goo blog サービス終了のお知らせ 

酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

テレヴィジョン&ルースターズ~老いてなお、刃を研ぐもの

2016-01-23 21:44:48 | 音楽
 20代半ばまで時代劇に親しんでいた。俺にとっての最高傑作は武士道の本質に迫った「子連れ狼」だが、肩の凝らないドラマも大好きで、「遠山の金さん捕物帖」(1970~73年)は再放送を含め殆ど見ている。中村梅之助さんの訃報に、若かった頃の心情が甦った。のちに錚々たる面々が演じたが、俺にとって唯一無比の金さんは梅之助である。温かみと威厳を自然体に表現した名優の死を悼みたい。

 勧善懲悪の時代劇は消えてしまったが、社会、とりわけ永田町には困った面々が揃っている。甘利経済再生担当相が旬の悪役だが、追及する枝野民主党幹事長だって負けていない。福島原発事故後、官房長官として「直ちに(放射能の)影響はない」と繰り返して失笑を買った御仁が、今も表舞台にいる。巨悪は懲らしめられるどころか力を増し、善人(≠弱者)を嘲笑うという図式は古来、変わっちゃいない。

 軽井沢のバス転落事故で、13人の若者が亡くなった。彼ら、そして遺族を思うとやり切れない。老若男女、すべての人間に価値の差はない。だが、ゴール寸前でよろけている俺ではなく、ゲート入りを控えたルーキーたちが召されるなんて、神様も残酷だ。食品横流しを含め、個々の企業を責めるのではなく、モラル低下を生み出した政治の在り方を背景に見据えるべきだ。

 心身の衰えを実感している初老の男が先日(20日)、古くからの友人であるT君とライブに足を運んだ。道玄坂のラブホ街にあるDuo MUSIC EXCHANGEで、テレヴィジョンとルースターズの共演である。テレヴィジョンは平均年齢が60代半ば、ルースターズは50代後半で、バンドのキャリアに合わせ、年季の入ったファンが集っていた。

 オープニングアクトは、波瀾万丈、生々流転のルースターズだ。大江慎也在籍時の前期を絶対視するファンも多いが、俺は花田裕之を結節点に、流れとして聴いていた。当夜は解散時(88年)のメンバーで、花田以外に下山淳、穴井仁吉、三原重太、サポートの木原龍太郎という構成だった。20代前半からどっぷり漬かったルースターズは、不安定で暗い青春期の記憶と連なっている。

 30年以上も前だから、記憶違いかもしれない。ジュリアン・コープと共演した時、花田がMCで「大江慎也です」とカマして演奏したのが3曲目の「ストレンジャー・イン・タウン」だった。文学的な詞は柴山俊之によるものである。入り待ちの時、T君に「ルースターズに提供した詞から、柴山のことをナイーブな文学青年だと思っていたけど、実物(サンハウス)をフジロックで見てぶったまげた」と話していたら、近くに頷いて笑みを浮かべている女性がいた。連れ(男性)がいなかったら声を掛けたのに……。

 当夜のルースターズはテレヴィジョンに合わせて幾分、ローファイ気味と感じたが、「ハート・バイ・ラブ」からジュリアン・コープの提供曲「ランド・オブ・フィアー」の流れも決まっていた。「バーニング・ブルー」や「レディ・クール」を久しぶりに聴けたし、最後は畢竟の名曲「再現できないジグソーパズル」で締めた。

 15分ほどのセッティング変更を終え、テレヴィジョンが登場する。3枚のアルバムをたっぷり聴いて予習するはずだったが、不測の事態、即ちデヴィッド・ボウイの死で計画変更を余儀なくされる。通してボウイを聴いたので〝たっぷり〟が〝少し〟になったのだ。脳内オーディオに流れた曲の輪郭からメロディーやリズムが零れるぐらいじゃないと、ライブは楽しめない。テレヴィジョンのように、モノクロームなバンドなら尚更だ。

 1曲目は再結成後の3rd「テレヴィジョン」収録曲で、新曲やデビュー以前のレパートリーを含め計10曲で、「マーキー・ムーン」が中心だったが、2nd「アドヴェンチャー」からは選曲されていなかったように思う。1曲平均が10分ほどで、トム・ヴァーレインを中心にした4人の匠が、互いの呼吸を計りながら、即興に近い形で音を紡いでいく。

 緊張が途切れず、聴く者の心を研ぐようなパフォーマンスに、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ソニック・ユース、ペイヴメントなど、ローファイ系のバンドが重なった。横と共鳴する音ではなく、聴衆は錨が下ろしたよいにフロアに立ち尽くしていた。だが、熱心にテレヴィジョンに接してきたファンにとって、至福の時だったに相違ない。ライブが終わったのは11時前で、俺は痛む膝を引きずりながら渋谷駅へと向かった。

 この間の経緯で、納得いかない点がある。テレヴィジョンは13、14年にも来日し、ライブハウスを回っていた。俺はこまめに「ロッキング・オン」のウェブサイトをチェックしているが、テレヴィジョン来日について、今回を含め一切掲載されていない。プロモーターと確執を抱えているのだろうか。
 
 常に旬を追いかけてきた俺だが、昨年後半からベテランたちのライブに接する機会が多かった。PANTA、遠藤ミチロウ、友川カズキ、そして先日の2組である。何でも老いのせいにしがちな俺だが、彼らから気合を学び、真摯に生きていきたい、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「★」~最期まで褪せぬボウイの煌めき

2016-01-19 23:08:18 | 音楽
 台湾総統選で対中独立、脱原発、同性婚支持などリベラルな方針を掲げた蔡英文候補(民進党)が圧勝した。この結果を導いたのはひまわり学生運動である。2年前の3月、行政院占拠を支持する50万の民衆が総統府を包囲した。その時の様子を空撮した映像に警察車両は見当たらず、笑みを浮かべてアピールする人たちに。<主権者は私たち>という信念が窺えた。直接民主主義が鮮やかに議会の構成を変えたのだ。

 台湾の反原発デモには人気俳優やタレントが参加しているが、圧力は一切ない。総統選では常に10代が先頭に立ってきたが、今回も若い世代の意思表示が世論を動かした。韓国のテレビ番組でアイドル(16歳)が台湾の旗を振った。大陸からの批判で、彼女は謝罪に追い込まれたが、この一件が国民のプライドを刺激し、地滑り的勝利の一因になったとされている。自由と民主主義という点で、日本が台湾に追いつく日は来るだろうか。

