弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

先使用権に関連した裁判例集

2006-09-18 10:49:00 | 知的財産権
特許庁が先使用権に関連した裁判例集を公表しましたね。
すでに6月に公表されている先使用権制度ガイドライン(事例集)に続くものです。この件については6月23日にここでも話題にしました。

それにしても今回発表された裁判例集、全部で375ページという大変な分量です。どのような活用を想定しているのでしょうか。

もともと特許庁は、先使用権を広く使ってもらうことにより、特許出願の件数を減らすことを狙ったものと思われます。6月に発表されたガイドラインも、これさえできれば広く多くの人が先使用権の利用を開始し、特許出願が減るものと期待したのでしょう。

しかし、そもそも先使用権は非常に使いづらい制度であり、将来発生するかしないか全くわからない紛争に備えて証拠を収集しておく必要がありますから、とても手軽に利用できるものではありません。
そのため、先に発表されたガイドラインも膨大なものでしたし、それでも不足と考えたのでしょう。今回の裁判例集はもっと膨大なものとなってしまいました。

特許庁の勧めに従って、特許出願ではなく先使用権で行こうと考えた中小企業の経営者は、一体どうしたらいいのでしょうか。この裁判例集を紐解いて、先使用権の何たるかを徹底的に研究しなさいということでしょうか。
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特許行政年次報告書2006年版

2006-09-17 00:22:17 | 知的財産権
9月15日、特許庁ホームページに特許行政年次報告書2006年版がアップされました。
〈統計・資料編〉第2章 主要統計(8)特許出願件数上位200社の出願・審査請求関連情報 には、出願上位200社の出願件数、審査請求率、特許査定率などの数値が詳細に紹介されています。

それぞれの数値については、業界毎の競業関係にある会社の数値を比較することが可能となるので、これから各社さまざまな議論が開始されることになるでしょう。

取り敢えず、審査請求率について着目してみました。
審査請求期限については、出願からの年数として定められています。2001年9月までの特許出願については出願から7年間でしたが、2001年10月以降の出願については出願から3年間に改められました。
その結果、例えば2005年については、1998年出願分の7年期間満了時であると同時に、2002年出願分の3年期間満了時でもあります。以前から、日本においては審査請求期間満了ぎりぎりに審査請求する案件が多いので、結果として、2005年あるいはその前年には、1998年出願分と2002年出願分の審査請求が重なってなされることになり、通常の2倍の審査請求件数があってもおかしくないのです。

特許出願件数上位200社の出願・審査請求関連情報 を見ると、審査請求率について2005年請求終了分として、「7年請求分(1998年出願)」と「3年請求分(2002年出願)」の2つの数値が並んでおり、両者を比較することが可能です。

資料の1ページ目には、出願件数が多い順に55社の数値が記載されています。この55社について、「7年請求分(1998年出願)」と「3年請求分(2002年出願)」の審査請求率を加重平均で求めてみました。
pdfファイルからエクセルファイルに数値を移植することができたので、エクセル上で計算を行いました。出願件数については、1998年、2002年いずれも、2002~2004年の平均値を用いました。
その結果、55社平均の審査請求率は、「7年請求分(1998年出願)」が54.1 %、「3年請求分(2002年出願)」61.6%という結果でした。7年請求分に比較し、3年請求分は7.5ポイントほど高い審査請求率になっています。

審査請求要否は、その発明が事業で役に立ったか否かを見極めてから決定できればベターです。発明完成から事業が軌道に乗るまでは長い年月が必要なので、出願から3年程度では見極めが完了しない場合が多いです。そのため、審査請求期間が3年に短縮された以降については、見極めがつかないためにやむを得ず取り敢えず審査請求をしておく、という案件が増えていると想定されます。
上記計算結果から、3年請求分が7年請求分よりも7.5ポイント高い審査請求率になりましたが、この差額が、まさに「取り敢えず審査請求」による増分であると思われます。

特許庁は、「最近になって審査請求件数が急増した」と問題視していますが、その原因の第1は審査請求期間が7年から3年に短縮されたために毎年2年分の審査請求がされているからであり、原因の第2は3年期限の出願については審査請求率が7.5ポイント高くなっているからです。

