ブログ更新が滞っていました。3月は年度末で仕事が山積して繁忙期であったこと、健康上の理由、などが重なりました。
4月になって繁忙期も終了し、健康も回復しました。そこで4月13日火曜日、日本200名城めぐりを再開しました。
今回は、佐倉城(100名城)、本佐倉城(続100名城)を訪問しました。
まずは佐倉城です。東京から京成本線を利用し、京成佐倉駅で降ります。南口の駅近くに観光案内所があったので、そこに立ち寄りました。係の方がとても親切に説明してくださいました。
観光案内図で説明します。上部中央が京成佐倉駅、そこから西へ地図の緑色ルートを進みました。地図の左上に国立歴史民俗博物館、その南西に佐倉城址公園です。
この左上に国立歴史民俗博物館があります。まずはここのロビーで100名城のスタンプをゲットしました。
上の図で下(南)に下ると、馬出し空堀、そしてその南方に本丸跡を中心とした佐倉城址が広がっています。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1814.jpg)
佐倉城
下の写真は、馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物が見えます。馬出空堀の手前が、椎の木門跡のはずです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1790.jpg)
馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1793.jpg)
椎の木門跡から本丸跡に向かう
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1797.jpg)
佐倉城址出土の礎石
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1799.jpg)
本丸跡
佐倉城は、現在の国立歴史民俗博物館を含む広い領域が外側を堀(水堀)で囲まれ、その内側については、随所に空堀が設けられて本丸地域を防御する構造になっているようです。
佐倉城は、江戸時代初期、家康の命で家康家臣の土井利勝が築城しました。
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を伺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
江戸時代末期には堀田氏が封ぜられました。
堀田正睦は、幕末に老中としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭し、鎖国から開国へと導きました。また、順天堂の開設に尽力し、順天堂は一時佐倉に位置していました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1808.jpg)
タウンゼント・ハリス像 堀田正睦像
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1809.jpg)
空堀
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1811.jpg)
三の門跡付近の空堀
佐倉城址を一回りしたあと、われわれは東の方向に歩き、一番上の地図で朱色の経路を大手門までたどり、さらに東方に進んで、地図中央の麻賀多神社のそば、地図上9番のおそば屋さんに入りました。
房州屋本店です。京成佐倉駅前の観光案内所で、このおそば屋さんを紹介されたのです。小さな店ですが、入ってみると大勢の人が順番待ちしていました。結局、店に入ってから食事にありつけるまでに2時間ぐらい待ったでしょうか。皆さんじっと待っています。「長時間待ってでも食べたい」という強い意志を感じました。
われわれにも順番が回ってきました。下の写真の三味そばを注文しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1816.jpg)
房州屋の三味そば
食べてみると、とてもおいしいおそばでした。天ぷらそば、とろろそば、なめこそばの3つの味を楽しむことができます。おそらく、この店は味がおいしいこと有名で、お客さんが集まってくるのでしょう。
たっぷりのおそばで満腹になりました。
ここから本佐倉城までの移動は、「京成佐倉駅まで徒歩-一駅先の大佐倉駅まで電車-本佐倉城まで徒歩」という経路をたどることもできますが、もう疲労困憊です。京成佐倉駅前の観光案内所では、タクシーの頼み方も教わっていました。そこで電話で配車を依頼しました。タクシーはすぐに来ました。
以下次号。
4月になって繁忙期も終了し、健康も回復しました。そこで4月13日火曜日、日本200名城めぐりを再開しました。
今回は、佐倉城(100名城)、本佐倉城(続100名城)を訪問しました。
まずは佐倉城です。東京から京成本線を利用し、京成佐倉駅で降ります。南口の駅近くに観光案内所があったので、そこに立ち寄りました。係の方がとても親切に説明してくださいました。
観光案内図で説明します。上部中央が京成佐倉駅、そこから西へ地図の緑色ルートを進みました。地図の左上に国立歴史民俗博物館、その南西に佐倉城址公園です。
この左上に国立歴史民俗博物館があります。まずはここのロビーで100名城のスタンプをゲットしました。
上の図で下(南)に下ると、馬出し空堀、そしてその南方に本丸跡を中心とした佐倉城址が広がっています。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1814.jpg)
佐倉城
下の写真は、馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物が見えます。馬出空堀の手前が、椎の木門跡のはずです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1790.jpg)
馬出し空堀と、その向こうに国立歴史民俗博物館の建物
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1793.jpg)
椎の木門跡から本丸跡に向かう
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1797.jpg)
佐倉城址出土の礎石
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1799.jpg)
本丸跡
佐倉城は、現在の国立歴史民俗博物館を含む広い領域が外側を堀(水堀)で囲まれ、その内側については、随所に空堀が設けられて本丸地域を防御する構造になっているようです。
佐倉城は、江戸時代初期、家康の命で家康家臣の土井利勝が築城しました。
以来佐倉城は、江戸城を囲む関東東域の諸国や海上の動静を伺う拠点城となり、西の小田原や北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられます。
江戸時代末期には堀田氏が封ぜられました。
堀田正睦は、幕末に老中としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭し、鎖国から開国へと導きました。また、順天堂の開設に尽力し、順天堂は一時佐倉に位置していました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1807.jpg)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1808.jpg)
タウンゼント・ハリス像 堀田正睦像
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1809.jpg)
空堀
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1811.jpg)
三の門跡付近の空堀
佐倉城址を一回りしたあと、われわれは東の方向に歩き、一番上の地図で朱色の経路を大手門までたどり、さらに東方に進んで、地図中央の麻賀多神社のそば、地図上9番のおそば屋さんに入りました。
房州屋本店です。京成佐倉駅前の観光案内所で、このおそば屋さんを紹介されたのです。小さな店ですが、入ってみると大勢の人が順番待ちしていました。結局、店に入ってから食事にありつけるまでに2時間ぐらい待ったでしょうか。皆さんじっと待っています。「長時間待ってでも食べたい」という強い意志を感じました。
われわれにも順番が回ってきました。下の写真の三味そばを注文しました。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/sakura/s/DSC_1816.jpg)
房州屋の三味そば
食べてみると、とてもおいしいおそばでした。天ぷらそば、とろろそば、なめこそばの3つの味を楽しむことができます。おそらく、この店は味がおいしいこと有名で、お客さんが集まってくるのでしょう。
たっぷりのおそばで満腹になりました。
ここから本佐倉城までの移動は、「京成佐倉駅まで徒歩-一駅先の大佐倉駅まで電車-本佐倉城まで徒歩」という経路をたどることもできますが、もう疲労困憊です。京成佐倉駅前の観光案内所では、タクシーの頼み方も教わっていました。そこで電話で配車を依頼しました。タクシーはすぐに来ました。
以下次号。
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