の意味がいかに大きいかが本作から読み取れた。
照子が栽培したスイカを持って、桃子は奈央の元を訪れる。部屋を出た時に聞こえた音も何かを暗示していた。真守は「君が楽しそうにすればするほど、俺は楽しくない」と桃子に言う。愛を乱暴にぶち壊す残酷な台詞だが、桃子にとって救いの言葉は工具店店員の「いつもゴミ集積所を奇麗にしてくれてありがとう」だった。愛について大上段に語りがちだが、そんな些細な気遣いが紡いでいるのだろう。
ラストで桃子は、母屋の縁側でソーダアイスを囓っている。照子は「母屋は売って出ていくから、はなれはしたいようにして」と話していた。桃子が見ていたのははなれの解体だから、違和感を覚えた。桃子は解き放たれた表情をしていた。解体の轟音とチェーンソーの騒音が脳内でシンクロし、冷んやりする余韻が込み上げてきた。
テイラー・スウィフトの恋人はチーフスTEケルシーで、初戦も観戦に訪れていた。テイラーは民主党支持者で、いずれハリス支持を表明するだろうが、トランプ陣営は脅しをかけてくるだろう。メディアを巻き込む空騒ぎにインテリ層は辟易しているはずで、前稿で紹介したポール・オースターに限らず、アメリカの作家でNFLファンを探すのは難しい。オースターの小説では頻繁に野球について語られる。
老人施設に暮らす母と面会するため日帰りで京都に向かうなど、睡眠不足の日々が続いた。暑さも衰えず、脳も溶けそうな状態では込み入った映画を敬遠するしかない。友人が<「キック・アス」に匹敵する超絶エンターテインメント>と評価していた「ポライト・ソサエティ」(2023年、ニダ・マンズール監督)を新宿ピカデリーで見た。パンキッシュでスピード感溢れるコメディーに、屁理屈好きの俺の脳も、タイトルの〝ポライト=礼儀正しい〟とは対極のバチバチはじける展開に踊っていた。
舞台はロンドンのパキスタン人コミュニティーだ。リア・カーン(プリヤ・カンサラ)は自称〝怒りの権化〟の高校生で、スタントウーマンを目指して武道の修行に励んでいる。練習相手の姉リーナ(リトゥ・アリヤ)は画家志望だったが挫折した。カンフーと空手がごっちゃになっている感じもするが、本作を観賞する際には些細なことにこだわってはいけない。男女別学がイスラム社会の基本なのかは知らないが、リアが通うのは女子高だ。親友のクララ、アルバに加え、組み手で圧倒されるボスキャラのコヴァックスも同級生だ。
スナク前首相はインド系だったが、移民というより富裕層に与したことで国民の支持を得られなかった。それはともかく、南アジア系が英国社会に根付いていることは本作からも窺えた。その象徴というべきは上流階級の女帝でゴージャスな装いのラヒーラ(ニムラ・ブチャ)だ。カーン一家は夜会に招かれたが、リーナはラヒーラが溺愛する息子のサリム(アクシャイ・カンナ)の目に留まり、交際することになる。サリムはハンサムな医者で、結婚には申し分のない条件を揃えていた。
この流れに異議を唱えたのはリアだった。姉は自分と同じ変わり者で、上流階級の妻の座に収まるはずがないと考え、婚約を破棄させるため、クララやアルバの力を借りて策略を巡らせるがうまくいかない。周囲は〝仲の良い姉と離れたくないから拗ねているだけ〟と見ていたが、暴走するうち、サリムがラヒーラのために恐るべき実験をしていることを知ったのだ。
遺伝子組み換えやクローン人間作製といったシリアスなテーマを扱いながら、本作は歌って踊るボリウッド的要素を強めていく。とはいえ、ボリウッドに詳しい映画通によれば、貧困や差別など社会性を追求した作品も多いというから、アンビバレントというのも俺の偏見だろう。結婚式でリアが踊るシーンやラヒーラとの対決など、フィジカルな〝軋み感〟が暑気を払ってくれた。予定調和的なラストにも安堵する。
面白かったのは、いかにもボリウッド的なサントラに、ケミカル・ブラザーズや浅川マキの「ちっちゃな時から」が混じっていたことだ。ニダ・マンズール監督はイスラム系のガールズパンクバンドが活躍するドラマで人気を博したという。本作は長編映画デビュー作というが、多様性を志向する作品が期待出来そうだ。