7年期限分と3年期限分とのダブりは、これから数年に限った現象であり、2008年10月以降は3年期限分のみが残ります。従って、審査請求件数急増については、この数年さえ乗りきればいいのです。
そして、3年請求分については、審査請求後に事業見通しが明確になって特許が不要になる案件が出てくるはずですから、そのような案件はその段階で審査請求を取り下げればいいのです。
さらに、「事業化の目途がまだたたないので、当面は特許は不要である」という案件については、審査請求はしたものの、審査を延期することが可能です。

6月21日に審査期間短縮対策案として提案したように、「この出願は権利化を急がないから、審査の順番を下げてもらって結構です」と意思表示させ(不急出願)、不急出願については審査の順番を後回しにする対策がやはり有効であるようです。
審査を後回しにしている間に事業化のめどが立ち、やはり特許は不要だとなったら審査請求を取り下げます。審査請求費用が全額返還されるというわけです。
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タキトゥス「ゲルマーニア」

2006-09-15 00:18:48 | 趣味・読書
二千年前のヨーロッパを知る原典として、カエサル著「ガリア戦記」とともに、タキトゥス著「ゲルマーニア」が有名です。泉井久之助訳(岩波文庫)で読みました。
<
ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)
コルネーリウス・タキトゥス
岩波書店

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ガリア戦記で書いたように、二千年前、今の西ヨーロッパの大部分、ライン川の西側、ドナウ川の南側フィレンツェまで、及び現フランス、スペイン、イギリスを含む領域は、ローマ人がガリアと呼び、ガリア人が住む地域でした。カエサルのガリア遠征の結果として、ガリアのほぼ全域はローマの属州化しました。
一方、ライン川の東、ドナウ川の北側の領域は、ゲルマニアと呼ばれ、ゲルマニア人がやはり部族ごとに割拠していました。

ゲルマン民族というのは、もともとスカンジナビア半島からバルト海沿岸に住んでいたようですが、気候の変化か何かによってゲルマニア地方(ライン川東側ドナウ川北側の領域)に移り住んだようです。

ガリア人と異なり、ゲルマニア人は勇猛で戦闘的であったようです。カエサルは何回かライン川を越えてゲルマニア遠征を試みますが、最終的にライン川西側支配で満足します。カエサルの後のアウグストゥスのときには、ライン川東側に遠征して軍団が全滅するという悲劇にも見舞われます。結局ローマによる支配をゲルマーニアに及ぼすことはできませんでした。

ローマの歴史家のタキトゥス(紀元後55年頃~120?年)は、このころのゲルマン民族の起原・土地・習俗およびその民族について、「ゲルマーニア」を執筆しました。そして現代のわれわれはその本を翻訳書で読むことができます。

この本も、カエサルの「ガリア戦記」と同様、強い印象を植え付けられた本です。
ゲルマニア人が、森林と沼沢地域で非文明的な生活を営み、男は常に戦闘に従事し、各部族が独立心旺盛で誇り高く、贅沢を受け入れない生活をしている様子が、あたかも昨日のように彷彿としてきます。
一方では一夫一婦が徹底しており、不倫は御法度だったようです。
文明化したローマ人にとって、背が高く青い目を持ち、どう猛なゲルマン人というのは恐ろしかったようです。

私はこの本を読んだ後、町で青い目をした外人に出逢うと、「二千年前のあの野蛮でどう猛で誇り高いゲルマン人の末裔か」と思ってつい吹き出しそうになってしまいました。

19世紀から20世紀にかけての全世界は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカという、かのゲルマン民族の末裔が建国した国々によって切り回されてきた感があります。
彼らゲルマンの末裔にとって、タキトゥス「ゲルマーニア」の存在は自分たちのアイデンティティーを立証する強い味方だったのではないでしょうか。その点は実にうらやましい限りです。
機会があったらゲルマンの末裔にその点について聞いてみたいと思っています。
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カエサル「ガリア戦記」

2006-09-13 00:00:16 | 趣味・読書
塩野七生著「ローマ人の物語」を読み進める勢いで、カエサル著「ガリア戦記」(國原吉之助訳、講談社学術文庫)を読みました。
ガリア戦記 (講談社学術文庫)
G.J. カエサル
講談社