 デヴィッド・ボウイが亡くなって10日……。追悼の声があちこちで上がっている。俺は「別にボウイファンじゃない」と言いながら、まとめて聴こうとCDを探したら15枚あった。レコードのみで聴いたアルバムを合わせたら、20作以上になるだろう。「ファンじゃないか」と言われそうだが、年季の入ったロックファンにとって、ボウイはスタンダード、最低限のたしなみといっていい。

 学生時代(1970年代後半)、部屋に遊びにきた先輩が、壁に貼っていたボクサーや映画のポスターの間にボウイのピンナップを見つけ、「おまえ、ホモか」と切り出した。ボウイは当時、グラムロックにカテゴライズされており、ロックを聴かない彼がそんな偏見を抱いていても不思議はなかった。

 「ロッキング・オン」のウェブサイトで紹介されていた「ガーディアン」の記事は正鵠を射ている。いわく<ボウイはイアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョン)、ロバート・スミス(キュアー)、モリッシー(スミス)、プリンス、マリリン・マンソンなど、世界中のアウトサイダー、偉大なフリークスたちに心の拠りどころを与え、「異形であることを恐れるな」と鼓舞した偉大なイノベーター>(要旨)。格好悪く凡庸な〝プチ社会不適応者〟だった俺も、ボウイを含めロック(とりわけザ・フー)に救われてきた。

 ボウイで一番好きな曲は「ロックンロールの自殺者」だ。スペインの詩人にインスパイアされたといわれているが、当のボウイはボードレールを借用したと話していたそうだ。英米人にも難解な曲らしいが、「君は独りじゃない、差し伸べたこの手を握ってくれ」というフレーズに青春時代の傷が疼く。同曲が収録された「ジギー・スターダスト」を久しぶりに聴いて涙腺が決壊した。

 <ある時代の前衛は、次の世代のメーンストリームになる>……。アート全般を貫く公式をロックで実践したボウイは、〝地球に墜ちてきた男〟としてショービジネス界に降り立った。アウトサイダーであることを強く意識していたボウイは、「戦場のメリークリスマス」(83年、大島渚監督)の撮影に特別の思いで臨んだと想像している。ボウイが演じたセリウズ少佐の贖罪を込めたモノローグに、半生と重なる部分を感じたからだ。ボウイは芥川龍之介のように、いずれ訪れる狂気を恐れていたのではないか。

 遡行、蛇行を繰り返しながら、ボウイは常にコンセプトを明確に打ち出していた。デビューから「アラジン・セイン」までは<創り上げた虚構で、アウトサイダーとしての自身を表現する>というスタイルだったが、ジョージ・オーウェルの「1984」にインスパイアされた「ダイヤモンドの犬」は画期的な試みだった。薬物中毒克服のために訪れたベルリンで欧州の頽廃が薫る3部作を発表する。中でも「ヒーローズ」はボウイのキャリアでも五指に入る作品だ。

 興味深いのはアメリカとの距離感だ。MTV時代にマッチした「レッツ・ダンス」あたりで、ボウイは神の仮面を脱ぎ捨て、華やかで美しいロックスターになった。「ボウイも終わったな」……。俺を含めコアなロックファンは失望したが、ショービジネスと距離を置いたボウイは90年代、見事に復活する。売れなかったし、批評家が持ち上げることもなかったが、「ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ」(93年)、「アウトサイド」(95年)、「アースリング」(97年)など、音楽性とモチベーションが高い傑作を次々に発表する。

 「リアリティ」(03年)から10年のインタバルを置き、前作「ネクスト・デイ」からボウイは最終章に突入する。ジャズ畑の新進ミュージシャンを起用した遺作「★(ブラックスター)」はさらに研ぎ澄まされ、ストイックで瑞々しい作品だ。前作から盟友トニー・ヴィスコンティと組んだのも覚悟の表れに違いなく、ともに色調とトーンは「ベルリン3部作」に近い。聴く者を異界に誘う魔力は健在で、ボウイの無尽蔵の才能に感嘆するしかない。

 物腰の柔らかさで知られるボウイだが、窮地にあったルー・リードやイギー・ポップを支え続けた。廃人の如きリードが、「ジギー・スターダスト」ツアーの楽屋で横たわっていたという。日本好きでも知られ、目撃情報は枚挙にいとまない。とりわけ京都や奈良では、都市伝説として語り継がれている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パリの悲劇、2016問題、ステレオフォニックスetc~晩秋のロック雑感

2015-11-21 21:54:14 | 音楽
 日本相撲協会の北の湖理事長が長い闘病の末に召された。俺と3歳しか違わないが、一気に頂点に上り詰めた北の湖は雲の上の存在だった。憎々しいイメージでアンチが多かった北の湖だが、へそ曲がりの俺はヒールゆえ贔屓にしていた。良くも悪くも相撲界の因襲に漬かっていた印象はあるが、同世代のヒーローの死を心から悼みたい。

 ロックは今、二つの問題に揺れている。一つは言うまでもなくパリの悲劇で、イーグルス・オブ・デス・メタルのライブ会場が襲撃の対象になった。5㌔離れた場所で同時刻、ソロツアーのステージに立っていたダン・オーバック(ブラック・キーズ)は演奏終了後、起きたことを知り、ミラノに逃れたという。フー・ファイターズは2日後(15日)のパリを含め、欧州ツアーの中止を発表した。

 マドンナやU2らのコメントに窺えるのは<欧米=善、テロリスト=悪>の構図で、米、英、仏、露の空爆が桁違いの人命を奪っていることを顧みていない。彼らはアフリカへの援助を訴えるが、グローバリズムによる地場産業破壊と常任理事国からの武器輸出には決して触れない。〝体制側のいい子〟たちは業界を牛耳るユダヤ系資本に配慮して、イスラエルの蛮行には頬被りする。大物ロッカーで唯一、ガザ無差別空爆に怒りの声を上げたのは、チケットマスターやレーベルに真正面から立ち向かってファンとの紐帯を深めたパール・ジャムのエディ・ヴェダーぐらいである。

 動向が注目されるのは来年2月、パリのベルシー・アリーナ(キャパ1万7000人)から大掛かりな欧州ツアーをスタートするミューズだ。6日間公演のうち、既に4日はソールドアウトという盛況である。ミューズはハイパー資本主義の手法と高度なテクノロジーを最大限に利用して、反体制を高らかに掲げてきた。矛盾を止揚しながら怪鳥に成長したバンドだが、イスラム国は歌詞などに斟酌せず、格好の標的と考えるだろう。