一貫して怠け者だった俺だが、上京してからも時間に追いまくられ、効率に縛られてきた。今さら手遅れだが、感性や価値観を変えるきっかけになるようなドキュメンタリー映画「縄文号とパクール号の航海」(2015年、水本博之監督)を見た。〝自然と暮らす〟をモットーに全世界を旅してきた冒険家・関野吉晴の初監督作品「うんこと死体の復権」公開に合わせてのアンコール上映である。
武蔵野美術大でゼミを開講していた関野は、<手作りの工具や材料を使って造った丸木船で航海する>というプランを掲げ、学生たちに参加を呼び掛ける。応じたのは次郎と洋平で、監督の水本も教え子のひとりだった。そこに加わったのが安全管理を担当する冒険家の渡部純一郎である。スタート地点に選んだのはマンダール人が暮らすインドネシア・スラウェシ島だ。イスラム教と精霊を信仰するマンダール人は漁師を生業にしている。関野らは当地で切った大木から縄文号を造り、マンダール伝統の帆船パクール号とともに石垣島を目指して出港する。日本人4人、現地で募った6人の計10人のクルーで、撮影船が同行した。
様々な伝統と風習を守り続けるマンダール人には、関野の試みが奇異に映った。〝日本は技術大国で新幹線も走っている。どうしてこんなにまどろっこしい計画を立てたのか不思議〟と問いかけた。縄文号は風が吹けば前に進まず、手漕ぎと合わせても1日10㌔も進まないことがある。関野の時間の捉え方は独特で、効率や進歩に一切意味を求めない。4700㌔の航海も台風や海流に阻まれて中断を余儀なくされ、3年の日々を費やすことになるが、〝何とかなるさ〟〝自然には勝てないよ〟と悠然と構えている関野に、マンダール人たちも絶大なる信頼を寄せている。
時に感情的になる次郎とマンダール人たちの間に軋轢が生じることもあった。異文化コミュニケーションは簡単ではなく、食事など習慣の違いから口を利なくなることもあった。本作にはいったん壊れかけたチームが一つになる経緯も描かれている。水本は計800時間フィルムを回し、編集に3年かかったという。いつも歌っている再年長のザイヌディン、驚異的な視力で船を操るグスマン、普段は無口だが危機に陥ると体を張る大男のイルサンら、マンダール人クルーは個性的な面々が揃っていた。航海が終わりに近づく頃には、日本人スタッフと下ネタのジョークを交わすほど打ち解けていた。
3年目の再々スタートを控えた2011年3月11日、スラウェシ島と日本で事件が起きる。ザイヌディンが精霊に誘われたように行方不明になった。船にはランチが残されていたから、突然の事故(発病?)で海に落ちたと考えられている。その一報の直後に発生した東日本大震災により東北は津波に襲われ、原発事故で人々は避難を強いられる。医師でもある関野は現地で医療活動を展開し、次郎と洋平も救援活動に加わった。
本作は3・11と重なったことで、テーマに厚みが増した。加工してきたはずの自然だが、猛威を振るうと立ち尽くすしかなく、人間は自らの無力を思い知らされる。航海でも同様だった。進歩とは何かを再度、突き付けられるドキュメンタリーだった。マンダール人たちが信仰と仕事で自立している一方、次郎と洋平は生き急がされる日本で宙に浮いていたが、友人である水本監督によると、現在は立脚点を見つけて暮らしている。それを聞いて安心した。余韻が去らないドキュメンタリーだった。
大卒後のフリーター時代に知り合った者たちにとって、俺は〝暗い奴〟だった。ある男性には「おまえ、爆弾でもこしらえているんか」とからかわれ、ある女性には「あんた、友達いないでしょう。付きまとわないでね」と言われた。両親も〝息子が事件を起こしてニュースに出るのでは〟と心配していたぐらいだから、心外ではあるけれど、〝犯罪者予備軍〟と映っていたことは間違いない。
