前回からだいぶ空いてしまいましたが、塩野七生「ローマ人の物語~最後の努力」の2回目です。
ローマ人の物語〈37〉最後の努力〈下〉 (新潮文庫)
ローマ帝国は、建国以来ずっと多神教です。ローマが国家として敬う神々が存在する一方、ローマに属する国々の国民が別の神を敬うことも許容します。ただし、ローマ皇帝を頂点とするローマの施政には従ってもらわなければなりません。
ところが3世紀ごろには、ローマ帝国の域内においてもキリスト教が次第に広がってきていました。キリスト教徒は、キリスト教の神以外の権威を認めません。即ち、ローマ皇帝の権威を認めないのです。これでは、外敵の侵入にさらされる危機の時代に帝国の結束を保つことができません。
そのため、ローマ帝国では断続的にキリスト教に対する迫害が行われました。この時代であると、4頭制をはじめたディオクレティアヌスによるキリスト教迫害が大きかったようです。
ところが、4頭制の最後、コンスタンティヌスが324年に勝利してたった一人の専制君主として君臨したところで、コンスタンティヌスはキリスト教に対するスタンスを180度変更します。
まずは324年に先立つ313年、コンスタンティヌスとリキニウス両帝により、「ミラノ勅令」が公布されます。
「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人は自身が良しとする宗教を信じ、それにともなう祭儀に参加する完全な自由を認められる。」
この勅令は、決して「キリスト教公認」ではなく、「信教の自由の公認」ですね。
ところが、リキニウスをも倒してコンスタンティヌスがただ一人の皇帝となって以降、ローマ帝国をそれまでのものから全く別の姿に変貌させてしまいます。その中で宗教政策も変化していきます。
(国)ローマは、ロムルスによる建国以来ずっと、このときに至るまで1千年間、(都市)ローマを首都としてきました。コンスタンティヌスは、首都をそれまでのビザンティウム(現在のイスタンブール)に移してしまうのです。新帝都は「コンスタンティノポリス」と呼ばれます。
コンスタンティノポリスの工事着工は紀元324年、完成を祝う式典は330年に行われました。
コンスタンティヌスは、このコンスタンティノポリスにローマなどの神々に捧げる神殿を設けませんでした。コンスタンティヌスのこの時点での本音は、キリスト教の振興にありました。
コンスタンティノポリスにキリスト教会を建て、教会に領地を寄進し、キリスト教の聖職者が軍務や公務に就かなくてもいいという特権を与えます。
当時のキリスト教は、教理の解釈を巡って分裂の危機にありました。神とその子イエスと聖霊は同位であるがゆえに一体でもあるとする「三位一体」説と、「一体ではない」と説くアリウス派の争いが中心でした。コンスタンティヌスはニケーア公会議を招聘してこの教理論争に決着を付けます。「三位一体」に統一です。
「それにしてもコンスタンティヌスは、なぜこれほどもキリスト教会の振興に熱心であったのか。」
当時、ローマ帝国の全人口に占めるキリスト教徒の数は5%前後だったようです。
ローマ帝国の皇帝は、建前としてはローマ市民によって選ばれます。皇帝として不適切とみなされれば、暗殺という形でリコールされます。
これに対し、もし「皇帝は神が選んだ」ということになれば、神を信ずる民はそれを受け入れざるを得ません。
塩野氏の推理によると、コンスタンティヌスはキリスト教を振興したうえで、神の言葉を伝える司教を味方に付け、王権を神が付与したというお墨付きを得ようとしたのではないか、ということです。
そしてこの考えは、キリスト教がヨーロッパ社会で広がるとともに受け入れられ、17世紀に「王権神授説」となって継続されることとなります。
「戴冠式」というのが、その実態をよく表しています。王がひざまずくのは、神の意を伝える役とされている司教の前です。そして神の代理人である司教は、ひざまずく王の頭上に、神によって正当化された支配権の象徴としての王冠を載せます。
研究者は「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である分裂に次ぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せていただろう」と言います。
そうとすると、西欧社会においてキリスト教が絶対的権力を獲得し、そのために「中世」という暗黒ともいえる時代の到来を導いたのは、コンスタンティヌス一人がその原因を作ったのだということになります。
しかし、こうまでしてローマ帝国の延命を図ったにも関わらず、帝国をひとまずにしてもたたせておけた歳月は、この後百年足らずにすぎなかったのです。
別の研究者は「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのか」と言います。ローマ帝国滅亡後に訪れる中世が、どのような時代になったのかを知ればなおのことです。
