弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

シャーロットタウンとオーウェルコーナー歴史村

2016-08-05 22:08:00 | 趣味・読書
プリンスエドワード島滞在2日目、昨日の赤毛のアンの家に続き、シャーロットタウン近郊(東方向)のオーウェルコーナー歴史村を訪問します。

まずは歴史村の説明です。日本語の説明を受け取ったので、その中からかいつまんで説明します。
オーウェル村は、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきました。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べればより近代的な生活ができるようになりましたが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていたそうです。

最初にある建物が、下の写真のプリンスエドワード島農業歴博物館です。受付を兼ねています。
 
建物の中には、昔使っていたのだろう農機具が所狭しと並べられています。
  
下のトラクター、McCormik-Deeringと書かれています。50年ぐらい昔、大学生の頃、北海道の牧場に短期滞在したことがありました。そのときその牧場で使っていた大型トラクターに、"International","McCormik"との表記がありました。世界最大の農機具メーカーであるアメリカのインターナショナルハーベスターのトラクターであることを後から知りました。
こちらによると、
『インターナショナル・ハーベスター
アメリカのトラック,農業機械,建設機械の大手メーカー。農業機械,建設機械では世界最大級。本社シカゴ。略称IH。1902年,当時アメリカ最大の農機具メーカー,マコーミック・ハーベスティング・マシーン社,第2位のディアーリング社など大手5社が合併し,インターナショナル・ハーベスター社の名でニュージャージー州に設立されたことに始まる。』とある。博物館に展示されていた下のトラクターは、1902年の合併前の製品でしょうか。
 

その先に進むと、右側に学校(壁が茶色)が見え、その向こうに公会堂(壁が白)が見えててます(下写真)。
 
説明によると、オーウェル学校は、1895年に開校し、小学1年から高校1年の過程までを教える学校でした。
学校に入ってみます。
 
建物全体で一つの教室となっています(上写真)。
教卓には石盤が置かれ(左下写真)、生徒の机には無数の彫り物が残っています(右下写真)。生徒の机中央の円い穴は、インク壺を入れる穴のようです。
  

続いて公会堂です。最初の公会堂は1950年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられたものだといいます。この公会堂では伝統的な催しが現在でも行われているといいます。
公会堂 外から                               内部
  
公会堂の正面壇上にはアップライトピアノが置いてあり、蓋が開いて弾ける状態でした。ピアノの前に張り紙がしてあり、「このピアノはおもちゃではないのでめちゃくちゃに弾いてはいけない。ただし、うまく弾けるのなら弾いても良い。」といった趣旨のことが書いてあったと思います。「私は弾いて良い人に該当する」と勝手に解釈しました。そして、徐にトロイメライの冒頭を弾いたのでした。聞いていた人は一人もいませんでしたが・・・。

クラークストア(雑貨屋)
  
説明書きによると、クラークストアは、1856年にアイルランドから移住してきたクラーク京大が、オーウェルに移って開いたジェネラルストア(雑貨屋)ということです。左上の写真はその外観、右上は1階の奥にある部屋(クラーク家の家屋)です。
入口から入ったところは雑貨屋の売り場でしょうか(下の2枚の写真)。
  

鍛冶屋
  
クラークストアの近くには、鍛冶屋の建物があります(左上写真)。建物の中に入ると、おじさんが一人、鍛冶のために炉で火をおこし、鉄製品の加工を見せてくれました(右上写真)。

ここオーウェルコーナーは、20世紀の初めまでは活気ある村でしたが、島の活動の中心が田舎から徐々に大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していきました。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されたそうです。

ガイドブック(地球の歩き方2014~15)を見ると、プリンスエドワード島の地図上にこのオーウェルコーナー歴史村の所在が描かれているものの、歴史村を紹介する記事はどこにも記載されていません。しかし、こうして訪れてみると、はるばる日本からここプリンスエドワード島を観光で訪問するのなら、見落としてはいけない場所と思います。
最大の目的地であったキャベンディッシュ(赤毛のアンの家)は、人工的な施設であって観光地化が進んでいました。それに対してこの歴史村は、実在した村が現存した建物とともにそのまま保存・公開されているのであって、この島の昔(赤毛のアンの舞台だった頃)を最も良好に再現していると思った次第です。