 週に一度(金曜)はタクシー帰りのシフトになっているが、深夜の工事が増え、スイスイ進まないことが多い。東京五輪に向けての準備らしいが、1%(ゼネコンや政治家)だけが潤うという仕組みはこの半世紀、何も変わっていない。五輪の余波はロック界にも及んでいる。来年以降、ホールの改修、閉鎖が相次ぐ「2016問題」はファンにとって実に深刻だ。

 来年2~4月に来日すると踏んでいたミューズだが、いまだに発表はない。さいたまスーパーアリーナなどの改修を考えると、単独公演はなく、来日はサマーソニックになる可能性もある。日本公演を心待ちにしているマニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックスも、国内のバンドとも競合する以上、会場を押さえるのは難しそうだ。代わりに屋外フェスは増えそうだが、俺のようなアラカンには足を運ぶ気力も体力もない。

 この間、読書のBGMとして、秋以降に購入したアルバムを聴いていた。ステレオフォニックスの「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」、フォールズの「ホワット・ウェント・タウン」、ハーツの「サレンダー」、エディターズの「イン・ドリーム」で、いずれもUKロックを支えるバンドたちの最新作だ。熱と潤いを帯びたステレオフォニックスとダウナーな他の3枚に、温度と湿度の違いを覚えた。

 アメリカでは上記のエディ・ベター、イギリスではポール・ウェラーとケリー・ジョーンズ(ステレオフォニックス)が〝フーの息子〟の代表格だ。パール・ジャムとステレオフォニックスの共通点は、古典的なロックバンドであること。骨組みがしっかりしていて、普遍的な感覚と問題意識に根差した曲を作り続けている。ステレオフォニックスの新作は、タイトルに含まれているように〝アライヴ〟だった。

 キュアーの「ウィッシュ」はデビュー13年目、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「カリフォルニケイション」は15年目の作品だった。瞬間最大風速、微分係数が試されるロックの世界で、結成10年を超えて最高傑作を発表することは困難だ。ロックの女神は浮気性だから、あっちこっちに気分次第で降臨する。停滞期もあったステレオフォニックスだが、18年目に発表した新作は最高傑作と言い切れる。

 フォールズ、ハーツ、エディターズの3枚は、聴いているうち境界が消え、混然とした空気になって皮膚に染み込んできた。俺は幸いなことに、ある程度の音量でロックを自室で聴くことが出来る。だから、耳で聴くという感覚はない。体で、そして心で感じている。老いているせいか、聴いていてデジャヴを覚えることも多い。メランコリックで繊細な音に紡がれたアルバムに、UKニューウェーヴに浸っていた30年前の記憶が甦ってきた。
 
 俺が〝現役ロックファン復帰〟を宣言したのは数年前のこと。俺のアンテナがその頃、反応したのはダーティー・プロジェクターズとローカル・ネイティヴスで、祝祭的でオルタナティヴなライブに感嘆し、<いずれフジロックでヘッドライナーを務めるだろう>と記した。ところが、予言は大きく外れる。HPを覗いても具体的な話はないし、ともに頑張ってきたグリズリー・ベアはこの間、解散してしまった。「ロッキング・オン」の記事によると、グリズリー・ベアのメンバーの年収は1000万円に届いていなかったという。

 むろん、金が全てではない。インディーズであることは気楽で自由なのだろうが、世界中でもっと聴かれるべきバンドが、商業的成功と無縁のまま活動を停止するのは残念でならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ザ・フー/LIVE IN HYDE PARK」~色褪せぬ奇跡の煌めき

2015-11-15 19:03:51 | 音楽
 昨日(14日)、国連・憲法問題研究会主催の講演会「戦争法廃止への第2ラウンド――立憲主義と民主主義の逆襲――」(文京シビックセンター)に参加した。講師の杉原浩司氏は緑の党東京本部共同代表で、敬意を抱く知人である。会の詳細は次稿に記すが、杉原氏が冒頭で言及した通り、パリで起きた忌むべきテロと戦争法は根っ子で繋がっている。

 「CSI:科学捜査班」がスピンオフのマイアミ編、ニューヨーク編に次ぎ、シーズン15で幕を閉じた。アメリカの闇、病理、腐敗を抉った「CSI:科学捜査班」は世界中で指示されたが、作品の魅力を体現していたのは、シーズン9途中まで番組を牽引したギル・グリッソム主任(ウィリアム・ピーターセン)の個性だった。洞察力と包容力を併せ持ちながら孤独だったギルの扉を叩いたのはサラ(ジョージャ・フォックス)だった。

 最終話には、サンディエゴのチーフになったニック、殉死したウォリックを除くスタート時のメンバーが集結した。肝になっていたのはギルとサラの絆である。心に染みるラストに続き、15年にわたる2人の愛を綴ったダイジェスト映像(WOWOW制作?)がザ・フーの「ビハインド・ブルー・アイズ」をバックに流れる。齢を重ねるにつれて脆くなった涙腺が一気に決壊した。

 本作が「フー・アー・ユー」、マイアミ編が「無法の世界」、NY編が「ババ・オライリィ」、そして昨夜、オンエアが始まった新シリーズ「CSI:サイバー」が「恋のマジックアイ」と、主題歌はフーで統一されている。奥深いテーマ性は、世紀をまたいでも色褪せない楽曲の持つ普遍性に裏打ちされているのだ。

 バルト9で先日、「ザ・フー/LIVE IN HYDE PARK」を見た。ハイドパークで今年6月、50周年記念ツアーのファイナルとして開催されたライブが収録されている、ベスパで乗り付けたオールドモッズからキッズまで、幅広い層の6万数千人は心に錨を下ろし、自己の来し方と重ねるように聴き入っていた。「CSI」関連で上記した5曲も全てセットリストに含まれている。

 ピート・タウンゼント(ギター)は70歳、ロジャー・ダルトリー(ボーカル)は71歳……。〝年金ツアー〟と高齢バンドの公演を揶揄してきたが、フーのステージは全盛期のエネルギーを奇跡的に保っている。そう感じるのが贔屓目でないことは、ハイドパークから日を置かず、旬のバンドが覇を競うグラトンベリーでヘッドライナーを務めたことが証明している。ロシア陸上界のドーピングが耳目を集めているが、フーのライブは800㍍、1500㍍といった中距離レースを繰り返すに等しい過酷な内容だ。ピートとロジャーは、亡きキース・ムーン(ドラム)とジョン・エントウイッスル(ベース)との絆を養分にした〝精神のドーピング〟に支えられているのだろう。