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紀元前60年前後、ローマ本国は今のフィレンツェあたりまでであり、その北側はまだローマ本国ではありません。イタリア半島東北端の国境はルビコン川で画されています。カエサルの「ルビコン川を渡る」で有名になる川です。
今の西ヨーロッパの大部分、ライン川の西側、ドナウ川の南側フィレンツェまで、及び現フランス、スペイン、イギリスを含む領域は、ローマ人がガリアと呼び、ガリア人が住む地域でした。
紀元前60年当時、アルプス以南のガリア(現北イタリア)及び(現)南仏プロヴァンスのあたりは、ローマの属州(プロヴィンキア)になっていましたが、それ以外のガリアの領域は、ガリア人といわれる人々が部族ごとに割拠する領域でした。
ライン川の東、ドナウ川の北側の領域は、ゲルマニアと呼ばれ、ゲルマニア人がやはり部族ごとに割拠していました。

ところで、ローマ本国の市民権保持者と属州住民との差異は、
市民権保持者は納税の義務がないが兵役の義務がある
属州住民は十分の一税納付義務があるが兵役の義務がない
と表現することができます。
ローマ市民は税金を納めないかわりに自分の血を流すわけで、これが「血税」の語源だそうです。

紀元前58年から8年間、ガリア属州の長官だったユリウス・カエサルがガリア全域に遠征し、あるときはブリタニアやゲルマニアまで足を伸ばし、結果としてガリア全体をローマ属州にすることに成功します。この遠征記録をカエサル自身が執筆したのが「ガリア戦記」です。

ガリア戦記は「ガリア全体は、三つの部分に分かれていて、その一つにはベルガエ人が住み、もう一つにはアクィタニ人が住み、三つ目には、その土地の人の言葉でケルタエ人とよばれ、われわれローマ人の言葉でガリア人とよばれる民族が住んでいる。」との文章で始まります。
ベルガエとはベルギーと同義であり、ベルガエ人が住む領域も今のベルギー近辺です。アクィタニ人が住む地域はピレネー山脈の付近です。そしてその両方に挟まれた領域に住む人々がケルタエ人=ガリア人ということです。今のフランスのあたりが中心でしょうか。ケルタエはケルトと同義、ガリアはフランス語のゴールと同義のようです。

カエサルのガリア遠征については、「ローマ人の物語」と「ガリア戦記」の両方を読んだわけですが、なぜかガリア戦記の印象の方が強いです。今から二千年前の西ヨーロッパの情景が、あたかも昨日のできごとのように印象づけられました。

カエサルのガリア遠征は、どのように位置づけられるのでしょうか。ローマによるガリアの侵略・征服であると位置づけることもできます。
塩野氏は、カエサルが紀元後44年に暗殺された後もガリアで反乱が蜂起しなかったことを挙げ、ガリア人にとってもガリアのローマ属州化はそれほど悪いことではなかったのではないかと推測しています。
ローマ属州化により、ガリア諸部族の独立は失われましたが、ローマの笠の下にはいることで平和が訪れ、都市や道路・水道などのインフラが整備され、生活は豊かになっただろうと推測されます。それまでは、ガリア部族間の争いが絶えず、またライン川東側に住むゲルマン人の侵入に怯えて暮らしていましたが、ライン川をローマ軍団が守備することにより、その心配もなくなりました。
カエサルによる属州経営も優れていたようです。ガリア部族と講和が結ばれると、ガリア部族から人質を取ります。部族有力者の子弟です。この人質をローマに送り、ローマ貴族の家にホームステイさせます。これにより、ガリア部族有力者の跡取りを皆ローマ文明の肯定者に変えてしまうのです。

属州とローマとの防衛分担を日米安保条約、人質のローマホームステイをフルブライト留学生と置き換えれば、日本(ガリア属州)と米国(ローマ本国)との関係と似ていますね。

われわれの世界史の知識によると、このようにして、ガリア人が住み、ローマ文明に組み込まれたフランスのあたりの地域は、ゲルマン民族大移動の結果として、フランク王国が成立し、現在のフランスになったとされています。
二千年前のこの地域を昨日のようにイメージした私としては、ローマ化したガリアとしてのフランスと、ゲルマン部族であるフランク族が打ち立てたフランスとが、結びついていません。現在のフランスとは、どのような成り立ちなのだろうか、というのが次の疑問です。
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ローマ人の物語

2006-09-11 00:01:13 | 趣味・読書
塩野七生著「ローマ人の物語」を文庫で読んでいます。
現在26巻まで発行されていますが、単行本の様子からするとまだ全体の2/3程度までしか進んでいないようです。以下に、発行済みの分(文庫本)について、巻別にタイトルと発行日を記します。

 巻  タイトル           発行日
1~2 ローマは一日にしてならず   H14.6
3~5 ハンニバル戦記        H14.7
6~7 勝者の混迷          H14.9
8~10 ユリウス・カエサル(ルビコン以前)H16.9
11~13 ユリウス・カエサル(ルビコン以後)H16.10
14~16 パクス・ロマーナ       H16.11
17~20 悪名高き皇帝たち       H17.9
21~23 危機と克服          H17.10
24~26 賢帝の世紀          H18.9

1年ぶりに24~26巻が発行されたので、買ってきました。しかし何年もかけて読み進んでいるし、如何せん大変な分量なので、以前読んだ部分については記憶が朦朧として話が繋がりません。
そこで、新書で出ている青柳正規著「ローマ帝国」(岩波ジュニア新書)を買ってきて、この本で復習することにしました。

新書本の年表をたどると、古代ローマは以下のような推移でした。

BC753 ロムルスによるロール建国
509 王政から共和制へ
~290 イタリア半島の統一
264~146 第1~第3次ポエニ戦争
 (カルタゴのハンニバルとの戦い、スキピオの活躍)
~ 60 グラックス兄弟、マリウス、スッラらが輩出し混迷
60 カエサル、ポンペイウス、クラッススの第一次三頭政治
~ 51 カエサルがガリア(現フランス、ベルギー、イギリスの領域)に遠征して属州化
49 カエサルがルビコン川を渡る
48 カエサルがポンペイウスを破る
44 カエサル暗殺される
31 オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合艦隊を破る
BC 27 オクタヴィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得て元首制を開始
AD 14~ アウグストゥス死後、皇帝はティベリウス~カリグラ~クラウディウス~ネロ~3名の皇帝を経て、
69~ ヴェスパシアヌス~ティトゥス~ドミティアヌス
96~ ネルヴァ~トラヤヌス~ハドリアヌス~アントニヌス・ピウス~マルクス・アウレリウス(五賢帝時代)

近代に至るまでどこの国でも、国の統治機構といえば、世襲制の王による統治以外はほとんど思いつきません。ところが古代ローマでは違います。
ロムルスによる建国(伝承)から200年以上王政が続きますが、王政といっても世襲ではなく、1代限り終身です。BC509に共和制が始まり、カエサルに至るまで400年以上続きます。共和制は、1年任期の執政官が2名、貴族の中から選出され、ローマを統治します。
なぜ世襲王政ではない統治機構でスタートしたのか。疑問はまだ解けていません。たまたまロムルスがそれで始めたからだろうか?などと考えています。

そして、このような統治機構(王政に続いて共和制)の下、まずはイタリア半島を統一し、カルタゴとの戦い(ポエニ戦争)を戦い抜いて勝利し、その後は地中海世界で第1の強国となります。どの国と戦ってもローマが勝ちます。

この時代のローマの特徴は、イタリア半島で他の部族との戦いで勝利しても、その部族を支配するのではなく、ほぼ対等の資格でローマ陣営に組み込んだことです。また、他国との戦いでも、概ね侵略的ではなく、平和維持的です。抜群の強さを含め、現代における米国を彷彿とさせましたが、これは私の思い過ごしでしょうか。
ただし、上記のイメージは塩野七生氏の著作からのイメージです。

青柳正規著「ローマ帝国」では、イタリア半島の統一にしても、ローマによるイタリア半島の征服史としてイメージされます。
どの国でも同じですが、ある王朝による国の支配の完成を、国家統一の偉業と見るか、それとも被征服民に対する侵略と見るかは表裏の関係ですね。
被征服民の誰の目で見るかによっても違います。被征服民の元支配層にとっては、支配権を奪われる侵略でしょうが、被征服民の下級層から見れば、誰に支配されようが関係なく、国が統一されて平和になり、生活が豊かになるのであれば、国家統一の方が歓迎でしょうね。

新書本ですが、残念ながら、ローマがたどった歴史の中における登場人物一人一人の躍動感は伝わってきませんでした。この薄さですからそれはやむを得ないですね。さらに、塩野七生氏の「ローマ人の物語」とは歴史のとらえ方に差があるためか、新書本の記載から「そうそう、そうだった」と塩野版の中身を思い出すこともできませんでした。
取り敢えず、塩野版の24巻から読み始めることにしましょう。
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白洲正子自伝

2006-09-10 00:01:39 | 趣味・読書
白洲正子著「白洲正子自伝」(新潮文庫)を読みました。
白洲正子自伝 (新潮文庫)
白洲 正子
新潮社

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白洲正子氏は、白洲次郎氏の夫人ですが、私は白洲正子氏はおろか、白州次郎氏のこともついこの間まで知りませんでした。
書店で何気なく購入した「風の男 白州次郎」を読んで、初めて白洲次郎氏の人となりを知った次第です。その興味の延長で、やはり「白洲正子自伝」を書店で見つけて購入しました。

白洲正子氏は、1910年東京生まれ、旧姓樺山正子といいます。父方の祖父が樺山資紀、母方の祖父が川村純義で、いずれも薩摩の人、明治の元勲、海軍の重鎮ということで共通する人です。

正子氏は、幼い頃は東京永田町の邸宅に住み、御殿場の広い別荘と行き来します。
学習院の幼稚園時代、無口で人見知り、気むずかし屋で友達のいない性格だったのに対し、学習院の小学校3年頃から変化し、今度はネアカになって止め処なく生意気になった、と本人が書いています。

14歳でアメリカに留学して寄宿学校に入り、アメリカでの大学入試にも合格しますが、金融恐慌の影響で日本に帰ることになります。「韋駄天お正」の異名で遊びほうけているとき、18歳で白洲次郎氏と出会い、突然に結婚します。

この本を読んでおもしろかったのは、大正から昭和初期にかけてのいわゆる上流社会の生活をかいま見ることができたことです。
今でいえば永田町の豪邸に住んでいるにもかかわらず、行き来するのが三井・三菱の人たちであったため、「自分のうちは貧乏だ」と思い込んでいたようです。
家にはタチさんという正子氏専属の養育係がいます。日露戦争の従軍看護婦で、夫に先立たれて樺山家に入っていました。学習院には「供待ち部屋」があり、お供の人は生徒が学校にいる間、その部屋で待っていたそうです。タチさんも正子氏のお供として学校に付き添います。
一度は再婚して樺山家を離れるものの、正子氏が結婚した頃にタチさんは夫を亡くし、白洲家に舞い戻ります。以来、タチさんが死ぬまで、正子氏は「主婦」の経験を一度もしたことがない、という生活です。
正子氏は、「タチさんのような女性がいたので、たださえ甘ったれの私がよけい甘ったれになったことは否めない。一人の人間が、私だけのために一生を捧げてくれたことを思うと、感謝するというより空恐ろしい心地になる」と書いています。

戦後は、文化人との付き合い、古美術や日本文化の理解者、文筆家として活躍し、98年に亡くなりました。

ところで、「風の男 白洲次郎」では、昭和15年に次郎氏は日米戦争の開始・敗戦・食糧危機を予想し、鶴川村に引きこもったと書かれていますが、正子氏の書籍によると、確かに昭和15年に鶴川の土地を購入したが、実際に引っ越したのは昭和17年、ドゥーリットルの東京初爆撃(多分)を目撃した後のようです。
ちょうど小学生のご長男が大塚の附属(東京高等師範の附属小学校)に通っており、その関係で東京に住み続けていたようです。
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はやぶさの近況

2006-09-08 00:02:37 | サイエンス・パソコン
小惑星探査機「はやぶさ」については、3月9日6月4日に記事にしました。JAXAのホームページに近況がアップされていました。

8月15日のはやぶさサイエンスウィーク報告によると、
「はやぶさチームは去る7月8日に会津大学で一般講演会、7月12-14日に東京大学で第二回はやぶさ国際科学シンポジウムを開催し、それぞれ盛況を博しました。また15日には、藤原顕前プロジェクトサイエンティストの功績を称え、国際天文学連合が小惑星1991AFを「アキラ・フジワラ」と命名しました。」
「昨年12月に一旦途絶えた通信も回復し、来春の地球帰還開始に備えて、はやぶさチームは現在も毎日運用に励んでいます。」
とあります。
6月はじめの報告では、はやぶさはまだ大きな問題をかかえているという報告でしたが、現在のところは地球帰還に向けて前向きに進んでいるようですね。関係者の皆さん、頑張ってください。

また
9月7日「小惑星も日焼けする ~科学雑誌ネイチャーに、「はやぶさ」のデータ解析結果の論文を発表~」の記事が載っています。

「小惑星帯の内側でもっと数の多いS型小惑星と地球上で最も多く発見されている普通コンドライトの反射スペクトルには、スペクトルの傾きが違う(S型小惑星は普通コンドライトより赤い)ことが知られており、この違いが長い間の謎とされてきました。」

ということですが、はやぶさによる小惑星イトカワの観測結果から、この謎が解けたようです。
イトカワ表面の筑波(地名)近くに、以前そこにあった石が移動して新しい表面が出てきた場所があって、その場所のスペクトルが隕石のスペクトルに近かったということです。つまり、現在の小惑星の表面は、長い間に日焼けしており、その結果として隕石表面のスペクトルと相違が生じていたということです。
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山田風太郎日記(2)

2006-09-06 00:01:27 | 歴史・社会
昭和19年から昭和20年にかけての山田風太郎の日記を追います。

《東京の空襲》
19年末、B29の東京空襲が頻繁になり出した頃、夜中に1機関東方面に飛来しただけで一睡もせずに不安な夜を過ごしていた東京住民が、20年2月頃には慣れっこになっていく様子が如実に示されます。
20年3月10日の午前0時から3時、東京の下町が大空襲受けたとき、山田青年は目黒に住んでおり、空は真っ赤に染まり、目黒で新聞が読めたということです。
夜が明けて新宿の医学校に登校してみると、そんな日でも授業はありました。終業後に市内を歩きます。見聞した状況を示す日記は、文庫本8ページにわたります。
歯ぎしりするような怒りを感じた山田青年は、
「さればわれわれもまたアメリカ人を幾十万人殺戮しようと、もとより当然以上である。いや、殺さねばならない。一人でも多く。」
と日記に書き連ねます。

《終戦前後》
8月14日の日記は文庫本14ページにわたります。
国民はすでに戦いに倦んでおり、政府はさらに動揺している。しかし山田青年とかれの友人は激論を戦わせ、「あと千日耐えること、血と涙にむせびつつ耐えることが必要」との結論に至ります。そのためには青年が立ち上がらなければならない。「やろう、断じてやろう」と夜を徹して議論します。
翌日には終戦が知らされるというまさにその前日、このような熱に浮かされていた青年がいたということです。リアルタイムに書いた日記でなければ決して明かされることはなかったでしょう。
8月15日はただ1行
「○帝国ツイニ敵ニ屈ス。」

《8月16日から20年末まで》
それまで鬼畜米英一本であった国民の感情が、種々の噂を伝え聞いて、一日一日と変化していく状況を追いかけることができます。

8月30日
「敵進駐軍はお世辞もいわなければ恫喝もしない。ただ冷然として無表情な事務的態度であるという。両者のいずれかを期待していた国民は、この態度にあっけにとられ、やがて恐怖をおぼえるであろう。最も驚くべきはこの敵の態度である。」

日本人が相手に対する態度は、お世辞か恫喝かのいずれかである、という上記記述は示唆に富んでいます。

10月16日
山田青年は学校疎開先の信州にいます。
「東京から帰った斎藤のおやじは、『エレエもんだよ、向こうの奴らは。やっぱり大国民だね。コセコセ狡い日本人たあだいぶちがうね。鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見えねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのかわかりゃしねえ』とほめちぎっている。」

日本に進駐した米軍の将兵の態度は立派だったと思います。日本軍が占領地で示した態度と比べると雲泥の差です。
日本軍が、なぜあのような日本軍になってしまったのか、その点がまだ解明できていません。

第二次大戦の戦時中、終戦前後における日本国民の本音が語られた書物として、この山田風太郎日記は最適なテキストであるとの印象を持っています。

山田風太郎の日記にはさらに以下の書籍があるのですが、文庫本になっていないので、まだ読んでいません。
戦中派焼け跡日記―昭和21年
戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年
戦中派動乱日記―昭和24年・昭和25年
戦中派復興日記―昭和26年 昭和27年
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山田風太郎の戦中戦後日記

2006-09-04 00:01:33 | 歴史・社会
先の大戦の最中、終戦直後、日本と日本人は本当のところどのような状況だったのか。
平均的日本人は、
・どのような生活を送り、
・どのような情報に接し、
・何を考えていたのか。

これがなかなか難しい話です。
戦争が終わってから、当時を振り返った手記というのは、結果を知ってから、そして戦後の空気に触れてから書かれたものですから、戦時中の自分の考えをなかなか正直に表せないものです。戦後の価値観で自分をかっこよく見せたり、自己弁護に陥ったりする可能性が否定できません。

そのような観点で、私が一番すごいと感じているのは山田風太郎の日記です。
「戦中派虫けら日記」(昭和17年11月~19年12月)(ちくま文庫)
「戦中派不戦日記」(昭和20年通期)(講談社文庫)
戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)
山田 風太郎
筑摩書房

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新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)
山田 風太郎
講談社

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山田風太郎は、医者の家に生まれましたが、早くに両親を亡くし、親戚の世話になります。本人は医者になりたいのに思うようにならず、昭和17年に20歳で故郷を飛び出して東京で給料取り生活をはじめます。昭和19年に東京医専(後の東京医科大学)の入試に合格し、医学生となります。
このような経歴を持った山田青年は、世の中にすねたところがあることから、日記は体制順応ではない面を持ちます。一方、医学校に合格する知力を持っており、世の中を見る目もしっかりしています。後に山田風太郎となる青年ですから、ものを見る力、文章力は確かです。
このような背景をもつ山田青年がリアルタイムで書いた日記を、そのまま本にしたのが上記の日記です。実に生々しく当時の日本人の生活と考え方を伝えてくれるのです。

昭和17年12月10日 1年前の日米開戦を振り返って
「しかし、あの日の感激は今も忘れることが出来ない。」「あの開戦直後の三日間ほど大いなる感動を与えた日はなかった。」
日米開戦時の、これが偽らざる日本人の本心だと思います。
昭和16年日米開戦当時、山田青年がまだ日記を書き始めていなかったのが悔やまれます。

昭和18年10月13日
山田青年の知人の隣人がS陸軍中将(予備役)の妾宅であり、一夜その陸軍中将と酒を飲みながらしゃべります。中将は、当時は数十の会社の重役を務めています。
「歴史的知識では、自分もそう負けるとは思わなかったが、日本を罵倒する言葉の猛烈さには、こちらが陸軍中将と意識して対しているだけに驚いた。『大東亜共栄圏なんて夢です。米国はシッカリしとる。アメリカは例の無限の物量だし、日本人よりはるかに頭がいい。日本人は頭がカチカチで、ウヌボレだけが強くて、自画自賛ばかりしていて、兵隊もアメリカの方がよっぽど勇敢だ。それに日本人の内輪喧嘩はもう癒しがたい民族的な痼疾となっている』云々。
もし天皇陛下への敬意と、日本人の死への悟りを強調しなかったら、これは偽中将かと思ったかも知れない。
自分は同年配の連中にくらべると、最も冷静に日本と西洋を眺めている方のつもりなのだが、こう真っ向からやられると大いに腹を立てて、ただし言葉はかよわく抵抗を試みる。」
今から考えると、昭和18年当時のこの陸軍中将は真実をついています。しかしこのような話を聞いた山田青年ですが、このあとこの話に感化された様子はありません。


昭和19年7月5日
サイパンの戦闘が最終段階に入ったとの大本営発表に接して、
「サイパン! ああ、また玉砕ではないのか。将兵はとにかくとして、万余の在留邦人はどうなるのか。
- いうに忍びず、血涙の思いではあるが、しかし在留の老若男女は、やはりことごとく将兵とともに玉砕してもらいたい。外敵に侵された日本国土の最初の雛形として、虜囚となるより死をえらぶ日本人の教訓を、敵アメリカに示してもらいたい。」

「自分はサイパン陥落当時、上記のように考えていた」なんて戦後になってから言える人は皆無でしょう。その意味でも、この日記が当時の日本人の本心を吐露したものとして貴重だと考えるゆえんです。

同日
尊敬する先輩の家で、先輩とその奥さんと話をしています。
「ドイツも次第に後退してゆく。北仏に上陸した米英軍の橋頭堡は次第に拡大されてゆく。
『負けたら、死ねばいいんでしょう』
と奥さんがいう。死んだって追いつかない。
 いざという場合、日本人はみずから全滅するという。そうありたいものである。しかし、いざという場合、それが果たして出来るか否かは疑問である。」

「一億玉砕」を、市井の奥さんも少なくとも表面的には唱えていたということですね。

硫黄島についての記述を拾ってみます。
昭和20年2月21日
「敵ついに硫黄島に上陸を開始せり。
「この島、例のごとく喪わんか、帝都は文字通り四時敵の戦爆連合の乱舞にさらさるるのほかなし。」
3月21日
「硫黄島の残存将兵、17日最後の総攻撃を敢行、爾後通信絶ゆと大本営発表。近々にP51をはじめ敵の新たなる戦爆機にお目にかかることと相なるべし。」