シャーロットタウンに戻り、ちょっとだけシャーロットタウンの街中を巡ってきました。
ここシャーロットタウンについて、ガイドブックでは以下のように紹介されています。
『シャーロットタウンは、島内観光の拠点となる町。赤毛のアンやモンゴメリに関連したスポットをめぐるツアーもここから出発する。町の名前は、イギリスがフランスに変わって覇権を握った1763年に、時のイギリス国王ジョージ3世の妃シャーロットにちなんでつけられた。1864年にイギリス系の植民地から代表者が集まり、カナダ連邦に向けた会議が初めて行われた「カナダ連邦発祥の地」としても知られている。』

セントダンスタンズ大聖堂
 

祭壇(最後の晩餐)                           パイプオルガン
  

大聖堂前の銅像
 
二人の男性が樽をはさんでなにやら議論しています。二人とも名前はジョン・ハミルトン・グレイJohn Hamilton Grayというようです。同姓同名です。
右のグレイは、プリンスエドワード島の政治家、左のグレイは、ニューブランズウィックの政治家らしいです。
二人は、1864年9月、シャーロットタウン・コンフェレンスで顔を合わせたのでしょうか。

プロビンス・ハウス
 
1847年に建築家アイザック・スミスによって建てられた州議事堂です。1864年にカナダ連邦を結成するため、初の各植民地代表者会議が行われました。
手前の兵士像の台座には、
1914-1918 1939-1945 KOREA1950-1953
と刻まれています。第1次、第2次大戦に加え、朝鮮戦争も、カナダの人たちにとっては大きな犠牲を強いられた戦争なのでしょう。

さらに、ガイドブックに記載されている教会を訪問しました。時間がなかったので前を素通りしただけですが。

セントポール教会
 

プロビンスハウスから、ビクトリア・ロウ(通り)を歩きました。南には、先ほど訪問したセントダンスタンズ大聖堂が、優美な姿を見せていました。
 
セントダンスタンズ大聖堂を見る

ビクトリア・ロウから、クイーンズ通りに抜けるあたりまで含め、赤れんがの趣のある建物が建ち並んでいます。

ビクトリア・ロウ
 

ビクトリアロウとクイーンズ通りの角にある「赤毛のアンの店」の店の前には、椅子に座った男性の像が置かれています。

赤毛のアンの店                 赤毛のアンの店前の塑像 Sir John A. Macdonald
  
ウィキによると、ジョン・アレグザンダー・マクドナルド(John Alexander Macdonald、1815年 - 1891年)は、カナダの初代および第3代首相とあります。
『マクドナルドは北米のイギリス植民地を「カナダ」に連合する働きかけを続け、1864年9月にプリンスエドワードアイランドのシャーロットタウンで東部のみで連立しようとしていた東部大西洋地域の植民地代表に提案(シャーロットタウン会議)。1864年10月にはケベック・シティにてカナダ連合への計画を採択(「ケベック会議」)。1866年までにはブランズウィック、ノバスコシアが連合に合意。ニューファンドランドとプリンスエドワードアイランドは反対したが、最終的に合意。これに基づきイギリス議会は英領北アメリカ法を制定し、連邦制をとるひとつの植民地「カナダ自治領(Dominion of Canada)」を形成することを決定した。この法律は「1867年カナダ憲法」として現在でも効力を持つ。ヴィクトリア女王は連邦形成の貢献者として、自治領成立の1867年7月1日に「聖マイケル・聖ジョージ勲章」をマクドナルドに授与した。また同年8月の選挙でマクドナルド率いる保守党が政権を取り、カナダの初代首相となった。』

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