弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

小机城訪問

2024-05-08 09:03:12 | 趣味・読書
5月5日、小机城を訪問しました。
都内から東急東横線で菊名へ、そこで横浜線に乗り換えて各停で2駅、小机駅で降ります。
まずはスタンプです。小机駅の南口側にある、横浜市城郷小机地区センターです。事前に電話して、1階でスタンプが押せることを確認していました。
スタンプ押印の後、近くで昼食を取る計画でしたが、近くにはお店がありません。諦めてまずは城址を見学し、昼食はそのあととしました。
下の地図、右下に「↓小机辻」とあります。その小机辻の十字路を曲がり、地図の下から上へと歩きました。城址の入り口がわかりません。ちょっとうろちょろしましたが、ご近所の方に教えていただき、下の地図の右下の十字路を左に折れれば良いことがわかりました。

小机城概略図

城址の領域に入り、本丸広場を目指します。下の写真にあるような竹林の中を進みます。


城址は、下の写真のような空堀が縦横に配置され、二つの高台広場があります。一方が本丸広場、もう一方が二ノ丸広場と呼ばれています。

空堀

下の写真は、本丸広場に到着したところです。広場への入り口に、下写真のような冠木門が配置されていました。

本丸への入り口

下の写真は本丸広場、左隅にわれわれが通った冠木門が見えます。

本丸広場

本丸広場で一休みし、二ノ丸広場へ向かいます。道は、空堀の中に設けられています。下写真のように、本丸広場から下って二ノ丸方向へ向かう途中、右へ行くと井楼跡、との標識がありました。

空堀を行く

空堀から急斜面を登り詰めると、二ノ丸広場です。

二ノ丸広場

二ノ丸広場横に一段高い場所があります。櫓台とのことです。

二ノ丸広場と櫓台

櫓台の頂きの地面に、下写真のような礎石が埋まっています。礎石には円形の穴が開いています。この礎石が小机城の一部だったのかどうかは不明です。この礎石に柱を立てて櫓を構築し、物見として使われたのでしょうか。

櫓台

ネットで調べたところ、市教委が「小机城」を初めて発掘、二の丸広場近くで“柱の痕跡”、空堀には土器(2021年12月07日)との記事が見つかりました。しかし、上の写真の櫓台頂上の礎石の話ではないようです。櫓台近くの南曲輪(二ノ丸広場?)を掘削したところ、礎石のない穴が見つかり、掘立柱の穴らしい、との推定が書かれていました。

二ノ丸広場からちょっと下ったところに、下写真のような標識があります。

井楼跡(せいろうあと)
「井楼」とは、柱を井桁状に組んだ高い構築物で、物見の役割を果たしていたようです。

こうして、小机城訪問を終了しました。
下にも記すように、小机城が城として機能していたのは、12世紀ごろから1600年頃までであり、江戸時代にはすでに廃城となっていました。廃城から400年以上が経過しましたが、よくぞこれだけの城址として維持されたものです。

小机城の来歴
現地の案内板に以下のように説明されています。
『築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。そのころは、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、・・。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山に退陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10年(1478)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40年間廃城となっていました。
大永4年(1524)一族の北条氏堯の城となり、小笠原越前守信為を城代として再興しました。小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な枠割りを果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が滅び、4代目城主の弥次平衡重政が徳川家の家臣として200石の知行を与えられ、近くの台村に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。』

下の写真は、北方上空から小机城址を撮影したものです。小机城が、独立の山に設けられた平山城であることが分かります。城址の西端が第三京浜で分断されています。
 Hovering Cat

城址から小机駅に向かう道で、正面にスタジアムが見えました。小机駅は、横浜Fマリノスのホームの最寄り駅だったのですね。

日産スタジアム
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