5月25日(土)は、東武東上線の武蔵嵐山駅付近の2つのお城を訪問しました。菅谷館跡と杉山城です。
まずは菅谷館跡を訪問し、前報で報告しました。
ここでは、杉山城訪問記録を載せます。
付近の地図にあるように、杉山城は武蔵嵐山駅の北西方向に位置しています。
菅谷館跡を訪問し、ばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食した後、電話でタクシーを呼んで、杉山城に向かいました。
杉山城の全体について、以下の絵図を掲載します。天然の小高い丘の全体を用いた山城であることがわかります。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/sugiyama1.jpg)
杉山城
杉山城案内の1ページ目には、杉山城の復原鳥瞰図が記載されています。
駅でもらった「比企城館跡群ガイド」によると、杉山城は以下のように説明されています。
『杉山城跡は、戦国時代の山城跡です。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評価されてきました。』
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2179.jpg)
杉山城説明図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/sugiyama4.jpg)
杉山城跡航空写真(上の説明図の拡大)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/sugiyama3.jpg)
杉山城跡縄張り図(上の説明図の右下部拡大)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2180.jpg)
杉山城の説明
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2182.jpg)
大手口から本郭方向を望む
本郭へ向かうに際し、馬出郭から南3の郭、南2の郭と順に上り、本郭にいたる道を選びました。しかし経路は複雑に曲折し、人が歩く道は両側が土塁になっており、攻めるのは難しそうです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2183.jpg)
馬出郭から本郭へ向かう
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2195.jpg)
本郭
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2197.jpg)
本郭から外郭とその左の切岸を望む
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2203.jpg)
東2の郭から外郭とその左の切岸を望む
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2205.jpg)
東2の郭
本郭から、東2の郭、東3の郭とたどるにつれて高度が下がります。そのまま東に抜ける道に通じていたのですが、向かう方向が違うかもしれないと不安になり、南方向に城の斜面を突っ切る強行突破になりました。
杉山城のスタンプを押さなければならないのですが、スタンプは嵐山町役場に用意されています。そこまでたどり着く必要があります。
玉ノ岡中学まで出て、紆余曲折、炎天下を延々と歩きました。最終的に町役場にたどり着き、続100名城のスタンプを押印するとともに、電話でタクシーを呼びました。
到着したタクシーの運転手さんは、さっき杉山城まで乗車したタクシーと同じ運転手さんでした。武蔵嵐山駅までタクシーで移動し、東武東上線で帰宅の途につきました。
杉山城についてウィキペディアで調べると
『市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。』
これだけ精巧に作られた城なのに、だれが造ったのか、どのような役割を担ったのか、全く不明であるというのは驚きです。
また、戦国期まで機能した城であり、江戸時代以降は使われていなかったにもかかわらず、各郭、土塁、切岸、空堀がほぼ完璧に保存されていたのも驚きです。石垣ではなく土塁ですから、自然に崩落しそうなものですが。
まずは菅谷館跡を訪問し、前報で報告しました。
ここでは、杉山城訪問記録を載せます。
付近の地図にあるように、杉山城は武蔵嵐山駅の北西方向に位置しています。
菅谷館跡を訪問し、ばんだい嵐山店でラーメンと餃子を食した後、電話でタクシーを呼んで、杉山城に向かいました。
杉山城の全体について、以下の絵図を掲載します。天然の小高い丘の全体を用いた山城であることがわかります。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/sugiyama1.jpg)
杉山城
杉山城案内の1ページ目には、杉山城の復原鳥瞰図が記載されています。
駅でもらった「比企城館跡群ガイド」によると、杉山城は以下のように説明されています。
『杉山城跡は、戦国時代の山城跡です。
鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に10の郭を配置した縄張り(城の建物などの配置)となっています。各郭には様々な工夫が凝らされており、攻めてくる敵兵に対して、強い防御力と攻撃力を誇っています。その作りには高度な築城技術が施されていて、「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評価されてきました。』
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2179.jpg)
杉山城説明図
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/sugiyama4.jpg)
杉山城跡航空写真(上の説明図の拡大)
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杉山城跡縄張り図(上の説明図の右下部拡大)
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2180.jpg)
杉山城の説明
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2182.jpg)
大手口から本郭方向を望む
本郭へ向かうに際し、馬出郭から南3の郭、南2の郭と順に上り、本郭にいたる道を選びました。しかし経路は複雑に曲折し、人が歩く道は両側が土塁になっており、攻めるのは難しそうです。
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2183.jpg)
馬出郭から本郭へ向かう
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2195.jpg)
本郭
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2197.jpg)
本郭から外郭とその左の切岸を望む
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2203.jpg)
東2の郭から外郭とその左の切岸を望む
![](https://xs629720.xsrv.jp/blog/ranzan/s/DSC_2205.jpg)
東2の郭
本郭から、東2の郭、東3の郭とたどるにつれて高度が下がります。そのまま東に抜ける道に通じていたのですが、向かう方向が違うかもしれないと不安になり、南方向に城の斜面を突っ切る強行突破になりました。
杉山城のスタンプを押さなければならないのですが、スタンプは嵐山町役場に用意されています。そこまでたどり着く必要があります。
玉ノ岡中学まで出て、紆余曲折、炎天下を延々と歩きました。最終的に町役場にたどり着き、続100名城のスタンプを押印するとともに、電話でタクシーを呼びました。
到着したタクシーの運転手さんは、さっき杉山城まで乗車したタクシーと同じ運転手さんでした。武蔵嵐山駅までタクシーで移動し、東武東上線で帰宅の途につきました。
杉山城についてウィキペディアで調べると
『市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や年代についてはほとんど分かっていない。地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、文献資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である可能性が強くなっている。』
これだけ精巧に作られた城なのに、だれが造ったのか、どのような役割を担ったのか、全く不明であるというのは驚きです。
また、戦国期まで機能した城であり、江戸時代以降は使われていなかったにもかかわらず、各郭、土塁、切岸、空堀がほぼ完璧に保存されていたのも驚きです。石垣ではなく土塁ですから、自然に崩落しそうなものですが。
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