弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

小諸城訪問

2024-08-24 11:59:06 | 趣味・読書
前号の龍岡城五稜郭訪問の翌日、小諸城と上田城を訪問しました。まずは小諸城訪問の記録です。

小諸というと、島崎藤村の
『小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(いうし)悲しむ
 ・・・ 』
が真っ先に思い浮かびます。そう、「小諸といえば小諸城」です。

小諸城は、戦国時代に武田信玄の軍師・山本勘助により大城へと整備され、仙谷秀久により本格的な城と城下町の整備がすすめられました。
天然の田切地形を利用した全国的にも非常に珍しい「穴城」で、城郭部が城下町よりも低い土地に位置します。


大手門(北から)
大手門は、小諸城の正門であり、慶長17年(1612)に藩主仙谷秀久が小諸城を築いた時代の建物です。日本の城郭建築の中でも初期の代表的な城門、とあります。

大手門は、城の東の端にあります。大手門よりも東側が城下町、小諸城は大手門から西に配置され、西の端近くに本丸と天守台、さらにその西に千曲川です。そのような地形上、小諸城は城下町よりも標高が低く、さらに大手門から天守台に向けて標高が下がっていきます。このような配置の城を「穴城」と呼ぶようです。

江戸時代前期の小諸城(上が東)


小諸城概略図(上が南)

さて、しなの鉄道の小諸駅を出て、線路下の通路をくぐると三の門に至ります。
三の門は、二層の城門で、1615年ころ仙谷秀久により建立され、大洪水で流出したが再建されました。

三の門(三の丸、大手門側から)


三の門(二の丸側から)

三の門の先が二の丸です。
最も早く城(白鶴城)が設けられた場所で、仙谷秀久の時館が構えられ、1600年関ヶ原合戦に向かう徳川秀忠が中山道を西下した際に宿所に当てられたといわれます。案内板には「上田合戦時の徳川本陣跡」とありました。上田合戦については上田城のところで述べることにしましょう。

二の丸跡
上田合戦時の徳川本陣跡


南の丸跡



三の門、二の丸、南の丸と西に向かい、本丸跡に到達します。本丸跡は懐古神社になっています。

懐古神社
小諸城本丸跡

本丸の北西端に天守台があります。
本丸にはかつて敷地いっぱいに本丸御殿があり、その西端の天守台には金箔瓦葺きで三層の天守閣がそびえていたといわれます。

天守台跡(南から)


天守台跡(南から)

本丸の西の端は、台地の上に本丸が存在するのではなく、本丸とその西側を区切る高い塀のような石垣が配置されています。

天守台から懐古神社へ向かう城壁(左側が本丸側)


天守台(南西から)


天守台(北西から)

本丸の北に藤村記念館があります。外観だけ撮しておきました。

藤村記念館

三の門に帰ってきました。お昼の時間です。小諸駅の観光案内所で食事処について教えてもらっています。この近くだとやはりお蕎麦で、草笛、そば蔵丁子庵、笊蕎麦 刻などを教えてもらいました。三の門の近くにある草笛を選びました。しかしすごい行列ができています。時間はたっぷりあるので、ここで待つことにしました。


お店のすぐ近くの公園です。「佐久地域のカラマツを使用しています」と表示されています。この地でカラマツというと、
『からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。』(北原白秋 )
を思い出します。この詩は軽井沢を描いたらしいですが、ここ小諸も地続きです。

公園にはSLも展示されています。市などによると、この機関車は1938(昭和13)年に旧国鉄の小海線(小諸―小淵沢)で営業運転を開始したとあります。

SL(C56)

しばらく待って、草笛に入りました。藤村そばというメニューがあったので、それを頼みました。

藤村そば


藤村そば

袋にはくるみおはぎと書かれていますが、買ったのはごまおはぎです。

ごまおはぎ

食事が終了し、次の上田駅まで移動する列車の発車時刻が迫っています。駆け足で大手門を見て回ることにしました。

大手門(南から)

こうして、小諸城訪問が終わりました。

天文23年(1554)、佐久地方の諸城は甲斐の武田信玄の手中に落ちました。信玄は重臣・山本勘助らに縄張りさせて城郭を整備、総合的な大城としたのが小諸城の原型になったと伝わっています。武田氏滅亡後は織田信長の領国となり、本能寺の変の後は北条氏と徳川氏の争奪戦ののち、家康の領有となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小田原攻めの軍功によって再起を実現した仙谷秀久が5万石で小諸に封ぜられます。秀久は城の大改修と城下町の整備を行い、城を完成させました。江戸幕府が開かれると、秀久は小諸藩初代藩主となり、城下や街道、宿場の整備に力を注ぎました。
仙谷家は、元和8年(1622)上田藩に移封され、その後は城主がめまぐるしく代わりました。
元禄15年(1702)から版籍奉還(明治2年(1869))までの170年間は牧野氏が10代にわたって居城としました。
小諸の城下町は秀久によって整備されました。
江戸時代には、小諸宿は江戸と加賀百万石を結んだ北国街道の宿場町として栄えました。

こうしてみると、小諸城および小諸の町並みは、ほとんど仙谷秀久によって形作られているようです。

しかし現代の小諸は、新幹線の路線から外れ、鉄道は信越本線ではなくしなの鉄道に格下げされ、取り残された町になっているようです。残念なことです。

以下次号
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