以下、次号に続きます。
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日本国憲法制定と吉田茂

2006-09-03 00:17:03 | 歴史・社会
ハル・ノートで吉田茂の「回想十年」を読み返し、風の男 白州次郎で日本国憲法制定時のいきさつに触れました。
そこで、吉田茂「回想十年」(中公文庫)を再度紐解き、日本国憲法制定時の状況を追ってみます。
回想十年〈1〉
吉田 茂
中央公論社

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昭和20年の終戦後、幣原内閣の時代、マッカーサーから憲法改正について示唆を受け、内閣で憲法改正について審議が行われます。しかし、日本政府が検討している憲法改正は、明治憲法の一部改正にとどまります。このような状況にマッカーサーは業を煮やし、総司令部から憲法改正案を提案することになります。
憲法改正案は、総司令部の民政局において約1週間で作成されたとのことです。

昭和21年2月13日、憲法の総司令部案が日本政府に手交されます。英文です。日本側は吉田外相、松本博士、それに終戦連絡事務局次長をしていた白州次郎氏です。総司令部側はホイットニー民政局長、ケーディス大佐その他でした。

総司令部案の内容は、まず「天皇は国のシムボルとする」とあり、吉田外相は「これはとんでもないものを寄こしたものだ」と思います。政府としては、これを改正案の基礎として採り上げることを躊躇し、総司令部との間に交渉をはじめますが、総司令部の態度はすこぶる強硬です。
本の編集者註によると、マッカーサーから民政局長に指示したメモでは"Emperor is at the head of the State"であり、これは国の元首を意味するが、その後民政局の検討を経て提示された案ではシムボルになっていた、ということです。

2月21日に幣原総理がマッカーサー元帥を訪問し、意向を直接確かめます。
それによると、マッカーサーの意向は「何とか天皇の安泰を図りたいと念願している。しかし極東委員会の日本に対する空気は、想像も及ばぬほど不愉快なものであり、殊にソ連と豪州は極度に日本の復讐を恐れているらしい」ということで、天皇制を維持するためには総司令部案でできるだけ早く憲法改正すべきである、ということでした。

そして、昭和21年3月6日、「憲法改正草案要綱」が発表されます。
吉田茂氏は本の中で
「事実、次に述べる憲法改正要綱の発表は、政府として十分納得し満足すべきものとしてなされたわけではなかった。端的にいって、憲法改正の要請に応じた方が、対局上有利なりと、わが政府において判断したのである。当時の連合国との関係において、わが国として当面の急務は、講和条約を締結し、独立、主権を回復することであり、これがためには、一日も早く民主国家、平和国家たるの実を内外に表明し、その信頼を獲得する必要があったのである。もとより憲法改正は大事なことではあるが、右のような客観情勢の下において、立法技術的な面などに、いつまでもこだわっているのは、策を得たものにあらず、その大綱において差し支えないならば、改正案を取り纏めるがよいというのが、当局者の心事だったのである。」と述べています。

そして新憲法は昭和21年11月3日に公布、翌22年5月3日に発効します。
その間、昭和21年5月には吉田内閣が発足していました。

国際条約によると、他国に占領されている間は、占領国から憲法改正を要求されても、それを拒否できるということです。確か不戦条約(パリ条約、ケロッグ・ブリアン条約)に依ったと思います。
その意味では日本政府は総司令部の憲法改正要求を拒否できたはずですが、拒否せずにほとんど総司令部案のままで憲法を成立させたのは、上記のようにその方が日本にとって得になると考えたからでしょう。
改正論議の途中でも、総司令部は「とにかく、一応実施して成績を見ることにしてはどうか。日本側諸君は旧憲法の頭で考えるから、とかく異存があるのかもしれぬが、実施してみれば、案外うまくゆくということもある。やってみて、どうしても不都合だというならば、適当の時機に再検討し、必要ならば改めればよいではないか」と言っていたそうです。

以前、憲法前文について、英語原文と日本語との対比を行いました()。このときもコメントしたように、少なくとも憲法前文については、総司令部案の英文をただ直訳しただけ、というのが真相だと思います。

なお、「極東委員会」についてデジタル大辞泉で調べると、
「日本を占領管理するため、1945年12月ワシントンに設けられた連合国の最高政策決定機関。拒否権をもつ米国・英国・ソ連・中国ほか11か国で構成。対日講和条約の発効とともに自然消滅。」とあります。
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