弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ベルギーで見た第一次・第二次大戦の記憶

2014-07-08 21:50:17 | Weblog
今回のベルギー・フランス旅行から、ベルギーで見た第一次大戦と第二次大戦の記憶についてまとめておきます。

《第一次大戦「フランダースの野で」と太平洋戦争沖縄戦》
ベルギーの首都、ブリュッセルから西方向に電車で1時間ほどいったところに、ブルージュという街があります。ブリュッセル滞在中、6月22日に日帰りでブルージュを訪問しました。

街の中心はマルクト広場です。

マルクト広場


マルクト広場の鐘楼

おみやげを買い求めるため、マルクト広場近くのお店に入りました。そのうちの1店で、おもしろいTシャツを見つけました(下写真)。
  
"FLANDERS FIELDS 2014-2018 The Great War Century"と書かれたTシャツです。描かれている兵士のイメージに見覚えがあります。
私の実家には、私が小学校の頃から、ロバート・シャーロッド著「記録写真 太平洋戦争史〈下〉」があり、小さい頃から繰り返し眺めていました。この写真集の中に、上のTシャツの写真が掲載されていたのです。現在のアマゾンには「記録写真 太平洋戦争〈下〉 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)」しか載っていませんが。

現在我が家に保管しているシャーロッド著「記録写真 太平洋戦争史〈下〉」の8ページに掲載された写真が以下の写真です。Tシャツと全く同じであることがわかります。
  
しかし、どうしたことか、この本にはこの写真の出典が全く記載されていません。全巻を通じてこの写真のみですが。
そこで、ネットで検索してみました。なかなか見つかりません。私はこの写真を「あの有名な写真」と記憶していたのですが、世の中では全く無名の写真であるようです。さんざん探した結果、「米従軍記者の沖縄戦日記」というサイトを見つけることができました。
シャーロッド著「硫黄島 (1951年)」に掲載されているというのです。
何ということでしょう。この本を私は所有しているのです。10年以上前、この本を古本で購入して読み始めたのですが、硫黄島の海岸に上陸して傷つき死んでいく米軍兵士の描写があまりにも凄惨だったため、辛くて読み進めることができず、そのままになっていたのです。今回紐解いてみるとその写真はありました。
  
写真は、「沖縄の戦い」の一連の中にありました。「日本軍の十字砲火を冒して『死の谷』を飛び越えて突撃する海兵。」(いずれもアメリカ海兵隊戦闘写真班撮影)とあります。沖縄戦で撮影した写真であるようです。

ところで、Tシャツにある"FLANDERS FIELDS"とは、第一次大戦に軍医として従軍したカナダ人の医師ジョン・マクレーが、ベルギーのフランドル地方イーペルにおいて、戦死したアレクシス・ヘルマー中尉を埋葬するときにしたためた一編の詩であるそうです。詳しくはこちら。ガイドブックによると、ベルギーの西部にあるイーペルには、イン・フランダース・フィールズ博物館というのがあります。「イーペルの町が第一次大戦中徹底的に破壊された様子を写した写真などが展示されている」とあります。ブルージュからイーペルまでは直線距離で60キロくらいのところにあります。
In Flanders Fields(フランダースの野に)と真っ赤なケシの花が関係することはわかりました。Tシャツが3枚並んだ写真の左側のシャツに描かれた花が、ケシの花なのでしょう。しかし、中央のTシャツに描かれた疾走する兵士は第二次大戦の沖縄戦における米兵を写した写真からとっているのです。

《ブリュッセル王立軍事歴史博物館》
ブリュッセルの中心であるグラン・ブラスから東へ3キロほどのところに、サンカトネール公園という大きな公園があり、その東の端に凱旋門が建っています。凱旋門の北側に王立軍事歴史博物館があります。ガイドブックには「中世から第2次大戦までの軍服、吹き、資料の展示がある。スピットファイヤー(1943年)、モスキート(1945年)などの軍用機のコレクションは見ごたえがある。」と記載されていました。今回時間があったので、その博物館を訪ねることにしました。

