8月17~20日、龍岡城五稜郭、小諸城、上田城と訪問した最後は、19日の松代城です。
《松代城訪問》
松代城正面の門
太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)
公共交通機関を用いて松代城を訪問するには、JR長野駅前からバスを利用します。駅前の3番乗り場から、30番に乗り、松代駅停留所で下車します。前日に長野駅前のホテルに宿泊し、朝はゆっくりと出発しました。
松代城案内図
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明です。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。
元和8年(1622)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。
松代城の100名城のスタンプは、城の近くの真田邸に設けられているとあります。上の案内図における「新御殿(真田邸)」が、おそらく現在の真田邸でしょう。そこでまず、真田邸を探し、スタンプをゲットしました。
真田邸の門
真田信之公像
真田邸の門から見た真田邸の正面
真田邸の中には入らず、すぐに松代城に向かいました。
太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)
松代城の南正面は堀に面し、上写真のような橋(太鼓門前橋)と、その先に枡形が配置されています。橋のすぐ先の門が橋詰門、その先が枡形で、枡形から城内に入る位置に太鼓門が配置されています。橋詰門は、その形式が高麗門であることが下の写真から分かります。
橋詰門(高麗門)(枡形の中か)
太鼓門(枡形の中から)
太鼓門(本丸側から)
太鼓門をくぐると、そこは四周を石垣で囲まれた本丸です。
本丸の北東端に北不明門があります。北不明門の外側が外枡形になっています。
北不明門(本丸側から)
北不明門(枡形の中から)
北不明門の枡形(城壁の上から)
北不明門枡形の出口(枡形の中から)
北不明門と枡形(城外から)
本丸の北西端は、戌亥櫓台になっています。この石垣は松代城内でも古い近世初頭のものといわれており、その高さと勾配の美しさは当時の石工の技術の高さを物語っている、と説明されています。
戌亥櫓台
北不明門から出て本丸の東側に回ると、そこは二の丸の敷地です。下の写真は、二の丸の中から、二の丸と城外を隔てる土塁で囲まれていることが分かります。
二の丸
こうして、松代城の訪問が終わりました。城の近くで昼食をとることにします。ちょうど、近くに竹風堂 松代店がありました。麦とろ膳をいただきました。
麦とろ膳
帰りも、「松代駅」停留所からバスを利用します。松代駅(ウィキ)は、長野電鉄屋代線(ウィキ)の駅(廃駅)です。屋代線は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結ぶ長野電鉄の鉄道路線でしたが、2012年に廃線になりました。路線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されています。
松代駅
松代駅
《川中島古戦場訪問》
松代駅から長野駅までのバスの経路に、「川中島古戦場」停留所があります。そこでバスを途中下車することにしました。
永禄4年(1581)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開されました。
上杉謙信は、乱戦で武田本陣が手薄になっているのに気づき、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲しました。このとき、武田信玄は軍配を右手に持ち、崩れかかる諸隊を激励指揮していました。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負いました。のちにこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡というそうです。
一騎打ちの像
三太刀七太刀跡之碑
信玄が謙信に打ち込まれた間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の槍をとって謙信に突き出しました。馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を逃れました。一方謙信を取り逃がし無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石(執念の石)を槍で突き通したといいます。
執念の石
逆槐(さかさえんじゅ)
川中島の戦い(第4次)において、武田方は海津城(後の松代城)、上杉方は妻女山に陣取っていました。
武田信玄は、8千人を八幡原に展開し、別働隊1万2千人をもって妻女山に攻め込ませ、八幡原に出てくる上杉軍を挟撃する作戦を立てました(啄木鳥戦法)。しかし謙信は、事前にこの動きを察知し、一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡りました(頼山陽「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる))。
上杉軍(1万3千人)の凄まじい勢いに武田軍本隊(8千人)は防戦一方となり、武田信玄の軍師である山本勘助もこのとき戦死しました。謙信と信玄の一騎打ちが演じられたのがこのときです。
武田軍の別働隊(1万2千人)が八幡原に到着したのは昼前でした。それまでは上杉軍有利、そのあと武田軍有利となり、『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としています。
川中島大合戦図
バスに乗り継ぎ、長野駅に帰ってきました。酷暑にやられたのでかき氷を食べたいと、お店を探しました。なかなか見つかりません。唯一、竹風堂 長野駅前店が見つかりました。
栗みぞれ
この日は長野駅前のホテルに宿泊し、翌20日、新幹線を軽井沢で途中下車し、アウトレットで買い物を楽しんだ後に東京に帰着しました。