 演奏の合間に織り込まれるピートとロジャー、そして縁の深いアーティストたちのインタビューも興味深かった。かつてピートは、「3人の天才(自身、キース、ジョン)と1人の凡人(ロジャー)から成る」のがフー」と論じていた。俺はピートとロジャーを、<偉大な父と永遠に超えられない息子>に喩えていたが、ロジャーが今回、「ピートは仲のいい弟みたいなもの」と語っている。両者の関係は喜寿を越えて変化したのだろう。

 かつてパンクバンドを〝フーの息子たち〟と評したロバート・プラント(レッド・ツエッペリン)はロジャーに敬意を表し、「50年もバンドが続くのはボーカルとギターの関係がいいから」と、暗にジミー・ペイジとの軋轢を仄めかしていた。ちなみに若かりし頃のフーの不仲は有名で、ペイジはキースとジョンを何度かセッションに誘い、「バンドの名前を決めよう」と提案した。レッド・ツエッペリンの命名者はジョンだったが、キースともどもフーに戻る。知られざるエピソードだ。

 BBC制作「ヒストリー・オブ・ロック」で〝ロックの誕生〟と位置付けられていたのが、フーの「マイ・ジェネレーション」(65年)だった。♪ジジイになるまでに死にたいと、ジジイのロジャーは歌う。「愛の支配」では“Love reign on me ”の“reign”を“rain”に掛けてシャウトする。「ババ・オライリィ」でピートが叫ぶ「十代の荒野」に俺は今も閉じ込められている。

 フーは誰しも思青春期に突き当たり、大人になって解決したふりをするテーマを曲にした。「トミー」が象徴的だが、疎外からの解放こそピートが追求したテーマだった。かつてピートの元に、「フーを聴いて何とか生き長らえることが出来ました」とのファンレターが多く寄せられたという。その気持ちはよくわかる。35年ほど前、〝元祖ひきこもり〟だった俺は、フーの「四重人格」を擦り切れるまで繰り返し聴いていた。俺もまたフーに救われたひとりだった。

 ロバート・プラント以外、イギー・ポップ、ジョニー・マーらがフーへの思いを語っていた。ステレオフォニックスのケリー・ジョーンズも〝フーの息子〟たちのひとりで、初めて共演した96年、ロジャーに「グッド・ラック!」と声を掛けられたという。そして今年、ステレオフォニックスは「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」で全英1位に返り咲く。快作の感想は近日中に記したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WPF、ニール・ヤング、そして遠藤ミチロウ~音楽で闘う者たち

2015-08-15 20:24:25 | 音楽
 安倍首相の70年談話(14日)は継ぎはぎだらけで、玉虫色の内容だった。沖縄でのヘリ墜落事故は、米軍特殊部隊と自衛隊の共同演習中に起きたとみる軍事専門家もいる。現実は戦争法案の彼方に進んでおり、明らかに首相の談話と乖離している。

 先日(12日)、渋谷・ハチ公前で開催された「WORLD PEACE FESTIVAL」(WPF)に参加した。俺は大場プロデューサーが場を離れる時、会場整理――といってもロープを持っているだけ――を担当した。棒立ちの俺の横、隣でロープを持つ美女が音楽に合わせて軽やかにステップを踏んでいた。

 東京新聞は1面、朝日新聞も社会面でWPFを取り上げていた。オープニングを飾ったROOT SOULのソリッドな演奏に、フジロック'10で見たジャガ・ジャシストを思い出す。出演者はそれぞれアピールしていたが、言葉で政治を語る難しさを実感する。政治家さえ稚拙な人が目に付くのだから、ミュージシャンにとっても容易ではない。その点で三宅洋平は傑出していた。

 自身、山本太郎参院議員、シールズの3者を意図的に離反させようと蠢く者がいると、三宅は切り出した。彼らをまとめて「極左」に分類する〝ネット右翼〟ではなく、合体を警戒する一部左翼を指している。言葉に接したこともないのに三宅をこき下ろし、山本を〝キワモノ〟と決めつけ、シールズの背後関係を仄めかす論調も気になる。チャランケを実践する三宅は「小さな差を乗り越えないと、権力に勝てない」と大同団結を呼びかけた。

 三宅は川内原発前で抗議を終えてやって来た。演奏の合間に、反原発と生き方との関わりを語る。戦争法案反対の盛り上がりと対照的に、フェイドアウトしつつある反原発の思いを込め、「川内原発再稼働反対」とシュプレヒコールを叫ぶ。そして今日(15日)、火山性地震が頻発している桜島の噴火警戒レベルが4に引き上げられた。

 外国人観光客がロープ内に入ってきて体を揺らしていた。三宅の持ち時間、アベックから「誰ですか」と尋ねられ、「三宅洋平といって」と説明しようとしたら、2人は雑踏へ遠ざかっていく。手を挙げて呼び止めても無視されてしまった。それはともかく、ささやかな試みが、うねりになっていくことを願っている。

 ニール・ヤングの「ザ・モンサント・イヤーズ」と遠藤ミチロウの「FUKUSHIMA」が最近の愛聴盤だ。多作ぶりがギネス級のニール・ヤングだが、「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」、「ハーヴェスト」、パール・ジャムが参加した「ミラー・ボール」ほか2、3枚しか聴いていない。そんな俺が本作に関心を持ったのは、「デモクラシー・ナウ!」等で大きく扱われていたからだ。本作は遺伝子組み換え食品を世界に流通させるモンサントを告発し、併せてスターバックスやウォルマートも攻撃している。

 ウィリー・ネルソンの息子たちのユニット「プロミス・オブ・ザ・リアル」との共演で、フォーク色、カントリー色の濃いアルバムだが、♯4「ビッグ・ボックス」のようにクレイジー・ホース時代を彷彿させる曲もあった。長年のファンは、ノスタルジックな気分に浸ることだろう。

 欧米のロックスターのメッセージ性といっても、米民主党、英労働党の掌で踊っているアーティストが大半で、資本主義の構造そのものに刃を向ける著名アーティストは極めて少数だ。ニールはこれまで、穀物メジャーによって没落を余儀なくされたアメリカの農民たちを支援し、環境問題や反核にも取り組んできた。カナダ人であること、商業的成功に拘る必要がないことも、反骨を保てる理由ではないか。

 上記の大場さんがプロデュースする「オルタナミーティング7」でPANTAと共演する遠藤ミチロウの「FUKUSHIMA」を、予習のため購入した。スターリンも聴いたことがない俺にとって〝ミチロウ初体験〟となった本作は、3・11以降、書きためた故郷福島への思いを詰め込んだ弾き語り集である。

