弁理士の日々

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阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」

2012-11-21 21:37:01 | 歴史・社会
日華事変(日中戦争)の発端は盧溝橋事件ということになっています。1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれました。それから両軍の戦闘がエスカレートし、同年年末には南京攻略、そして次の年の初めに近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」と宣言して日中戦争は泥沼の長期戦に入っていきました。
盧溝橋事件当時、北京では現地軍同士の停戦協定が結ばれ、収束に向かったのですが、実は蒋介石は、この機会に現地日本軍と全面的に戦う決心をしていたのです。決戦地は、北京ではなく上海です。上海の郊外には、蒋介石がドイツの指導で鉄壁のトーチカ陣地を何重にも構築済みであり、その準備のもと、上海に駐屯する日本海軍陸戦隊に対して、ドイツ製の優秀な兵器で武装した蒋介石軍が戦闘を仕掛けたのです(同年8月12日)(第二次上海事変)。
第二次上海事変については、その後の泥沼の日中戦争の発端となったし、また直後の南京大虐殺の契機にもなった事変でしたが、日本ではさほど知られていません。
日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
阿羅健一
小学館

この度、上記書籍を読みました。
第一次大戦に敗れたドイツは、ベルサイユ条約によって軍隊の大幅縮小を余儀なくされました。ドイツの軍人は中国の蒋介石と結び、ドイツ人軍人が軍事顧問団となって蒋介石軍を指導するとともに大量のドイツ製兵器を中国に輸入し、一方で中国からは、戦略物資であるタングステンがドイツに向けて輸出されました。
この軍事援助と戦略物資貿易は、中国とドイツの双方に利益をもたらすものでした。第一次大戦終了から日華事変勃発にいたるまで、当時のドイツは、日本と同盟を組むよりも、蒋介石中国とより強く結びついていたのです。日独防共協定を締結した後もです。

蒋介石は、ドイツ軍事顧問団の指導を受け、ドイツ製の優秀な兵器を大量に配備し、ドイツ式の訓練を受けた軍隊を育成しました。蒋介石はこのように強化した軍隊で、自ら対日戦を開始して戦うつもりになっていたのです。
戦場は上海です。
上海の周辺には、鉄筋コンクリート製のトーチカが多数作られました。ドイツの指導で作られた中国軍トーチカは、ドイツ製の機関銃が据えられ、兵士はドイツ製の小銃とチェコ製の軽機関銃で武装しています。盧溝橋事件勃発直前、ドイツ軍事顧問団の指導のもと、中国は対日戦に向け、最新式の陣地を構築し、ほぼ万全の準備を整え、日本との開戦を待っていたのです。

盧溝橋事件勃発直後、事件が発生した北京では、中国軍の司令官(宋哲元)は日本と停戦協定を結びかけました。宋哲元は事後的に「蒋介石は対日戦を決意している」と聞かされ、北京の中国軍は撤退をやめて日本軍と対峙することとなりました。

上海市で日本人居留民の安全を守っていたのは、海軍特別陸戦隊です。
上海市の周囲に中国軍の強固な陣地が構築完了していたのは上述の通りです。7月7日の盧溝橋事件発生後、7月下旬になると蒋介石は上海市近くに軍隊を増強し、戦闘準備を着々と進めていました。そして8月9日、上海特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が上海の路上で射殺される事件が発生しました。この射殺事件は、日本から見れば偶発的事件ですが、中国は対日戦を決意していますから謝罪などするつもりはありません。先制攻撃で日本の陸戦隊を攻め、壊滅させるつもりでいます。
8月14日、上海での全面戦闘が開始されました。

今回読んだ著書にいくつもの地図が掲載されているのですが、距離感がわかりません。そこで、google地図をベースに、第2次上海事変の戦地となった地域を地図にしてみました。

地図の右上が揚子江、右下部分のオレンジで囲った当たりが上海市街地です。日本人居住区と書いたあたりに日本人が生活していました。蘇州河をはさんで南側は共同租界であり、日本人以外の外国人が住んでいたようです。陸戦隊本部と記載した位置に日本海軍の陸戦隊本部が置かれていました。この地点よりも南側が、主な市街地であろうと思われます。
上海事変開戦時、中国軍は江湾鎮や大場鎮を中心として、上海市街を北と西から包囲し、日本軍を殲滅しようと身構えていました。

上海での日本軍危機に対応し、日本政府は陸軍部隊を上海に派遣することを決めました。しかし陸軍が上海に到着するまでには1週間かかります。
中国軍は、日本の陸軍部隊が上陸してくる前に、特別陸戦隊を殲滅することを目標としていました。中国軍は陸戦隊の10倍の戦力と、ドイツ軍事顧問団に指導され、ドイツ製の兵器で武装した最強部隊で特別陸戦隊に襲いかかったのです。
しかし10倍ほどの精鋭を相手に、特別陸戦隊はなんとか戦い抜きました。
『「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」
後日、こう蒋介石は悔やんだ。
23日未明、日本側が待ち望んだ陸軍部隊が呉淞(ウースン)鉄道桟橋に上陸しはじめた。』
『特別陸戦隊は大損害を出しながらも、中国軍とドイツ顧問団の望みに反して、邦人と租界の日本側の拠点を、それこそ文字通り死守したのだ。』

第2次上海事変において、海軍特別陸戦隊が闘った緒戦に引き続き、日本は陸軍を投入して中国軍に対抗しました。その日本陸軍は大苦戦に陥り、激戦となりました。
私はてっきり、このような大激戦は上海市の市街戦として闘われたと思い込んでいました。しかし今回、上記著書を読むと、日本陸軍が戦ったのは市街戦ではなく、広大なクリーク地帯に事前に準備された強固なトーチカ陣地軍を殲滅しようとする野戦だったのです。
上の地図で見ると、上海市街は右下のわずかな部分です。陸戦隊本部よりも下のオレンジ色の領域でしょうか。
それに対し、日本陸軍が戦った相手の強固なトーチカ陣地は、北は劉河鎮から嘉定、南翔までを結ぶ線を西端とする広い地域にびっしりと構築されていたのです。南北30km、東西30kmに及ぶ地域です。日本陸軍はこの全域を制圧しようとして戦闘を継続しました。この地域で、前進する日本軍に対して、トーチカの機関銃銃座から射すくまれ、また歩兵が持つチェコ製軽機関銃に銃撃されました。このような戦場において日本軍が一歩一歩前進し、3ヶ月を経過して日本軍の勝利に終わります。しかしそれを可能にしたのは、日本軍がどのように多大な戦死傷者を出そうがそれを顧みず、肉弾戦を闘ったお陰です。

例えば第3師団は、8月23日に呉淞鉄道桟橋から強行上陸し、ただちに戦闘が開始されました。中国軍はドイツ軍事顧問団の指導を受け、あたかも第1次大戦の陣地戦のように強烈な戦いを仕掛けてきます。それでも日本軍は一歩一歩前進し、宝山城を落としたのが9月6日です。第3師団が西進して楊行鎮を制圧したのが9月12日、その後南下に転じ、呉淞(ウースン)クリークを越えて江湾鎮や大場鎮の敵陣地に挑むこととなります。別のルートを戦いながら南下してきた第11師団、そして補充兵中心の第101師団もいっしょです。大場鎮への攻撃は13日に開始されましたが、中国軍は堅固なトーチカを拠点として豊富な火力で日本軍に立ち向かい、たちまちにして日本軍の攻撃は頓挫しました。多大な犠牲の下に大場鎮を制圧したのは、9月23日でした。

以下第2回
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