ローマ人の物語〈37〉最後の努力〈下〉 (新潮文庫)
ローマ帝国は、建国以来ずっと多神教です。ローマが国家として敬う神々が存在する一方、ローマに属する国々の国民が別の神を敬うことも許容します。ただし、ローマ皇帝を頂点とするローマの施政には従ってもらわなければなりません。
ところが3世紀ごろには、ローマ帝国の域内においてもキリスト教が次第に広がってきていました。キリスト教徒は、キリスト教の神以外の権威を認めません。即ち、ローマ皇帝の権威を認めないのです。これでは、外敵の侵入にさらされる危機の時代に帝国の結束を保つことができません。
そのため、ローマ帝国では断続的にキリスト教に対する迫害が行われました。この時代であると、4頭制をはじめたディオクレティアヌスによるキリスト教迫害が大きかったようです。
ところが、4頭制の最後、コンスタンティヌスが324年に勝利してたった一人の専制君主として君臨したところで、コンスタンティヌスはキリスト教に対するスタンスを180度変更します。
まずは324年に先立つ313年、コンスタンティヌスとリキニウス両帝により、「ミラノ勅令」が公布されます。
「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人は自身が良しとする宗教を信じ、それにともなう祭儀に参加する完全な自由を認められる。」
この勅令は、決して「キリスト教公認」ではなく、「信教の自由の公認」ですね。
ところが、リキニウスをも倒してコンスタンティヌスがただ一人の皇帝となって以降、ローマ帝国をそれまでのものから全く別の姿に変貌させてしまいます。その中で宗教政策も変化していきます。
(国)ローマは、ロムルスによる建国以来ずっと、このときに至るまで1千年間、(都市)ローマを首都としてきました。コンスタンティヌスは、首都をそれまでのビザンティウム(現在のイスタンブール)に移してしまうのです。新帝都は「コンスタンティノポリス」と呼ばれます。
コンスタンティノポリスの工事着工は紀元324年、完成を祝う式典は330年に行われました。
コンスタンティヌスは、このコンスタンティノポリスにローマなどの神々に捧げる神殿を設けませんでした。コンスタンティヌスのこの時点での本音は、キリスト教の振興にありました。
コンスタンティノポリスにキリスト教会を建て、教会に領地を寄進し、キリスト教の聖職者が軍務や公務に就かなくてもいいという特権を与えます。
当時のキリスト教は、教理の解釈を巡って分裂の危機にありました。神とその子イエスと聖霊は同位であるがゆえに一体でもあるとする「三位一体」説と、「一体ではない」と説くアリウス派の争いが中心でした。コンスタンティヌスはニケーア公会議を招聘してこの教理論争に決着を付けます。「三位一体」に統一です。
「それにしてもコンスタンティヌスは、なぜこれほどもキリスト教会の振興に熱心であったのか。」
当時、ローマ帝国の全人口に占めるキリスト教徒の数は5%前後だったようです。
ローマ帝国の皇帝は、建前としてはローマ市民によって選ばれます。皇帝として不適切とみなされれば、暗殺という形でリコールされます。
これに対し、もし「皇帝は神が選んだ」ということになれば、神を信ずる民はそれを受け入れざるを得ません。
塩野氏の推理によると、コンスタンティヌスはキリスト教を振興したうえで、神の言葉を伝える司教を味方に付け、王権を神が付与したというお墨付きを得ようとしたのではないか、ということです。
そしてこの考えは、キリスト教がヨーロッパ社会で広がるとともに受け入れられ、17世紀に「王権神授説」となって継続されることとなります。
「戴冠式」というのが、その実態をよく表しています。王がひざまずくのは、神の意を伝える役とされている司教の前です。そして神の代理人である司教は、ひざまずく王の頭上に、神によって正当化された支配権の象徴としての王冠を載せます。
研究者は「もしもコンスタンティヌスが存在しなかったとしたら、キリスト教会は、教理の解釈をめぐってのたび重なる論争とその結果である分裂に次ぐ分裂によって、古代の他の多くの宗教同様に消え失せていただろう」と言います。
そうとすると、西欧社会においてキリスト教が絶対的権力を獲得し、そのために「中世」という暗黒ともいえる時代の到来を導いたのは、コンスタンティヌス一人がその原因を作ったのだということになります。
しかし、こうまでしてローマ帝国の延命を図ったにも関わらず、帝国をひとまずにしてもたたせておけた歳月は、この後百年足らずにすぎなかったのです。
別の研究者は「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのか」と言います。ローマ帝国滅亡後に訪れる中世が、どのような時代になったのかを知ればなおのことです。
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