 猥雑、途轍もないエネルギー、情念、怒り、誌的なイメージの煌めき、絶望、叙情、再生への夢、刹那的、詞の遊び、祝祭、自虐と露悪、喪失感、贖罪、鎮魂の思い……。これらが混然一体となったアルバムでとりわけ心に響いたのは、♯3「NAMIE(浪江)」、♯6「ワルツ」(友川かずき作)、♯8「俺の周りは」、♯11「放射能の海」、♯12「冬のシャボン玉」あたりか。聴き込むうち、脳裏のスクリーンに希望という名の蜃気楼がよぎった。

 既視感ならぬ既聴感を覚え、記憶の迷路を彷徨ううち、答えを見つけた。それは既読感というべきで、町田康の「告白」を読み終えた時の感覚と極めて近い。ミチロウと町田が共有するパンクスピリットが、分野を超えて無上の花を咲かせたのだろう。

 ニール・ヤングは69歳、そして妹の命を奪った膠原病と闘っている遠藤ミチロウは64歳……。気高い生き様に触れた以上、10月で59歳になる俺も老け込むわけにはいかない。無駄? に磨いた感性と蓄積した知性を、形にする手段はあるだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代がミューズに追いついた?~「ドローンズ」が咲かせたラディカルな大輪

2015-06-24 23:12:45 | 音楽
 大場プロデューサー企画のオルタナミーティング第6弾の開催が決定した。「PANTA×遠藤ミチロウ LEGEND LIVE」(11月28日、阿佐ケ谷ロフトA)である。PANTAさんとは反原発デモに同行した際、自然体で優しい個性に魅せられた。大場さんと顔を合わせるたび、「PANTAさんのイベントを」とお願いしてきたが、実現するとは夢のようだ。

 ニール・ヤングの新作「ザ・モンサント・イヤーズ」(国内盤は来月末リリース)が話題になっている。TPPとも関わってくる遺伝子組み換えを告発する内容で、俎上に載せられている企業はモンサントやスターバックスだ。ウィリー・ネルソンの息子たちとの共作で、発売を心待ちにしている。

 PANTA、ミチロウ、そしてニール・ヤング……。骨太で孤高のロッカーたちは、後輩たちに<ロックとは何か>を突き付けている。第一線のバンドで唯一、答え出しているのがミューズで、ラディカルな姿勢を前面に、反抗の空気を先取りしてきた。新作「ドローンズ」発表に合わせ、ミューズについて、他の評者と異なる視点で記したい。

 初来日(00年)時のチケットを偶然入手し、渋谷で彼らを見た。〝蒼い雛〟が第一印象で、煌めきとパッションに溢れていたが、前途洋々とは程遠かった。1stアルバムが全英チャート29位という数字は、耳が肥えて辛辣なUKのメディアやファンにスルーされていた証左といえる。フジロックやサマソニにブッキングされるUKニューカマーの大半は、5位以内のチャートアクションでデビューを果たしているからだ。

 ミューズはグラストンベリー'04でヘッドライナーに抜擢され、欧州全域で「史上最高のライブバンド」と認められる。〝不毛の地〟アメリカでのブレークに一役買ったのは、ペリー・ファレル(オルタナ界の顔役)で、自身が主宰するロラパルーザ'07で彼らをヘッドライナーに迎えた。ファレルの〝ミューズ愛〟は4年後、ロック番付を覆す。先にブッキングしていたコールドプレイをセカンドステージに追いやり、メーンステージのヘッドライナーにミューズを据えた。同時間帯対決は動員力でもミューズの圧勝に終わる。

 そして新作「ドローズ」が全米1位を獲得した。遂に時代が彼らに追いついたのだ。バンド自身、最高傑作とコメントしている通り、2nd「オリジン・オブ・シンメトリー」と並ぶ出来栄えだと思う。ロックは瞬間最大風速を競う音楽で、閃きは大抵、時とともに褪せていく。13年目で「ウィッシュ」を発表したキュアー、15年目で「カリフォルニケーション」を世に問うたレッド・ホット・チリ・ペッパーズに匹敵する偉業といえる。

 フジロック'07で来日した際、マシュー・ベラミーはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンへの敬意を語っていた。反政府ゲリラ(ケニア土地自由軍)のリーダーだった父(後に国連代表)に影響を受けたトム・モレロと、サパティスタの闘士ザックが結成したレイジは、斬新な音楽性とラディカルな思想で世界を震撼させた。ミューズのハイライトのひとつは、レイジの活動20周年イベント「LAライジング」(11年)のオファーを受け共演したことである。

 彼らの変化は4th「ブラック・ホールズ・アンド・レヴァレイション」(06年)に表れていた。メッセージ性の強い曲が収録されていたが、中でも「サイツ・オブ・サイドニア」はボブ・マーリーの「ゲット・アップ、スタンド・アップ」の21世紀版というべき直截的なプロテストソングだ。

 ジョージ・オーウェルの「1984」にインスパイアされた「レジスタンス」(09年)のオープニング曲「アップライジング(叛乱)」をウェンブリースタジアムで演奏した際、ステージ上でフードに棍棒という出で立ちの100人前後の若者が、〝権力との対峙〟と呼ぶべき寸劇を演じる。そのシーンが拡大されて現実になったのが、数カ月後に発生したロンドン蜂起である。

 前作「ザ・セカンド・ロウ」(12年)もメッセージ色の濃いアルバムで、「アニマルズ」では資本家を揶揄していた。ツアーでは巨大なピラミッドを逆さまに吊るし、「ヒエラルヒーの象徴としてのピラミッドを倒立させたのは、変革に寄せる僕たちの希望の表れ」とマシューは語っていた。ちなみに同作では4~5分のキャッチーな曲が目立ったが、そこに回帰と進化が窺えた。「ドローンズ」にも鋭さとクオリティーをアップさせたポップチューンが並んでいる。

 コンセプトアルバムを志向する点で、本作は前2作の延長線上にある。1曲ごとにダウンロードして聴くという風潮を踏まえた上で、マシューは「だからこそアルバムにはトータルなテーマ性が必要になる」と語っていた。タイトルの「ドローンズ」とは、日本でも物議を醸したハイテク飛行物体で、コントロールルームでの操作で進行するバーチャルな戦争の主役を担うとみられている。ミューズは屋外ライブの会場でドローンを飛ばす予定という。

 マシューは掉尾を飾るタイトル曲の製作意図を以下のように語っている。<被害者を弔う歌なんだ。この作品は名もなき忘れ去られた人たちによる、この世のものならぬコーラスで締め括られている。彼らに正義は決してもたらされることはなく、ロボットに殺害されたまま終わっていく。ここに人道というものが抱える本質的な悲劇が晒されている>……。