《松代城訪問》
松代城正面の門
太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)
公共交通機関を用いて松代城を訪問するには、JR長野駅前からバスを利用します。駅前の3番乗り場から、30番に乗り、松代駅停留所で下車します。前日に長野駅前のホテルに宿泊し、朝はゆっくりと出発しました。
松代城案内図
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明です。
戦国時代から江戸時代初期までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事・政治的に重要な拠点となっていました。
元和8年(1622)に真田信之が上田城から松代城に移り、松代藩政の拠点としました。
松代城の100名城のスタンプは、城の近くの真田邸に設けられているとあります。上の案内図における「新御殿(真田邸)」が、おそらく現在の真田邸でしょう。そこでまず、真田邸を探し、スタンプをゲットしました。
真田邸の門
真田信之公像
真田邸の門から見た真田邸の正面
真田邸の中には入らず、すぐに松代城に向かいました。
太鼓門前橋(手前)と太鼓門(後方)
松代城の南正面は堀に面し、上写真のような橋(太鼓門前橋)と、その先に枡形が配置されています。橋のすぐ先の門が橋詰門、その先が枡形で、枡形から城内に入る位置に太鼓門が配置されています。橋詰門は、その形式が高麗門であることが下の写真から分かります。
橋詰門(高麗門)(枡形の中か)
太鼓門(枡形の中から)
太鼓門(本丸側から)
太鼓門をくぐると、そこは四周を石垣で囲まれた本丸です。
本丸の北東端に北不明門があります。北不明門の外側が外枡形になっています。
北不明門(本丸側から)
北不明門(枡形の中から)
北不明門の枡形(城壁の上から)
北不明門枡形の出口(枡形の中から)
北不明門と枡形(城外から)
本丸の北西端は、戌亥櫓台になっています。この石垣は松代城内でも古い近世初頭のものといわれており、その高さと勾配の美しさは当時の石工の技術の高さを物語っている、と説明されています。
戌亥櫓台
北不明門から出て本丸の東側に回ると、そこは二の丸の敷地です。下の写真は、二の丸の中から、二の丸と城外を隔てる土塁で囲まれていることが分かります。
二の丸
こうして、松代城の訪問が終わりました。城の近くで昼食をとることにします。ちょうど、近くに竹風堂 松代店がありました。麦とろ膳をいただきました。
麦とろ膳
帰りも、「松代駅」停留所からバスを利用します。松代駅(ウィキ)は、長野電鉄屋代線(ウィキ)の駅(廃駅)です。屋代線は、長野県千曲市の屋代駅から長野県須坂市の須坂駅までを結ぶ長野電鉄の鉄道路線でしたが、2012年に廃線になりました。路線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されています。
松代駅
松代駅
《川中島古戦場訪問》
松代駅から長野駅までのバスの経路に、「川中島古戦場」停留所があります。そこでバスを途中下車することにしました。
永禄4年(1581)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開されました。
上杉謙信は、乱戦で武田本陣が手薄になっているのに気づき、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲しました。このとき、武田信玄は軍配を右手に持ち、崩れかかる諸隊を激励指揮していました。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負いました。のちにこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡というそうです。
一騎打ちの像
三太刀七太刀跡之碑
信玄が謙信に打ち込まれた間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の槍をとって謙信に突き出しました。馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔し去ったため、信玄は危うく虎口を逃れました。一方謙信を取り逃がし無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石(執念の石)を槍で突き通したといいます。
執念の石
逆槐(さかさえんじゅ)
川中島の戦い(第4次)において、武田方は海津城(後の松代城)、上杉方は妻女山に陣取っていました。
武田信玄は、8千人を八幡原に展開し、別働隊1万2千人をもって妻女山に攻め込ませ、八幡原に出てくる上杉軍を挟撃する作戦を立てました(啄木鳥戦法)。しかし謙信は、事前にこの動きを察知し、一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡りました(頼山陽「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる))。
上杉軍(1万3千人)の凄まじい勢いに武田軍本隊(8千人)は防戦一方となり、武田信玄の軍師である山本勘助もこのとき戦死しました。謙信と信玄の一騎打ちが演じられたのがこのときです。
武田軍の別働隊(1万2千人)が八幡原に到着したのは昼前でした。それまでは上杉軍有利、そのあと武田軍有利となり、『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としています。
川中島大合戦図
バスに乗り継ぎ、長野駅に帰ってきました。酷暑にやられたのでかき氷を食べたいと、お店を探しました。なかなか見つかりません。唯一、竹風堂 長野駅前店が見つかりました。
栗みぞれ
この日は長野駅前のホテルに宿泊し、翌20日、新幹線を軽井沢で途中下車し、アウトレットで買い物を楽しんだ後に東京に帰着しました。
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