勤め人になってから、誤った社交性を発揮した。〝誤った社交性〟というのは、自分を中心に周りを動かしたいというエゴに基づいていたからで、迷惑をかけた方々に遅ればせながらお詫びしたい。新宿シネマカリテで見た「時々、わたしは考える」(2023年、レイチェル・ランバート監督)が、他者との距離感をうまく取れない自分を顧みるきっかけになった。
舞台はオレゴン州にある人口1万ほどの港湾都市アストリアだ。主人公のフランを演じるのは「スター・ウォーズ」シリーズ(俺は未見だが)で知られるデイジー・リドリーでプロデユーサーも兼任している。フランは小さな会社(倉庫管理関係?)で経理を担当しているが、職場では同僚と言葉を交わさず変わり者と見做されている。自宅と職場を往復するだけで、夕飯は温めたカッテージ・チーズをワインで流し込んでいる。
原題は「サムタイム・アイ・シンク・アバウト・ダイイング」で、邦題では〝ダイイング〟がカットされている。森の中に横たわるフランの手に屍肉を食らう虫が蠢いていたり、職場の窓の外に上下するクレーンに首吊りを連想したりするシーンに死への渇望を見いだしたが、暗いイメージは感じない。幻想や空想を繰り返すフランに重なったのは作家のシャーリイ・ジャクソンだった。フランの背後に現れる大蛇は、再生への希求のオマージュなのか。
日常に変化の兆しが現れた。定年退職したキャロル(マルシア・デボニス)の後任として入社したロバート(デイヴ・メルヘジ)は社交的ですぐに職場に馴染んだ。フランにも積極的に接近し、映画に誘う。冴えないオッサンという感じだが、男性に免疫のないフランはその存在が気になってしまう。普段は地味ないでたちなのに、赤い服を着て出社したのには驚いた。
ロバートの友人が主宰する〝殺人者推理パーティー〟に参加したフランは、機転の利いた発想で周りを驚かせる。バツ2のロバートの思いをやんわり拒絶したフランが帰宅後、涙を流すシーンが印象的だった。本作をぎこちないラブコメディーと見ることも可能だが、少し違うと思う。ロバートはフランにとって〝社会のドア〟を開ける人で、彼女の世界をカラフルに彩ってくれる。その積み重ねの先に恋が待っているかもしれない。
ラストでフランはパン屋でキャロルと再会する。キャロルはクルージング旅行で世界を回っているはずなのに、夫の体調旅行で状況は暗転した。フランはドーナツを人数分購入して職場に向かった。今までなかったことに同僚たちは驚いた。ささやかな気遣いもまた、ドアを開けることと同義だ。フランを包む景色は変わっていくに違いない。
ニヒリスティックな気分になり、猛暑で脳は溶けかけている。込み入った内容は厳しいので、リラックスして観賞出来そうな映画をチョイスした。TOHOシネマ新宿で上映中の「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」(2024年、グレック・バーランティ監督)である。1969年、アポロ11号のアームストロング船長とオルドリン操縦士は月に着陸し、その光景は全世界に生中継された。中学1年生だった俺もテレビ画面に見入った記憶がある。本作はアポロ計画を背景に描かれた作品だ。
1961年、ソ連と熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていたアメリカのケネディ大統領は「1960年代の末までに人類を月に着陸させる」と宣言した。63年にケネディは暗殺され、計画そのものを〝夢物語〟と揶揄する向きもあったが、無事に成功したのは上記の通りである。着陸した時の<これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である>のアームストロングの言葉はその後も語り継がれている。
