弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

山田風太郎の戦中戦後日記

2006-09-04 00:01:33 | 歴史・社会
先の大戦の最中、終戦直後、日本と日本人は本当のところどのような状況だったのか。
平均的日本人は、
・どのような生活を送り、
・どのような情報に接し、
・何を考えていたのか。

これがなかなか難しい話です。
戦争が終わってから、当時を振り返った手記というのは、結果を知ってから、そして戦後の空気に触れてから書かれたものですから、戦時中の自分の考えをなかなか正直に表せないものです。戦後の価値観で自分をかっこよく見せたり、自己弁護に陥ったりする可能性が否定できません。

そのような観点で、私が一番すごいと感じているのは山田風太郎の日記です。
「戦中派虫けら日記」(昭和17年11月~19年12月)(ちくま文庫)
「戦中派不戦日記」(昭和20年通期)(講談社文庫)
戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)
山田 風太郎
筑摩書房

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新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)
山田 風太郎
講談社

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山田風太郎は、医者の家に生まれましたが、早くに両親を亡くし、親戚の世話になります。本人は医者になりたいのに思うようにならず、昭和17年に20歳で故郷を飛び出して東京で給料取り生活をはじめます。昭和19年に東京医専(後の東京医科大学)の入試に合格し、医学生となります。
このような経歴を持った山田青年は、世の中にすねたところがあることから、日記は体制順応ではない面を持ちます。一方、医学校に合格する知力を持っており、世の中を見る目もしっかりしています。後に山田風太郎となる青年ですから、ものを見る力、文章力は確かです。
このような背景をもつ山田青年がリアルタイムで書いた日記を、そのまま本にしたのが上記の日記です。実に生々しく当時の日本人の生活と考え方を伝えてくれるのです。

昭和17年12月10日 1年前の日米開戦を振り返って
「しかし、あの日の感激は今も忘れることが出来ない。」「あの開戦直後の三日間ほど大いなる感動を与えた日はなかった。」
日米開戦時の、これが偽らざる日本人の本心だと思います。
昭和16年日米開戦当時、山田青年がまだ日記を書き始めていなかったのが悔やまれます。

昭和18年10月13日
山田青年の知人の隣人がS陸軍中将(予備役)の妾宅であり、一夜その陸軍中将と酒を飲みながらしゃべります。中将は、当時は数十の会社の重役を務めています。
「歴史的知識では、自分もそう負けるとは思わなかったが、日本を罵倒する言葉の猛烈さには、こちらが陸軍中将と意識して対しているだけに驚いた。『大東亜共栄圏なんて夢です。米国はシッカリしとる。アメリカは例の無限の物量だし、日本人よりはるかに頭がいい。日本人は頭がカチカチで、ウヌボレだけが強くて、自画自賛ばかりしていて、兵隊もアメリカの方がよっぽど勇敢だ。それに日本人の内輪喧嘩はもう癒しがたい民族的な痼疾となっている』云々。
もし天皇陛下への敬意と、日本人の死への悟りを強調しなかったら、これは偽中将かと思ったかも知れない。
自分は同年配の連中にくらべると、最も冷静に日本と西洋を眺めている方のつもりなのだが、こう真っ向からやられると大いに腹を立てて、ただし言葉はかよわく抵抗を試みる。」
今から考えると、昭和18年当時のこの陸軍中将は真実をついています。しかしこのような話を聞いた山田青年ですが、このあとこの話に感化された様子はありません。


昭和19年7月5日
サイパンの戦闘が最終段階に入ったとの大本営発表に接して、
「サイパン! ああ、また玉砕ではないのか。将兵はとにかくとして、万余の在留邦人はどうなるのか。
- いうに忍びず、血涙の思いではあるが、しかし在留の老若男女は、やはりことごとく将兵とともに玉砕してもらいたい。外敵に侵された日本国土の最初の雛形として、虜囚となるより死をえらぶ日本人の教訓を、敵アメリカに示してもらいたい。」

「自分はサイパン陥落当時、上記のように考えていた」なんて戦後になってから言える人は皆無でしょう。その意味でも、この日記が当時の日本人の本心を吐露したものとして貴重だと考えるゆえんです。

同日
尊敬する先輩の家で、先輩とその奥さんと話をしています。
「ドイツも次第に後退してゆく。北仏に上陸した米英軍の橋頭堡は次第に拡大されてゆく。
『負けたら、死ねばいいんでしょう』
と奥さんがいう。死んだって追いつかない。
 いざという場合、日本人はみずから全滅するという。そうありたいものである。しかし、いざという場合、それが果たして出来るか否かは疑問である。」

「一億玉砕」を、市井の奥さんも少なくとも表面的には唱えていたということですね。

硫黄島についての記述を拾ってみます。
昭和20年2月21日
「敵ついに硫黄島に上陸を開始せり。
「この島、例のごとく喪わんか、帝都は文字通り四時敵の戦爆連合の乱舞にさらさるるのほかなし。」
3月21日
「硫黄島の残存将兵、17日最後の総攻撃を敢行、爾後通信絶ゆと大本営発表。近々にP51をはじめ敵の新たなる戦爆機にお目にかかることと相なるべし。」

以下、次号に続きます。
コメント
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