弁理士の日々

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加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)

2009-01-29 20:26:13 | 歴史・社会
前回に続き、満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)を取り上げます。

日本陸軍の派遣軍の陣容は、現役兵を中心とする部隊ではなく、予備後備兵、補充兵を中心とする部隊でした。参謀本部第一部長の石原完爾は、あくまで対ソ連戦のために現役兵精鋭部隊を温存し、上海に補充兵中心の部隊を送り込んだのです。これが、上海から南京にかけての日本軍の軍紀弛緩の原因となりました。

この点は、上海での第百一師団 でも話題にしたとおりです。
「第百一師団長日誌―伊東政喜中将の日中戦争」(中央公論新社)に関する中央公論の座談会で、古川隆久日大教授は以下のように述べています。
「まず部隊の作り方がおかしい。急に日本で兵隊をかき集めて、そのまま二週間後には送り出してしまう。
この日誌から直接読み取れるところでも、師団長と連隊長の意思疎通がうまくいっていない。」
「中国と本格的な戦争になるなどとは思ってもいなかったと考えないと辻褄が合わない。」
「この日誌を読むと分かるのですが、行軍の時に、だんだんと統率が乱れていきます。」

こうして上海戦線に送り込まれた兵士たちがどのような体験をしたのか。秦 郁彦著「南京事件―「虐殺」の構造 (中公新書)」から拾います。
「二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。(戦死は1万5千を超えるのではないか)
 なかでも二十代の独身の若者を主力とする現役師団とちがい、妻も子もある三十代の召集兵を主体とした特設師団の場合は衝撃が大きかった。東京下町の召集兵をふくむ第101師団がその好例で、上海占領後の警備を担当するという触れこみで現地へつくと、いきなり最激戦場のウースン・クリークへ投入され、泥と水の中で加納連隊長らが戦死した。
 『東京兵団』の著者畠山清行によると、東京の下町では軒並みに舞い込む戦死公報に遺家族が殺気立ち、報復を恐れた加納連隊長の留守宅に憲兵が警戒に立ち、静岡ではあまりの死傷者の多さに耐えかねた田上連隊長の夫人が自殺する事件も起きている。
 日本軍が苦戦した原因は、戦場が平坦なクリーク地帯だったという地形上の特性もさることながら、基本的には、過去の軍閥内戦や匪賊討伐の経験にとらわれ、民族意識に目覚めた中国兵士たちの強烈な抵抗精神を軽視したことにあった。
 ・・・
 ともあれ、上海戦の惨烈な体験が、生き残りの兵士たちの間に強烈な復讐感情を植え付け、幹部をふくむ人員交替による団結力の低下もあって、のちに南京アトローシティを誘発する一因になったことは否定できない。」

満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)」に戻ります。
陸軍省軍事課長であった田中新一は、38年1月12日の乗務日誌に「軍紀風紀の現状は皇軍の重大汚点なり。強姦・略奪たえず。現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なおたえず」と書きました。

戦争は日本軍にとって緒戦から困難な闘いとなり、37年中に動員された兵士は93万人に達します。その内訳は、召集兵は59万4千人で、現役兵の33万6千人の倍近くでした。戦争は続き、帰還兵による戦場の様相が少しずつ社会にも伝えられるようになります。
「陸軍次官通牒『支那事変地より帰還する軍隊及び軍人の言動指導取締に関する件』に例示されている帰還兵の話には、次のようなものがあった。
『兵站地域では牛や豚の徴発は憲兵に見つけられたよく叱られたが、第一線に出れば食わずに戦うことはできないから、見つけ次第片端から殺して食ったものだ』『戦闘中一番嬉しいものは略奪で上官も第一線では見ても知らぬ振りをするから思う存分略奪するものもあった』『戦地では強姦位は何とも思わぬ』。」
加藤著書ではここで、以前紹介した吉井義明「草の根のファシズム」 に言及します。上記「陸軍次官通牒」の出典が明らかにされていないのは残念でした。

満州事変、国際連盟脱退、盧溝橋事件から日中戦争へ、のそれぞれの時点で、特定の為政者の強い意思に基づくわけでもなく、もちろん蒋介石の仕掛けた罠でもなく、各人の思惑、日中両国の思惑がすれ違い、事態は悪い方へ悪い方へと転がっていった、というのが真相であるように理解されました。
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