弁理士の日々

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原英史「官僚のレトリック」(2)

2010-09-02 20:56:49 | 知的財産権
原英史著「官僚のレトリック―霞が関改革はなぜ迷走するのか」については、8月24日の記事で話題にしました。安倍政権以来の公務員制度改革の推移について、全体の概略をまとめるとともに、民主党政権になってからの体たらくに関してやや詳細に述べてみました。
ここでは第2回として、安倍政権時代に公務員制度改革がどのように推移したのかを、上記書籍から拾ってみます。

安倍政権で公務員制度改革に着手するのは、2006年12月7日、経済財政諮問会議の席でした。ここで民間議員4名連名で「民間議員ペーパー」が提出されます。
・「各省庁による再就職斡旋を禁止」
・「政府全体で一元化された窓口で(中略)公務員の希望と求人をマッチングさせる。」
という画期的な提案でした。しかし提出時点では、およそ非常識な提案といった扱いで、強烈な反対に遭います。
これに対し安倍首相は2007年1月26日、施政方針演説で「予算や権限を背景とした押付的な斡旋による再就職を根絶」すると表明しました。しかしこのフレーズの中に、天下り根絶を頓挫させる“官僚の罠”が仕掛けられていたのです。じつは霞が関の見解では、「それまでも押し付け的斡旋などやっていない」というスタンスであり、首相の上記施政方針演説は「現状を全て容認する」に等しいコメントだったのです。このフレーズはおそらく、担当部局である行政改革推進本部事務局の官僚が作成して演説案に埋め込まれたもので、そのまま最終稿に残って国会で読み上げられたのだろう、と原氏は推測します。

行革担当大臣は当初佐田玄一郎氏でしたが、事務所費問題で辞任し、2006年末に渡辺喜美氏に交代していました。渡辺氏は就任するや「現状を何も変えない」路線に疑問を呈し、政府・与党内での暗躍を始めました。そして諮問会議での民間議員提案を下敷きに、渡辺案として「各省斡旋の禁止」+「一元的窓口として新・人材バンクの設置」というプランを打ち出します。
渡辺氏を封じ込めようとする変化球も飛んできました。国会の予算委員会での総理答弁資料として渡辺大臣らが準備した原稿が、官邸で「官邸官僚」によって書き換えられるという事件です。書き換えられた原稿には「官製談合に関与した役所については、再就職の紹介などに関して厳しい規制を創設する」とあり、規制を受けるのは官製談合に関与した役所だけになる、という原稿でした。これを安倍首相が予算委員会で読み上げたらすべてアウトです。渡辺氏は予算委員会当日、総理答弁書にみずから手書きで再修正を施し、安倍氏が議場に入ってきたところで手渡しました。そうしないと再度書き換えられるおそれがあったからです。

当初は、渡辺行革大臣が孤立して奮闘している印象でしたが、実は安倍首相や塩崎恭久官房長官も改革路線で腹を固めていることが漏れ伝わり始めます。
決着がついたのは3月16日の経済財政諮問会議です。ここで安倍首相は「機能する新・人材バンクへ一元化をしていかなければならない」と発言。首相が公式の場で明確に軍配を上げました。
経済財政諮問会議の場で対立点を浮き彫りにし、最後に総理が裁断するという方式は、小泉・竹中ラインで多用されたやり方であり、安倍内閣の頃はまだこのやり方が供していたのです。
とはいえ、安倍氏は施政方針演説で「押し付け的斡旋の根絶」とも発言しており、2つの発言は相矛盾しています。このときもう一つの事件が起こりました。
当時無所属の江田憲司議員の質問趣意書が発端でした。江田氏は元通産官僚で、施政方針演説の「押し付け的斡旋」のトリックを熟知した上で、政府に対して「押し付け的斡旋だけを禁止するのか。そんなものは存在しないはずだったのではないか」と質問しました。この質問趣意書の政府答弁を閣議了承する過程で、政府答弁案が事務次官等会議で否決されたのです。これまでの永田町・霞が関の慣行では、閣議に諮る前に、各省庁のトップが集まる事務次官等会議にかけ、ここではねられた案件は閣議にはかけられなかったのです。ところが安倍総理が「閣議に諮りたい」との意向を示したのです。
かくして戦後初めて、事務次官等会議が諒承しなかった案件が閣議に諮られるという前代未聞の事態となりました。閣議当日、霞が関も官邸も蜂の巣をつついたような騒ぎになり、「こんな暴挙を許していいのか」「総理はめちゃくちゃだ」「安倍さんは狂ったのか」と怒号が飛び交いました。このいきさつは高橋洋一「さらば財務省!」(4)に書いたとおりです。あの一件は、江田議員による質問趣意書が発端だったのですね。

細部の経緯もさることながら、重要なのは回答文書の中身です。結論として、それまでの政府見解を翻し、「押し付け的な斡旋が存在する」と明言したのです。
後に、みんなの党で同士となる渡辺氏と江田氏が、この時点で連繋していたわけではないでしょうが、結果として、江田氏の質問が壁を完全に崩すきっかけとなりました。

熾烈な攻防の末、国家公務員法改正案が提出されましたが、その後安倍内閣は防戦に追われることになります。民主党からは「新・人材バンクは『天下りバンク』だ」、「官僚もハローワークに行けばよい」といった強烈な批判がなされました。最も声高に主張していたのは民主党の長妻議員だったといいます。
法案審議は通常国会の会期ぎりぎりまでもつれ込みますが、最終段階で安倍総理は、何としても法案を成立させたいとの強い意思を示し、会期延長を決断します。そして最終的に、2007年6月30日に法案は成立しました。会期延長までして法案成立にこだわっていたことが、直後の参議院選挙での自民党大敗と安倍首相退陣につながったわけで、安倍政権は公務員制度改革に殉じた、と言えなくもありません。
『曖昧な部分を残したとはいえ、「各省斡旋禁止」を実現できたことは、やはり、安倍内閣の金字塔だったと思う。というのも、「各省斡旋禁止」は、それまで誰もが不可能と思い込み、チャレンジすらしていなかった画期的な処方箋だったからだ。』
『その後、鳩山内閣で「天下り根絶」がどうなったかと見比べてみても、「新・人材バンク」プランの方が優れていたと思わざるを得ない。つまり、民主党は、各省斡旋だけでなく「新・人材バンク」による斡旋も否定していたはずだが、結局、「斡旋はしていない」と称する「隠れ斡旋」を野放しにしてしまった。』

安倍晋三総理大臣、塩崎恭久官房長官、渡辺喜美行革担当大臣の3人が、「公務員制度改革」について強い結束を保っていたことが、法案成立につながりました。この1点だけを観察すると、安倍政権を見直します。別の観点、上杉隆「官邸崩壊」()から見ると、安倍政権は倒れるべくして倒れたとも見えますが。

続く
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1 コメント

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原英史さん (ラジオ出演)
2010-09-10 23:03:09
官僚についてラジオ出演しましたね

とっぽいおっちゃんかなっと期待をしたけどなあ
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