 本作のコンセプトは、<情報統制、洗脳、教化が進む社会で、人々はどのように自我と自由を取り戻していくか>だ。敵の象徴として現れるドローンズとの闘いに敗北した人々は、尊厳を守るため再度立ち上がる。ラストでは革命の凱歌と亡き者たちへのレクイエムが高らかに謳われ、「アーメン」で締め括られる。

 フェスで反原発を訴えたバンドに対し、「うざい」という書き込みが殺到する日本では、ミューズの示した壮大なテーマは正しく受け入れられないだろう。だが、欧州全域で広がりつつある反グローバリズム、反資本主義のムードに、ミューズは見事にマッチしている。

 フジロックは外せない用事とバッティングし参戦できない。その代わりといっては何だが、サマソニでマニック・ストリート・プリーチャーズを見る予定だ。「ホーリーバイブルツアー」の再現となれば、見逃したら悔いが残る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大丈夫であるように」~Cocco&是枝の至高のコラボ

2015-06-13 20:27:33 | 音楽
 前稿で記したベイスターズは、あれから接戦で負け続け、ついに貯金0になった。スタートラインと考え、長い目で応援することにする。首位と最下位が4・5ゲーム差とセは大混戦だが、どこが日本シリーズに出場しても、パワフルなパ球団に粉砕されそうだ。

 明日は戦争法案反対国会前集会に参加する。大江健三郎がこの手の集まりで切り出す「市民の皆さん」に心に響かなくなって久しい。格差と貧困が進行する日本において、市民のイメージが曖昧になってきた。<全ての市民が活動家にならないと民主主義は崩壊する>(マイケル・ムーア)は、日本の現状を穿つ至言といえる。知人によれば、若者の姿が集会で目立つようになっているらしい。潮目が変わったのか、この目で確認したい。

 けなしてばかりで申し訳ない大江だが、<想像力こそ世界と繋がる武器>は永遠の真理だ。辺野古移設、戦争法案、原発再稼働、格差と貧困は、想像力を駆使することで絡まった根っ子が見えてくる。「DAYS JAPAN」6月号では沖縄を特集していたが、<琉球とパレスチナ>と題された松島泰勝龍谷大教授と広河隆一発行人の対談が興味深かった。キーワードは<屈辱とアイデンティティー>で、沖縄とパレスチナは集団的自衛権と想像力の糸で紡がれている。

 録画しておいた「大丈夫であるように―Cocco終らない旅―」(08年、是枝裕和)を見た。日本映画専門チャンネルが「海街diary」公開に合わせて組んだ是枝特集の一環で、アルバム「きらきら」発売直後の全国ツアーを追ったドキュメンタリーだ。

 Coccoといえば、主演作「KOTOKO」(11年)の感想を以下のように記した。<痛みと変容をテーマに掲げる塚本晋也監督、痛さで知られるCocco(原案・企画・美術も担当)……、二つの痛さの中和を期待していたが、痛さの二乗といえる作品だった>……。

 「大丈夫であるように――」観賞後、Jポップに関心が薄い俺は、Coccoが何者なのか調べてみた。沖縄出身で、作品に何度も登場する少年は17歳時に出産した息子である。ツアーファイナルが武道館2DAYSというから、思っていた以上の知名度をだ。骨太のドキュメンタリーを世に問うてきた是枝が、なぜCoccoを対象に選んだのか……。その理由は少しずつ明らかになっていく。

 30歳(撮影当時)にしては表情やしぐさが幼く、自分のことを「あっちゃん」と呼ぶ。子供が子供を育てているみたいだ。耳目を集める表現者の多くは、体を厚い皮膜で覆って防御するが、Coccoは対照的だ。自身を曝け出し、「あっちゃんは弱い。しっかりしなくちゃ」と繰り返し、ライブの後、悔しくてひとり泣く。話していても、Coccoはすぐ泣き声になる。撮影中、Coccoが黒砂糖以外を口にするのを見なかったとテロップにあった。Coccoは本作公開直前、拒食症で入院している。

 社会派の是枝がCoccoに注目したのは、真摯な生き様に加え、沖縄へのこだわりだ。子供の頃の夢を聞かれ、アメリカと沖縄の不条理な関係を踏まえた上で、「外国人留学生のための寮を造りたかった」と語っている。辺野古移設が全国的に報じられる前、Coccoは「ジュゴンの見える丘」(07年)を発表し、ファンから送られた短冊を米軍が設置した鉄条網に張り付けた。沖縄戦について繰り返し言及し、鎮魂の思いを込めた曲が幾つもある。

 感銘を覚えたのはCoccoの鋭く柔らかな観応力だ。彼女の元に青森のファンから手紙が届く。核燃料再処理工場が建設された六ケ所村について記されており、Coccoは青森公演の際、当地を訪ねた。その夜のステージで彼女は「今まで知らなくてごめんなさい」と謝る。被害者の立場から「沖縄を忘れないで」と訴えてきた自分の無知を恥じ、俯瞰の目で国家に蹂躙される沖縄と六ケ所村を同一の地平で捉えていた。3・11後、大切な人の命とコミュニティーが津波や放射能で奪われる現実に反応したCoccoは、支援活動に加わった。3・11以前から彼女の中で、<沖縄―福島―六ケ所村>は一つの回路で直結していたのだ。

 崇高な意志、魂を削るような表現への情熱だけでなく、本作にはCoccoの純粋さ、優しさが形になった曲が盛り込まれている。復習としてベスト盤を聴いてみることにした。ちなみにCoccoは昨年、舞台「ジルゼの事情」で初主演し、高い評価を得る。シンガー・ソングライター、童話作家、そして役者として活動の場を広げているCoccoは、「きっと、大丈夫」だ。

 ラストでCoccoは夜の浜辺をスコップで掘り、ファンレターと自分の髪を燃やす。幻想的な光景に是枝の最高傑作「ディスタンス」(01年)が重なった。希有な表現者との出会いに、是枝は大いなる刺激を受けたはずだ。いずれCocco主演作をと期待している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モグワイ at EXシアター六本木~音のカプセルに閉じ込められて

2015-03-13 13:05:45 | 音楽
 3・11から4年が過ぎた。あれこれ言葉を捻り出してみたが、常套句がちりばめられた自分の文章に辟易する。硬直化に嫌気が差して消去した。閉塞状況に悲憤慷慨したって何も始まらない。「拠点を踏まえ地道に行動することが肝要」と言いつつ、映画、読書、音楽、落語と遊びを優先してしまうのは文化系ゆえか。

