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篠田英朗著「憲法学の病」9条の解釈

2019-08-05 22:29:43 | 歴史・社会
篠田英朗著「憲法学の病」新潮新書


前報で、上記書籍に関して新潮社の愛読者ページに投書した内容について報告しました。さらに、本書の内容について述べます。

まず本書では、日本国憲法9条1項と、1928年パリ不戦条約1条2条、国連憲章2条4項と対比しています。それぞれの条文を以下に掲載します。
《日本国憲法》
第九条
 1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

《戦争抛棄ニ関スル条約(パリ不戦条約、不戦条約、ケロッグ・ブリアン協定)》
公布: 1929年7月25日
第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

《国連憲章》
国際連合憲章は、国際機構に関する連合国会議の最終日の、1945年6月26日にサンフランシスコにおいて調印され、1945年10月24日に発効した。
第2条
この機構及びその加盟国は、第1条に掲げる目的を達成するに当っては、次の原則に従って行動しなければならない。
4.すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

本書でも述べているとおり、日本国憲法9条1項は、パリ不戦条約、国連憲章の条文のほとんどコピペであることが明らかです。
パリ不戦条約、国連憲章は、いずれも自衛権行使のための武力行使を否定していません。また国連憲章は、自衛権(個別的自衛権、集団的自衛権)と集団安全保障における武力行使を否定していません。
そうすると、日本国憲法9条1項が否定しているのは、国際法によって違法化された「国権の発動たる戦争」であり、「国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使」であって、自衛権(個別的自衛権、集団的自衛権)と集団安全保障における武力行使を否定していないのではないか、との解釈が成り立ちます。

以上までは、本書をすっきりと読み取ることができます。

次は9条2項です。
日本国憲法
第九条
 2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この9条2項の解釈について、本書は独特の論理を展開しています。

日本国憲法の英文については2種類あります。第1は、憲法草案として日本政府に提示されたGHQ草案であり、大2は、日本語憲法確定後にその英訳として作成された英文です。憲法の大部分において、第1の英文と第2の英文はほとんど同一です。
ところで、上記2項のうち、
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」
の英文を並べてみると、以下のようになります。
GHQ草案
"No army, navy, air forces, or other war potential will ever be authorized "
日本国憲法の英訳
"land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained."

「戦力」は英語原文では"war potential"です。この点を捉えて、本書では「2項で言う“戦力”は、1項で放棄された戦力に限定される(自衛権の行使としての戦力は含まれない)」と解釈しています。
ずいぶんと屁理屈だな、との印象です。
ところで、英文について言うと、GHQ草案のさらに前に、マッカーサーがGHQ民政局に示した「マッカーサーノート」があります。こちらの英文も調べようと検索していたら、以下のサイトに行き当たりました。
日本国憲法を原案(英文)から考える(内田芳邦)
ざっと読んだところでは、篠田著書の論理は、実際の憲法制定過程のいきさつからは大きく横道に逸れているようです。
そこで、篠田著書についてはこれ以上言及しないこととします。

内田著書では以下のように記載されています。
登場人物は以下の3人です。
連合軍総司令官(SCAP)マッカーサー元帥
GHQ(SCAP総司令部)民政局長ホイットニー准将
民政局次長ケーディス大佐
マッカーサーがホイットニーに「マーカーサーノート」を提示し、ケーディス大佐を中心とするスタッフが1週間で原案を作り上げました。
マッカーサーノートには、"Japan renounces it as an instrumentality for setting its disputes and even for preserving its own security."「日本は紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも、放棄する。」と書かれていました。
それに対してケーディスは「自己の安全を保持するための手段としてさえも」という部分を削除したのです。
ケーディスは1984年、駒澤大西教授の質問に「日本国憲法に『自己の安全を保持するための手段としての戦争放棄』まで書き込むのは、非現実的だと思い、削除したのです。どの国も『自己保存』の権利を持っています。日本国にも当然『自己保存』の権利として『自己の安全を保持するための手段としての戦争』は、認められると考えたのです」と答えています。マッカーサーはこの削除に異を唱えませんでした。
この削除の顛末を考慮すれば、「憲法立案者は、自衛権の行使としての戦力の保持を認めていた」ことが明らかです。

「陸海空軍その他の戦力(other war potential)」
日本の法律用語では、「その他の」と「の」が入るか入らないかで意味が異なります。9条2項のように「の」が入った場合、「陸海空軍」は「戦力」の例示となります。
ところが、ケーディスが語ったところでは、「other war potential を、政府の造兵站あるいは戦争を遂行するときに使用されうる軍需工場のための施設という意味で加えたのです」ということです。
篠田著書での主張(ここでは述べない)と、憲法立案者の意図とは全く異なっていることが明らかです。

次に2項の「国の交戦権は、これを認めない。」について
「交戦権(the right(s) of belligerency)」の意味内容が議論になっています。
内田著書によると、ケーディスと西教授の問答では、
『西教授「the rights of belligerency をどのように理解されましたか」
ケーディス「正直に言って、私には解りませんでした。ですから、もし、芦田氏がその文言の修正や削除を提示していたら応じていたことでしょう」 (『駒澤大学法学部研究紀要第62号』寄稿論文「憲法9条の成立経緯)』

びっくり仰天です。
これでは、『9条2項で規定する「交戦権」とは何か』について真面目に検討する気が失せてしまいます。
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1 コメント

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東京外国語大学教授 (篠田英朗)
2019-08-09 11:02:10
「other war potential を、政府の造兵站あるいは戦争を遂行するときに使用されうる軍需工場のための施設という意味で加えたのです」は、私の主張と同じです。「戦争(war as a sovereign right of the nation)」を目的にしているかどうかが基準で、兵力の絶対量などが基準ではない、と私は主張しています。また交戦権についてケーディスが理解していなかったことは、拙著でもふれています。「war potential」を加えたのがケーディスらで、「right of belligerency」を提示したのがマッカーサーでそれはそのまま残りました。

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