弁理士の日々

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本佐倉城訪問

2024-04-15 15:26:59 | 趣味・読書
前号から続く。

本日は、前号に記載のようにまず佐倉城を訪問し、次いでタクシーで移動して本佐倉城を訪問しました。

本佐倉城は、大佐倉駅の東方に位置しています。

現代の本佐倉城跡は、四方を田んぼと林に囲まれた場所に位置しています。

タクシーは、本佐倉城跡の国史跡本佐倉城跡観光案内所に到着しました。まずは続100名城のスタンプです。
観光案内所は、小さな建物ですが、中は展示が充実しています。まずはビデオ鑑賞です。何枚ものパンフレットが用意されていて、係の人から説明も受けました。そして、われわれが実際に東山から城山を歩くのにもつきあっていただきました。
以下では、上の地図の赤数字で、1番付近から2番、4番、5番~9番と進む順で写真を上げています。
下の写真は、城の北側の田んぼ地帯から、東山を眺めています。中央の台地が東山です。その中央の切れ目が赤2番の東山虎口です。

北方の東光寺ビョウ付近から2番の東山虎口を見る


2番の東山虎口

東山虎口の途中から北方を見たのが下の写真です。

2番の東山虎口から北方の印旛沼方面
はるか北方の丘の上に建っているビルは、順天堂大学のさくらキャンパスのようです。江戸時代末期に佐倉城主の堀田正睦が順天堂を佐倉に招致した事情と、現代の順天堂大学さくらキャンパスが本佐倉城の北方に位置していることとの間には、何らかの関連があるのかないのか。

上の写真で遠方の順天堂大学よりも手前、左右に連なる土手が見えます。この土手が京成線の線路です。戦国時代は、印旛沼がこの線路の付近まで広がっていたそうです。そして印旛沼は太平洋まで繋がっており、印旛浦を形成していました。印旛浦は水運が盛んであり、また敵は印旛浦を経由して攻めてくることもできます。本佐倉城は、印旛浦からの攻撃に備え、北側の防御を固めていたそうです。

東山虎口を抜けると、下の写真のような段々の地帯となります。「Ⅳ郭」と呼ばれています。説明書には「利用不明の郭」とあります。

Ⅳ郭方向
上の東山虎口は、厳重に守られていて侵入は難しくなっています。一方で、東山と城山の間の地帯、東山馬場からⅣ郭にかけては、何の防備も見当たりません。北方から侵入した敵は、東山虎口の固い守りを突破するのではなく、東山を時計回りに回って東山馬場からⅣ郭を突破することとすれば、苦もなく5番の大堀切まで到達できそうです。どうなっているのでしょうか。


5番の大堀切から6番の城山通路方向
5番の大堀切、6番の城山通路、7番の城山虎口、8番の城山門跡を経由して、城山まで到達します。

城山

下の写真は、城山から北方を見ています。左遠方が東山の東端で、中央、駐車場右の建物は国史跡本佐倉城跡案内所です。

城山から北方

さて、本佐倉城の来歴です。
本佐倉城跡は、今から約500年前(西暦1470年前後)に造られた中世戦国時代の城跡です。城の主は千葉氏一族、約100年間で9代の城主が本佐倉城を本拠地としました。治めていた国は下総国一国(現在の千葉県北部と茨城県南部)で、関東でも有数の名族でした。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小田原の北条側についていた千葉氏は滅亡し、本佐倉城はここから長い眠りにつきます。
そして現代、ほぼ当時のままの姿で今、再び目覚めようとしているとのことです。

関東一円の戦国時代の城主で、北条側についていたために豊臣秀吉の小田原攻めの際に滅ぼされ、城も廃城となった、というお城を、私はもう一つ知っています。
世田谷区豪徳寺の南側に位置する世田谷城跡がそれです。世田谷城跡をご参照ください。

帰りは、城の北側の東山虎口を降り、徒歩で京成の大佐倉駅まで歩きました。京成本線を京成八幡で降り、そこから都営新宿線の本八幡駅まで歩き、都営新宿線で帰宅しました。
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