 「ロッキン・オン」最新号にキュアーのロバート・スミスのロングインタビューが掲載されている。興味深かったのは、イアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョン)とカート・コバーン(ニルヴァーナ)の自殺についての発言だった。イアンの死に直面し、<彼以外、もちろん自身も含め、みんな詐欺師のように思えた>(要旨)と語っていた。

 どこまでがリアルで、どこからがフェイクなのか……。真摯なロバートは悩み続けた。カートの訃報に、<どうして余分な一歩を踏み出してしまったのか>と感じ、自分も他のロッカーたちのようにフェイクなのか、いや、同じぐらい駄目だけど、肯定すべき点もあるのではと自問自答したという。葛藤を曝け出すロバートに誠実さを感じた。

 ミューズの新作「ドローンズ」(6月リリース)から、「サイコ」のPVが公式サイトでアップされた。攻撃的でソリッドな曲調、演奏スタイル、衣装(戦闘員スタイル)は、マニック・ストリート・プリーチャーズの初期を彷彿させる。ラディカルさを前面に金融資本主義を批判するミューズだが、欧州ではスタジアムツアー、アメリカではアリーナツアーを展開する。どこまでがリアルで、どこからがフェイクなのだろう。

 前日の反原発集会と打って変わって、俺(アラカン)が年長者ベストテンに入るイベントに足を運んだ。モグワイの東京公演(9日)である。客層は20~30代が中心で、普通の感じの人が多かった。モグワイはグラスゴー出身で、「スコットランドの恥」という曲がある。インスツルメンタルなので主張はわからないが、昨年の国民投票に際し、独立賛成派を支援するコンサートに出演していた。

 ロックファンに復帰し、トレンドを再度追いかけ始めた09年暮れ、絶対見ると決めていたバンドがあった。フレーミング・リップスとシガー・ロス、そしてモグワイである。俺の中での共通点は読書の供であること。とりわけモグワイの芯に染み込む音は文学にピッタリで、相乗効果で世界が広がっていく感じがする。

 サービス精神旺盛のウェイン・コインが祝祭的なムードを醸し出すフレーミング・リップス、狂おしいヨンシーのパフォーマンスが求心力になっているシガー・ロスを堪能した。残った宿題というべきモグワイをクリアするはずがライブの冒頭、「失敗した」と独りごちた。会場(EXシアター六本木)はスタンディングに不向きで、後方からはメンバーの動きが殆ど見えなかった。

 予習したCDから満遍なく選曲されていたが、モグワイは一曲ずつ聴くのではなく、音の連なりに耽溺するバンドだ。ダウナーでメランコリック、そしてちょっぴりメロディアス……。そんなCDからの先入観は薄まり、ビートの雨に叩かれ痺れ、音のカプセルに閉じ込められた2時間弱だった。

 ライブの基本は<見る>+<聴く>で、<見る>抜きではバンドの空気と力学を理解することは出来ない。グラストンベリー'11の映像で復習したが、メンバーは淡々とストイックに演奏していた。とはいえ、屋外の大会場とライブハウスでは印象が異なる。開放感とダイナミズムに溢れた音、映像、照明、スモークのアンサンブルだった。

 モグワイは奥深くに錨を下ろし、底へと沈めていく重力を秘めている。横ではなく縦の座標に聴く者を導くバンドなのだ。ライブ終了後、感想を述べ合う会話が聞こえてくるのが普通だが、俺と同じく反芻している人が多かったのか、出口に向かう階段は静まり返っていた。

 驟雨の中、帰路に就いたが靄は晴れない。今回は次回への予習だったのだ。スマッシュはフジロックにもぜひ呼んでほしい。土曜限定だが、苗場でモグワイの全身を五感すべてで体感したい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四重人格ライブ」に甦る青春時代の痛みと潤い

2014-12-12 13:24:26 | 音楽
 ケアハウスで暮らす母から電話が掛かってきた。「どこに投票したらええんや?」と言う母は自民党員で、投票先など決まっているはずだが、安倍首相は絶対に許せない。「90前の老婆の年金を減らすなんて考えられへん。おまけに、アホの麻生の言うことときたら」……。

 母の怒りはまっとうだが、どうして多くの国民は〝心の叛乱〟を企てないのだろう。俺は関西弁で「給料も年金も減らされ、みんな困っとる、70歳までこき使われてポイちゅうのは奴隷制や。死に票が嫌やったら、民主党(京都4区は北神候補)に入れたらええ」と返した。

 先日、ささやかな忘年会に参加した。勤め人時代のOB、OGたちで、俺以外の3人はアラフォーである。それぞれの職場における若者への違和感を口にしていたが、俺は「若者は大人を映す鏡」と持論を展開する。例えば、政治資金規制法違反で経産相を辞した小渕優子候補……。議員辞職すべき小渕は公認され、楽々当選してお目こぼしになりそうだ。

 <小渕が叩かれたのは入閣して目立ったから。悪いことをしてもバレなきゃいい>、あるいは<強い者、金のある者は何をしても許される>……。こんな風に感じた若者は、「倫理、良心、矜持は人生に邪魔」との結論に至るだろう。息を潜めて周囲を窺うことが、若者たちの生きる術になった。閉塞社会をつくった中高年層に全ての責任がある。

 ようやく本題……。WOWOWでオンエアされた「ザ・フー四重人格ライブ・イン・ロンドン2013」を見た。「四重人格」発表40周年を記念したツアーのファイナル公演(ウェンブリー・アリーナ)を収録したものだ。俺にとって人生最大の愛聴盤は間違いなく「四重人格」で、全曲をそらんじている。生き残ったピート・タウンゼント、ロジャー・ダルトリーの力強いパフォーマンスに胸が熱くなり、青春時代の痛みと潤いが甦ってきた。

 ♪十五、十六、十七と わたしの人生暗かった 過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく……。「圭子の夢は夜ひらく」のフレーズを置き換えれば、<二十五、二十六、二十七と 俺の人生暗かった>となる。部屋に遊びに来た女友達は、「無理心中を迫られるんじゃないかと心配になった」と後に感想を漏らしていたほどで、周りから犯罪、もしくは自殺予備群と見られても不思議ではなかった。

 フリーター、引きこもり、社会的不適応といった言葉が蔓延する現在と違い、1980年代前半の俺には〝仲間〟がいなかった。バイトも長続きせず、態度が悪くてクビになったこともしばしばだ。「定職に就かぬまま、落ちこぼれていく」ことが確実に思え、迷い込んだ猫と、一日の食費500円で暮らす日々が続いていた。

 俺にとってのシェルターは文学、そしてロックだった。UKニューウェーブのダウナーなムードに浸りつつ、一日の最後に聴くのは「四重人格」と決まっていた。「あなたの作った曲で救われました」という内容の膨大なファンレターがピートの元に届いていたというが、俺も「四重人格」を締める「愛の支配」のロジャーの叫びに、解放感とカタルシスを覚えていた。

 破壊的なステージで人気を得たフーは「ゴッドファーザー・オブ・パンク」として、後輩バンドやロックファンに支持されている。怒れる若者の象徴と受け止められていたが、60年代の英国では、米、仏、独、そして日本と比べると、体制に異議を唱える声は小さかった。揺るぎない階級社会ゆえといえるかもしれない。

 ピートの主題は一貫して<疎外からの解放>だった。「四重人格」ではメンバー4人の個性をジミーの四つの人格に反映させている。モッズのジミーはロッカーズとの抗争に加わるうち、ハレとケの区別ができなくなる。熱い週末と退屈な平日の折り合いがつかなくなり、狂気を帯びたジミーは仲間内で孤立していった。

 レコードに付いていたブックレットに記されたピートによるストーリーと写真を基に、映画「さらば青春の光」が制作される。ジミー役のフィル・ダニエルズの好演、モッズのリーダーを演じたスティングの格好良さが光るロック映画の傑作だった。

 かつてピートは、「ザ・フーとは3人の天才と1人の凡人から成るバンド」と語っていた。3人の天才とはピート自身、ジョン・エントウィッスル(02年没)、キース・ムーン(78年没)だ。1人の凡人とけなされたロジャーだが、「フーズ・ネクスト」(71年)でフーの声としての地位を確立する。今回のライブで69歳のロジャーは、シャウトと高音で〝努力する天才〟の力を見せつけていた。

 背後のスクリーンに、戦中から戦後の英国のニュースフィルムが流れる。ステージの進行に合わせて在りし日のジョンとキースの演奏シーンが映し出され、ピートとロジャーが笑顔で見入っている。絆の強さを感じる場面だった。

 小説、映画、音楽との出合いが、若き日の孤独を癒やし、潤してくれた。生命維持装置といえた文学の要素が濃いフーの作品群に心から感謝している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新譜&グラストンベリー~秋の夜長にロックを愉しむ

2014-09-18 23:39:17 | 音楽
 10日以上前だが、仕事先の先輩Yさんがフェイスブックで、若い世代の音楽の聴き方に疑義を呈していた。フェスなどでメッセージを発信するミュージシャンを批判するツイッターに、同意のコメントが幾つも寄せられていたからだ。槍玉に挙がっていたのは、反原発を訴えるクロマニヨンズや斎藤和義である。

 ロックの原点はメッセージのはずだが、体制に「NO」を突き付けるのは、欧米でも勇気がいる。ブルース・スプリングスティーンでさえ〝社会主義的〟と見做され、干された時期があったほどだ。〝イスラエルタブー〟は絶対で、ガザ攻撃を批判したビッグネームはエディ・ヴェダー(パール・ジャム)ぐらいである。パール・ジャムはチケットマスターやレーベルと闘って勝ち残った希有なバンドだから、恐れるものなどない。

 今年前半はロックと疎遠になっていたが、思い出したようにCDを買っていた。涼しくなって聴き込んでいるのは、インターポールの「エル・ピントール」とヴァインズの「ウィキット・ネイチャー」だ。秋の夜長に馴染む音で、後者は俺にとって年間ベストワン候補である。

 インターポールはアメリカ出身だが、<ポストパンク・リバイバル>に分類されるようにUKニューウェーヴ色が濃い。ジョイ・ディヴィジョンの影響が窺えるダークでメランコリックな音に、20代の心の風景が甦ってくる。俺にとってロックはあの頃、生きるための必須ビタミンだった。

 ヴァインズには驚かされた。15年以上のキャリアを誇るベテランだが、6thアルバムは初期衝動、繊細さ、煌めきに満ちている。30代後半でこんな音が出せるとは、魔法としか言いようがない。クチクラ化した俺の血管に、爽やかに染み渡っていく。

 ヨーロッパの大学生にとって、夏季休暇の一番の楽しみは何か……。アンケートの1位はロックフェスである。欧州全域で毎週末に開催されるフェスをはしごする若者は多いが、最大のイベントといえばグラストンベリーだ。スカパーでオンエアされたグラストンベリー'14の総集編(5時間)を通して見た。

 アーケイド・ファイアで始まり、ジャック・ホワイトで終わる。中締めはメタリカでMGMTも大受けと、製作したBBCは〝非英色〟を前面に出していた。オンエアされたのは一握りだが、数組をピックアップして感想を記したい。紹介しきれなかったアーティストについては、別稿で触れることにする。

 フジロックで見るはずだったアーケイドだが、バッティングしたマニック・ストリート・プリーチャーズの方を選んだ。マニックス一家に草鞋を脱いでいる以上、裏切るわけにはいかなかったからである。

 アーケイドは雑食性のモンスターだ。正式メンバーは7人だが、20人以上の大編成でステージに立つ。ロマの楽団といった趣で、寸劇やおふざけもあり。学芸会で初めて舞台に立った少年のときめきを忘れていない。フロントマンのウィン・バトラーはポン引き、奥さんのレジーヌ・シャサーニュは場末のクラブママといった雰囲気だ。チープさを漂わせながら、その実、緻密に構成された斬新かつ高度な演奏で、大観衆とともに祝祭空間を創り上げる。

 締めのジャック・ホワイトはアーケイドと志向が逆で、鋭く激しく、ロックの骨組みを浮き彫りにして、観衆を高揚させていた。2枚のCDを絶賛したフォスター・ザ・ピープルはライブ映えするバンドだった。キャッチーな曲、隙のない演奏、ルックスの良さを兼ね備えたフォスターは、デペッシュ・モード級に大化けするかもしれない。

 この年になって女の子うんぬんも大人げないが、続々と降臨するロックディーバたちに胸がときめいた。美人3姉妹のハイム、ラナ・デル・レイ、エリー・ゴールディング、ロンドン・グラマーのハンナ、チャーチズのローレンetc……。才能、美貌、個性を併せ持った女の子たちが、世界最高の舞台で輝いていた。

 スコットランド独立を問う国民投票の結果があす判明する。ミュージシャンの間でも意見が分かれているようだ。反グローバリズム派なら賛成というわけでもなく、行き過ぎたナショナリズムを危惧する声もある。独立となれば欧州全土、そして沖縄にも波及するだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする