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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

和歌山城訪問

2025-02-09 17:43:29 | 趣味・読書
前報の大阪城に続き、和歌山城訪問記です。
大阪城訪問の後、電車で和歌山市に移動し、和歌山駅前のホテルで一泊しました。
天気予報では、この土日の2日間は雨の予報でした。大阪城も和歌山城も雨の中の訪問を覚悟していました。しかし実際は、土曜は大阪城の訪問と和歌山市への移動が完了してから雨が降り出し、日曜は朝起きたときには雨が止んでいました。なんというラッキーでしょう。
和歌山駅前のバス乗り場の2番、3番乗り場からのバスが、和歌山城を経由します。バスの和歌山城前停留所は、城の北東端に位置しています。

③天守閣 ⑧大天守と右に⑪小天守 ⑫本丸跡から


案内図

城の北東端で、お堀を①一の橋で渡り、②大手門に至ります。

①一の橋と②大手門

①一の橋から西の⑰北堀を見たのが下写真です。

①一の橋から⑰北堀

②大手門を城内側から見たのが下写真です。高麗門形式ですね。門の向こうに①一の橋が見えます。

②大手門

大手口の枡形は、北端の②大手門から南端(⑯)まで細長い長方形です。

②大手門からの枡形(⑯)(A:花崗斑岩の切り込み接ぎ)

⑯の位置から西に進みます。⑰裏坂登り口から南方向に③天守閣を見ることができます(下写真)。⑰裏坂登り口から③天守閣までは大きな標高差であることがわかります。

③天守閣 ⑰裏坂登り口から

⑤御橋廊下付近から③天守閣を見上げると、下写真のように、③天守閣が単純構造ではないことがわかります。③天守閣は、⑧大天守、⑪小天守、⑩乾櫓、⑨二の門櫓を四隅に備えた回廊形式なのです。⑤御橋廊下付近から見た下写真では、左に⑧大天守と⑪小天守、右に⑩乾櫓を確認できます。

③天守閣 左に⑧大天守と⑪小天守、右に⑩乾櫓 ⑤御橋廊下付近から

④二の丸跡とその西の西の丸跡の間の西堀に、⑤御橋廊下がかかっています。

⑤御橋廊下 左は西の丸跡、右は二の丸跡
⑤御橋廊下は、藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋です。藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていました。
二の丸から御橋廊下を渡ると、そこは西の丸で、⑥紅葉渓公園があります。

⑥紅葉渓公園

⑱裏坂登り口から裏坂の石段を登り、③天守閣に至ります。
③天守閣は、案内図にあるように、⑧大天守、⑪小天守、⑩乾櫓、⑨二の門櫓を四隅に備え、それらを多門櫓によってつなげた連立式天守となっています。1935年に国宝に指定されましたが戦火で焼失し、1958年に再建されました。

⑦天守二の門とその左に二の門櫓(B:結晶片岩の野面済みの石垣)
⑦天守二の門から入ると、中庭を経由して、⑧大天守に至ります。
⑧大天守の展望台から西の天守閣の全体を見たのが下の写真です。左は⑦天守二の門と⑨二の門櫓、右は⑩乾櫓で、それぞれが多門櫓で結ばれています。

⑧大天守から 左は⑦天守二の門と⑨二の門櫓 右は⑩乾櫓
上の写真、遠方に紀ノ川とその先の海を見ることができます。また、写真の右上の端に工場が見えます。製鉄会社出身の私には、これが製鉄所であることがわかります。右端の2つの高い構築物が2基の高炉です。高炉の左にある茶色っぽく高くて横広の建物は転炉工場です。遠方の煙突は焼結工場の煙突でしょう。日本製鉄(旧住金)の和歌山製鉄所であることがわかります。

⑧大天守展望台から北方を見ると、すぐ近くに⑪小天守の屋根、その先に⑤御橋廊下を見ることができます。

⑧大天守から ⑪小天守と⑤御橋廊下


⑧大天守から ⑫本丸跡
⑧大天守の東方には⑫本丸跡が見えます(上写真)。この⑫本丸跡から③天守閣を見たのが下写真です。⑧大天守とその右に⑪小天守です。

③天守閣 ⑧大天守と右に⑪小天守 ⑫本丸跡から

⑧大天守への入城は、天守閣回廊の中庭を経由して入りました。大天守からの退出は、天守閣回廊の内部を回って退出します。

③天守閣から麓への下りは表坂経由としました。⑬高石垣の下を経て、⑭岡口門に至ります。

⑬高石垣

⑭岡口門は、門の上に白壁の櫓を載せている江戸時代初期に建てられた門で、国の重要文化財に指定されています。

⑭岡口門

⑭岡口門を出て振り返ると、⑭岡口門の後方に③天守閣を見ることができます。

⑭岡口門と③天守閣

⑭岡口門からは、⑮東堀の東側に沿って北に向かいます。途中、③天守閣を見上げることができます(下写真)。

③天守閣 東 ⑮東堀の外から

こうして、和歌山城訪問を終了しました。バスで和歌山駅に戻り、和歌山駅から新大阪まではJR特急、そして新幹線に乗り継ぎ、東京に戻りました。

《和歌山城来歴》
以上紹介したように、和歌山城は立派なお城でした。それというのも、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城であったことが大きいでしょう。
1585年、羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて築城させたのが始まりです。築城を担当した家臣の1人がのちに築城の名人といわれた藤堂高虎です。
関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が入城すると、黒板張りの連立式天守を建てました。
1619年、徳川家康の10男頼宣が入城し、55万5千石の御三家の1つの紀州徳川家が成立、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。
城のシンボルである連立式天守は、1798年に黒板張りから白壁に外観が一新されますが、1846年に落雷で焼失。再建された2代目天守も1945年に空襲で再び消失。現在の天守は1958年に鉄筋コンクリート造りで再建された3代目です。

1585年築城以降、石垣は、城主が変わるごとに石材や工法が変遷しています。「結晶片岩による野面済み」の天守台石垣が最も古く、「砂岩の打ち込み接ぎ」、「花崗斑岩の切り込み接ぎ」を見ることができます。
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