弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

山田風太郎日記(2)

2006-09-06 00:01:27 | 歴史・社会
昭和19年から昭和20年にかけての山田風太郎の日記を追います。

《東京の空襲》
19年末、B29の東京空襲が頻繁になり出した頃、夜中に1機関東方面に飛来しただけで一睡もせずに不安な夜を過ごしていた東京住民が、20年2月頃には慣れっこになっていく様子が如実に示されます。
20年3月10日の午前0時から3時、東京の下町が大空襲受けたとき、山田青年は目黒に住んでおり、空は真っ赤に染まり、目黒で新聞が読めたということです。
夜が明けて新宿の医学校に登校してみると、そんな日でも授業はありました。終業後に市内を歩きます。見聞した状況を示す日記は、文庫本8ページにわたります。
歯ぎしりするような怒りを感じた山田青年は、
「さればわれわれもまたアメリカ人を幾十万人殺戮しようと、もとより当然以上である。いや、殺さねばならない。一人でも多く。」
と日記に書き連ねます。

《終戦前後》
8月14日の日記は文庫本14ページにわたります。
国民はすでに戦いに倦んでおり、政府はさらに動揺している。しかし山田青年とかれの友人は激論を戦わせ、「あと千日耐えること、血と涙にむせびつつ耐えることが必要」との結論に至ります。そのためには青年が立ち上がらなければならない。「やろう、断じてやろう」と夜を徹して議論します。
翌日には終戦が知らされるというまさにその前日、このような熱に浮かされていた青年がいたということです。リアルタイムに書いた日記でなければ決して明かされることはなかったでしょう。
8月15日はただ1行
「○帝国ツイニ敵ニ屈ス。」

《8月16日から20年末まで》
それまで鬼畜米英一本であった国民の感情が、種々の噂を伝え聞いて、一日一日と変化していく状況を追いかけることができます。

8月30日
「敵進駐軍はお世辞もいわなければ恫喝もしない。ただ冷然として無表情な事務的態度であるという。両者のいずれかを期待していた国民は、この態度にあっけにとられ、やがて恐怖をおぼえるであろう。最も驚くべきはこの敵の態度である。」

日本人が相手に対する態度は、お世辞か恫喝かのいずれかである、という上記記述は示唆に富んでいます。

10月16日
山田青年は学校疎開先の信州にいます。
「東京から帰った斎藤のおやじは、『エレエもんだよ、向こうの奴らは。やっぱり大国民だね。コセコセ狡い日本人たあだいぶちがうね。鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見えねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのかわかりゃしねえ』とほめちぎっている。」

日本に進駐した米軍の将兵の態度は立派だったと思います。日本軍が占領地で示した態度と比べると雲泥の差です。
日本軍が、なぜあのような日本軍になってしまったのか、その点がまだ解明できていません。

第二次大戦の戦時中、終戦前後における日本国民の本音が語られた書物として、この山田風太郎日記は最適なテキストであるとの印象を持っています。

山田風太郎の日記にはさらに以下の書籍があるのですが、文庫本になっていないので、まだ読んでいません。
戦中派焼け跡日記―昭和21年
戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年
戦中派動乱日記―昭和24年・昭和25年
戦中派復興日記―昭和26年 昭和27年
コメント
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