弁理士の日々

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日本国憲法制定と吉田茂

2006-09-03 00:17:03 | 歴史・社会
ハル・ノートで吉田茂の「回想十年」を読み返し、風の男 白州次郎で日本国憲法制定時のいきさつに触れました。
そこで、吉田茂「回想十年」(中公文庫)を再度紐解き、日本国憲法制定時の状況を追ってみます。
回想十年〈1〉
吉田 茂
中央公論社

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昭和20年の終戦後、幣原内閣の時代、マッカーサーから憲法改正について示唆を受け、内閣で憲法改正について審議が行われます。しかし、日本政府が検討している憲法改正は、明治憲法の一部改正にとどまります。このような状況にマッカーサーは業を煮やし、総司令部から憲法改正案を提案することになります。
憲法改正案は、総司令部の民政局において約1週間で作成されたとのことです。

昭和21年2月13日、憲法の総司令部案が日本政府に手交されます。英文です。日本側は吉田外相、松本博士、それに終戦連絡事務局次長をしていた白州次郎氏です。総司令部側はホイットニー民政局長、ケーディス大佐その他でした。

総司令部案の内容は、まず「天皇は国のシムボルとする」とあり、吉田外相は「これはとんでもないものを寄こしたものだ」と思います。政府としては、これを改正案の基礎として採り上げることを躊躇し、総司令部との間に交渉をはじめますが、総司令部の態度はすこぶる強硬です。
本の編集者註によると、マッカーサーから民政局長に指示したメモでは"Emperor is at the head of the State"であり、これは国の元首を意味するが、その後民政局の検討を経て提示された案ではシムボルになっていた、ということです。

2月21日に幣原総理がマッカーサー元帥を訪問し、意向を直接確かめます。
それによると、マッカーサーの意向は「何とか天皇の安泰を図りたいと念願している。しかし極東委員会の日本に対する空気は、想像も及ばぬほど不愉快なものであり、殊にソ連と豪州は極度に日本の復讐を恐れているらしい」ということで、天皇制を維持するためには総司令部案でできるだけ早く憲法改正すべきである、ということでした。

そして、昭和21年3月6日、「憲法改正草案要綱」が発表されます。
吉田茂氏は本の中で
「事実、次に述べる憲法改正要綱の発表は、政府として十分納得し満足すべきものとしてなされたわけではなかった。端的にいって、憲法改正の要請に応じた方が、対局上有利なりと、わが政府において判断したのである。当時の連合国との関係において、わが国として当面の急務は、講和条約を締結し、独立、主権を回復することであり、これがためには、一日も早く民主国家、平和国家たるの実を内外に表明し、その信頼を獲得する必要があったのである。もとより憲法改正は大事なことではあるが、右のような客観情勢の下において、立法技術的な面などに、いつまでもこだわっているのは、策を得たものにあらず、その大綱において差し支えないならば、改正案を取り纏めるがよいというのが、当局者の心事だったのである。」と述べています。

そして新憲法は昭和21年11月3日に公布、翌22年5月3日に発効します。
その間、昭和21年5月には吉田内閣が発足していました。

国際条約によると、他国に占領されている間は、占領国から憲法改正を要求されても、それを拒否できるということです。確か不戦条約(パリ条約、ケロッグ・ブリアン条約)に依ったと思います。
その意味では日本政府は総司令部の憲法改正要求を拒否できたはずですが、拒否せずにほとんど総司令部案のままで憲法を成立させたのは、上記のようにその方が日本にとって得になると考えたからでしょう。
改正論議の途中でも、総司令部は「とにかく、一応実施して成績を見ることにしてはどうか。日本側諸君は旧憲法の頭で考えるから、とかく異存があるのかもしれぬが、実施してみれば、案外うまくゆくということもある。やってみて、どうしても不都合だというならば、適当の時機に再検討し、必要ならば改めればよいではないか」と言っていたそうです。

以前、憲法前文について、英語原文と日本語との対比を行いました()。このときもコメントしたように、少なくとも憲法前文については、総司令部案の英文をただ直訳しただけ、というのが真相だと思います。

なお、「極東委員会」についてデジタル大辞泉で調べると、
「日本を占領管理するため、1945年12月ワシントンに設けられた連合国の最高政策決定機関。拒否権をもつ米国・英国・ソ連・中国ほか11か国で構成。対日講和条約の発効とともに自然消滅。」とあります。
コメント
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