マンハッタン計画をテーマに描いた映画「オッペンハイマー」は多くの諜報関係者が登場するなど緊張が途切れない作品だったが、同じ国家プロジェクトを扱った「フライ・ミー――」は、原爆と月着陸と志向するものは異なるものの、色合いが真逆のコメディーだった。作品のトーンを決めたのは製作を担当し、結果的に主演のケリー役に収まったスカーレット・ヨハンソンのキッチュな魅力である。
ケリーはPRのプロという設定で、アポロ計画の認知度を高めるためにNASAに派遣される。美貌に加え、口八丁手八丁でNASAを闊歩するケリーはまさに、安っぽくて俗悪というキッチュを体現していた。本作はキッチュではなく、〝塗りたくっていない〟ケリーの真の姿に迫るラブコメディーで、NASAの発射責任者で堅物のコール・デイビス(チャニング・テイタム)との距離感が揺れ動く。コールは健康上の理由で宇宙飛行士の道を諦めており、かつて自身の判断ミスが事故に繋がったことを悔いていた。
月着陸に成功した69年7月は、まさに激動の時代だった。全世界でベトナム反戦の嵐が吹き荒れ、ソ連もプラハ侵攻でヒールの側に加わった。文化大革命は当時、肯定的にみられることが多かったが、紅衛兵を動員した毛沢東の奪権闘争は中国に大きな傷痕を残す。興味深かったのはケリーの助手であるルビー(アンナ・ガルシア)が事あるごとに反ニクソンを表明することだ。アポロ計画を提唱したケネディだが、ケリーをNASAに派遣したモー(ウディ・ハレルソン)の後ろ盾はニクソン大統領だった。
ケリーがモーから受けた指令は、月着陸のシーンのフェイク映像を製作すること。ケリーは3人の宇宙飛行士だけでなく、コールのそっくりさんまで用意し、フェイク映像を準備した。何がリアルで何がフェイク?というテーマは、そのままケリーとコールの関係にも重なるという見事なストーリーに感嘆させられた。ちなみに、フェイク映像に映り込んだのがNASA敷地内で暮らしていた黒猫というのも手が込んでいた。
理屈っぽい映画を見て、理屈をこねるというのが、俺の映画との接し方だが、見終えた後に安堵のため息が洩れる作品に出合えてよかった。
バイデン撤退で、ハリス副大統領が代替候補になった。〝もしトラ〟から〝確トラ〟になったと思ったが、バイデンもトランプも嫌いという<ダブルヘイタ->の人たち(25%)の動向は不明で、世論調査では拮抗した数字になっている。著名人の多くがハリス支持を明らかにする一方で、共和党のバンス副大統領候補はジェンダー関連の過去の発言で批判を浴びている。こちらも差し替えが必要ではないか。
テアトル新宿で先日、「大いなる不在」(2023年、近浦啓監督)を見た。前稿で紹介した小説とドキュメンタリーでも認知症の母が登場し、バイデンも認知症の進行が疑われていた。本作の主人公の父親も認知症で、冒頭で警察沙汰を起こしてしまう。一報が入った時、卓(森山未來)は演劇ワークショップで市原佐都子(本人役)とプランを練っていた。市原は時代の先端を走る演出家で世界からも注目されている。演目は「瀕死の王」で、王は卓の父である陽二(藤竜也)の人生とリンクしていた。
卓は妻の夕希(真木よう子)とともに生まれ故郷の北九州に向かう。施設に収容された陽二の言葉に卓は衝撃を受けた。「自分は日本から拉致されてここにいる。救出してほしい」と言うのだ。自宅を訪ねた卓は義母の直美(原日出子)の不在に気付く。雑然とした邸内に張り巡らされたメモ書きに映画「マシニスト」が重なった。不眠で記憶中枢を破壊された主人公にとって日常を切り抜ける手段だったが、陽二にとってメモは認知症に対応するために必要不可欠だったのだ。
卓は陽二との記憶を辿り、宅配弁当業者や直美の息子の訪問を手掛かりに現在地を探ろうとする。時系列を行きつ戻りつし、サスペンス的な要素もあるが、通底するのは<愛>だ。卓は陽二が施設入所の際に持参したバッグを預かるが、日記帳に綴られた陽二と直美の愛の深さに驚かされる。<至高の愛>は壊れ、2人は今、愛の不毛に惑っている。
陽二は最初の妻と卓を捨てて、20年来の愛を貫き直美と結ばれた。最初の妻の遺骨は合祀墓に管理されている。施設で面会した際の父子の会話から、陽二が決して優しい父ではなかったことが窺える。だが、直美の証言から、陽二は大河ドラマに脇役で出演している場面を喜んで見ていることがわかる。愛情を表現するのが苦手なことは「母(直美)を家政婦のようにこき使ってきた」という直美の息子の言葉からも明らかだ。
ラストで卓は直美の故郷である熊本に赴き、かつて陽二がそうしたように直美への思いを海に向かって叫ぶ。その様子を送られた夕希も深い感動を覚えた。直美の心が陽二から離れた瞬間が捉えられていた。待ち合わせのスーパーのラウンジで心臓に持病を抱える直美が倒れた。外から様子を見ていた陽二だが、気付かずに立ち去っていく。些細な出来事が<愛>を壊す。俺の心も痛くなった。
森山未來、藤竜也、原日出子の3人の名優の演技は申し分なかったが、真木よう子の無垢な表情も光っていた。昨年後半から邦画界は充実した作品が多かった。真木も近浦監督、森山とともにこれからの日本映画を牽引していくことだろう。
新宿シネマカリテで「Shirley シャーリイ」(2019年、ジョセフィン・デッカー監督)を見た。スティーヴン・キングに影響を与えた〝魔女〟シャーリイ・ジャクソンの伝記映画で、舞台は1950年前後のバーモント州ノースベニントンだ。魔女と呼ばれた理由は、作品が人の心に潜む<悪>を抉り出すからで、「ニューヨーカー」誌に掲載された短編「くじ」には抗議の投書が殺到したという。シャーリイの作品も購入する予定なので、機会を改めて感想を記したい。
前稿で紹介した「侍女の物語」のドラマ版「ハンドメイズ・テイル」(Hulu制作)で主演を務めたエリザベス・モスがシャーリイを演じている。夫のスタンリー(マイケル・スクールバーグ)はベニントン大学教授で文学を教えている。シャーリイとスタンリーの夫婦は共依存、もしくは〝共犯関係〟とも取れるが、女好きで俗物のスタンリーはシャーリイを執筆に集中させるマネジャー的存在だ。
映画化に際して設定も変わっている。夫婦には子供が4人いたが、本作には登場しない。その代わりといってはなんだが、スタンリーの助手を務めるフレッド(ローガン・ラーマン)と「くじ」に感銘を覚えたローズ(オデッサ・ヤング)の若夫婦がシャーリイ宅に居候することになった。引きこもっているシャーリイが執筆出来るよう、家事全般を行ってほしいというスタンリー直々の頼みである。
シャーリイが魔女と呼ばれるゆえんは、作品だけでなく周りと軋轢を生じさせてしまう性格にもある。群れるのを嫌い毒を吐く。ローズの妊娠をたちどころに見破り、「女性の体に敏感なの」と話すシャーリイに違和感を覚えたが、実際に何度も妊娠を経験したことを重ねれば納得か。嫌い合っているように思えたシャーリイとローズだが、距離は次第に縮まっていく。
シャーリイはスランプに陥っていた。ベニントン大に通っていた女子大生ポーラの失踪事件を題材にした「絞首人」の構想を練っているうち悪夢にうなされ、現実と幻想の境界を彷徨うようになる。ローズはそんなシャーリイを気遣い、病院のカルテや学籍簿を入手するなど協力するようになる。シャーリイとローズは母娘の、そしてレズビアンのような感情が芽生え、生まれてくる子供を含めた絆に紡がれる。毒キノコ(実はそうではなかったが)を2人で食べる場面が印象的だ。
シャーリイが伝えた真実で、フレッドとローズの間に亀裂が生じた。品行方正でエリート然としたフレッドの仮面が暴かれたのだ。未婚の俺は、結婚の意味を考えてしまう。激しいパンチの応酬で疲弊していたはずの夫婦は、小説が完成するや一変する。スタンリーが絶賛すると、承認欲求を満たされたシャーリイは浮き浮きした表情になり、2人でダンスに興じる。若夫婦は厄介払い? いや、そもそも存在したのだろうか。
ラスト近くでシャーリイとローズは、ポーラの幻影を追うように森の奥に進み、崖っ縁に立つ。フェミニズムを掲げてはいないが、日常と幻想の狭間で、女性であることの哀しさがスクリーンからはじけてくる作品だった。