メトロをシューマン駅で降り、サンカトネール公園を突っ切ると、凱旋門に到達します。

凱旋門

凱旋門をくぐって左側に、軍事歴史博物館の入口があります。
  
軍事歴史博物館入口              入口を入ったところの展示

時間もあまりないので、お目当ての航空機ゾーンだけを見ることにしました。
  
航空機ゾーンの全体                    スカイカフェ

広い展示場ですが(左上写真)、ものすごく多数の航空機が所狭しと置いてあります。ジェット機では、F104, F84G, Gloster Meteor NF II, Gloster Meteor MK VII などが並んでいます。
そしてお目当てのスピットファイヤーとモスキートです。
  
Supermarine Spitfire MK XIV

  
DH Mosquito MK 30

私がモスキートに興味を持ったのは、第二次世界大戦時、連合国によるドイツ・ドレスデンの大空襲において、英空軍のモスキートが登場したからです。「ドレスデン逍遙」~ドレスデン大空襲で記事にしました。川口マーン惠美著「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」についてです。
ドレスデン爆撃は1945年2月13日です。
空襲の日、イギリス空軍からは陽動作戦を含めて合計1180機の航空機が投入されました。このちう772機の四発ランカスター爆撃機と9機の木造機モスキートがドレスデン攻撃に充てられました。
まず先導のランカスター機が照明弾を投下して街を照らし出し、2分後に昭明部隊のモスキート8機が到着します。この昭明部隊が地表に赤い標示弾を落として正確な投弾の位置を知らせるのです。攻撃目標には、オペラ座、ツヴィンガー宮殿、ドレスデン城、ブリュールのテラス、聖母教会、市役所、十字架教会などといった壮麗なバロック建築と旧市街がすっぽりと収まっていました。
午後10時30分、第1陣の243機のランカスター爆撃機が到着して爆撃を開始します。
爆撃の方法として、まず、高性能爆弾を投下し、建物の屋根を破壊して蓋を開けた状態にしておき、そこへ焼夷弾を落とします。すると火の手はあっという間に広がり、火の塊ができ、それが急激に上昇していきます。そのため地表ではすごい真空状態が発生して周囲の空気を吸い込み始め、ここに火焔嵐(ファイアストーム)が起きるのです。
3時間後に第2波として529機のランカスターが到着します。しかしドレスデンは予想以上の火勢で燃えていたので、爆撃隊は作戦を変更して爆撃地域を拡大しました。

この2度の空襲で、ドレスデンには1477トンの爆弾と1081トンの焼夷弾が投下されました。死者の数は未だに不明ですが、3万5千人が妥当だろう、と川口さんは述べます。

この著書の中で、「木造機モスキート」と紹介されています。多分、木造機ならレーダーに察知されにくいでしょうから、それで使われたのだろうと推察しました。現代でいうステルス機です。第二次大戦で実用に耐える木造機とはどんな飛行機だろう、と興味を引かれたのです。

しかし、今回見たモスキート(上の写真)は、とても木造機には見えませんでした。おかしいなと思って帰国後に以下の写真ページ(ウィキペディア)で調べました。
 Charles E. Brown、De Havilland Mosquito B、No. 571 Squadron RAF
モスキートは木造に間違いないようです。展示品はMK 30とあり、ウィキペディアの記述からすると爆撃機ではなく戦闘機のようです。
しかし、当時の最新鋭戦闘機は超々ジュラルミンで作られていましたから、それと互角に戦える戦闘機や爆撃機として、木造の飛行機が使えるとはとても信じられません。信じられないことが実際に起きていたのでしょう。

《ブリュッセル最高裁判所前のプラール広場にあるモニュメント》
ブリュッセル市街の南にある高台に、最高裁判所が建っています。外から見ても立派な建物です(左下写真)。正面から中に入ると、中も立派な吹き抜けホールです(右下写真)
  
最高裁判所正面                最高裁判所内部

最高裁判所の前の広場がプラール広場です。
広場の北西の端には高い塔が建っています(下写真)。遠くから写真を写しただけですが、台座には「1914 1918」「1940 1945」とあります。第一次大戦、第二次大戦の期間であり、両大戦のモニュメントであることは間違いありません。
 

もう一つ。下の写真です。台座には「1914 1918」とあり、こちらは第一次大戦のみを記念したもののようです
 
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