弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

白洲正子自伝

2006-09-10 00:01:39 | 趣味・読書
白洲正子著「白洲正子自伝」(新潮文庫)を読みました。
白洲正子自伝 (新潮文庫)
白洲 正子
新潮社

このアイテムの詳細を見る

白洲正子氏は、白洲次郎氏の夫人ですが、私は白洲正子氏はおろか、白州次郎氏のこともついこの間まで知りませんでした。
書店で何気なく購入した「風の男 白州次郎」を読んで、初めて白洲次郎氏の人となりを知った次第です。その興味の延長で、やはり「白洲正子自伝」を書店で見つけて購入しました。

白洲正子氏は、1910年東京生まれ、旧姓樺山正子といいます。父方の祖父が樺山資紀、母方の祖父が川村純義で、いずれも薩摩の人、明治の元勲、海軍の重鎮ということで共通する人です。

正子氏は、幼い頃は東京永田町の邸宅に住み、御殿場の広い別荘と行き来します。
学習院の幼稚園時代、無口で人見知り、気むずかし屋で友達のいない性格だったのに対し、学習院の小学校3年頃から変化し、今度はネアカになって止め処なく生意気になった、と本人が書いています。

14歳でアメリカに留学して寄宿学校に入り、アメリカでの大学入試にも合格しますが、金融恐慌の影響で日本に帰ることになります。「韋駄天お正」の異名で遊びほうけているとき、18歳で白洲次郎氏と出会い、突然に結婚します。

この本を読んでおもしろかったのは、大正から昭和初期にかけてのいわゆる上流社会の生活をかいま見ることができたことです。
今でいえば永田町の豪邸に住んでいるにもかかわらず、行き来するのが三井・三菱の人たちであったため、「自分のうちは貧乏だ」と思い込んでいたようです。
家にはタチさんという正子氏専属の養育係がいます。日露戦争の従軍看護婦で、夫に先立たれて樺山家に入っていました。学習院には「供待ち部屋」があり、お供の人は生徒が学校にいる間、その部屋で待っていたそうです。タチさんも正子氏のお供として学校に付き添います。
一度は再婚して樺山家を離れるものの、正子氏が結婚した頃にタチさんは夫を亡くし、白洲家に舞い戻ります。以来、タチさんが死ぬまで、正子氏は「主婦」の経験を一度もしたことがない、という生活です。
正子氏は、「タチさんのような女性がいたので、たださえ甘ったれの私がよけい甘ったれになったことは否めない。一人の人間が、私だけのために一生を捧げてくれたことを思うと、感謝するというより空恐ろしい心地になる」と書いています。

戦後は、文化人との付き合い、古美術や日本文化の理解者、文筆家として活躍し、98年に亡くなりました。

ところで、「風の男 白洲次郎」では、昭和15年に次郎氏は日米戦争の開始・敗戦・食糧危機を予想し、鶴川村に引きこもったと書かれていますが、正子氏の書籍によると、確かに昭和15年に鶴川の土地を購入したが、実際に引っ越したのは昭和17年、ドゥーリットルの東京初爆撃(多分)を目撃した後のようです。
ちょうど小学生のご長男が大塚の附属(東京高等師範の附属小学校)に通っており、その関係で東京に住み続けていたようです。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする