大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年07月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1671> カヤ(榧)の実拾いと 「ポケモンGO」

         ポケモンのGOのゲームに榧の実を拾ひし少年時代の夢中

 以前述べたかも知れないが、私が子供のころ、実家の近くにあるお寺の境内の一角に、カヤ(榧)の巨樹が一本聳え立っていた。根元の幹回りは三メートル以上、高さは二十メートル以上あった。樹齢は定かでなかったが、古木に違いなく、威風堂々として集落のシンボル的存在で、根元には祠があった。どういう理由によっていつごろ伐り倒されたのか、今はその姿を見ることは出来ない。その巨樹は雌株だったので、沢山の実を生らせ、夏休みのころになると、その実は緑色の厚手の皮を被ったまま地上に落ちるので、それを近くの子供たちはこぞって拾いに行った。

 枝が張っていたので、実はかなり広い範囲に落ち、斜面になった草叢にも及んだので探し甲斐があった。カヤの実拾いは、まだ夜が明けない間に出かけて行くのが常で、懐中電灯が欠かせなかった。夜中の間によく落ちるので、子供たちは先を争うように出かけたのである。ときに、遅れをとって実を探す友達の懐中電灯の明かりが樹影の下でちらちらしているのを見ると、先を越されたという気分になり、焦ったりしたものである。

                                                                                

 その実は皮を剥くと卵形に近い形の堅果が出て来る。実によっては皮が裂け気味になって落ちていることもあった。子供たちはその実を宝物のように持ち帰り、今日は何個拾ったと数え、夏休みの終わりにその数を集計して競い合った。実に楽しい遊びであったことを今でも思い出すが、このほど日本でも登場し、熱病のごとく爆発的に流行っているスマホ用アプリの「ポケモンGO」に殺到しているゲーマーたちをうかがいながら、子供のころにやっていたカヤの実拾いのことを改めて思い出した次第である。

 「ポケモンGO」のゲームは、スマホの画面を通して見られる現実の風景の中に突然ポケモンが現われ、それを捕獲するというもので、スマホを手にするゲーマーたちは歩き回ってポケモンのいる場所を探し、ポケモンの多く現われる場所にゲーマーたちが集まるという現象も起きる。中にはゲームに夢中になって立入禁止の場所に入ったり、歩行者の妨げになったり、交通事故を起こす御仁も現われるという具合である。

 これは、また、別の問題として考えなければならないが、「ポケモンGO」のゲームは私たちが子供のころ夢中になってやっていたカヤの実拾いに実によく似ているところがある。カヤの実は拾い集めてどうこうしたわけではなかったが、競い合うことで夏休みを楽しんだ。しかし、ポケモンとカヤの実の違いは、ポケモンがゲームの作成者によって作られて登場するバーチャル(幻想)であるのに対し、カヤの実はカヤの巨樹の賜物としてある自然の恵みそのものを意味するところがある。

  この違いは大きく、「ポケモンGO」では作成者側の思惑あるいは意志に乗せられている観が拭えず、私などは、その作成者に弄ばれているということしか見えて来ず、一種不思議な光景として目に映って来るところが気になる。私などは、ゲーマーたちがゲームに慣れて来るに従ってこれに気づき、何て無益なことをしていたのかと思うようになり、この流行り病のような「ポケモンGO」の現象はあまり長続きしないのではないかと見ている。 写真は鈴生りのカヤの実(左)とポケモンのゲームをするスマホ(テレビの映像による)。

 


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2016年07月25日 | 写詩・写歌・写俳

<1670> 自分ということについて

         何年かぶりに会ひたるその人の頬のこけたるほどの相貌

 この間、毎年やっている身体検査を受けたところ、身長が一センチほど低くなっていた。かかりつけの内科医で検査を受けた結果である。いつもの自動による計測器なので、機器による誤差はないはずであるから、私の身体の方が少々縮まったと考えるしかない。頭髪は年々薄くなり、体全体の筋肉も衰え、背骨が少なからず湾曲して来たかも知れない。しかし、まったく自覚がなく、これまで一度も身長が低くなったことを意識したことがないので、測定値を見て驚いた次第である。

 そう言えば、何かのきっかけで妻の姿が小さくなったと感じたことがある。加齢によるものだろうとそのときは思ったのであるが、その小さくなったという意識を自分に向けて考えることはして来なかった。それは普段自分というものを見ることなく過しているからにほかならないと今さらながら思うことではある。

                                                                 

 これは「灯台もと暗し」に同じで、身近なゆえにかえって気づかないということがある。また、日ごろから慣れていると、それが当たり前のようになって何も感じなくなるということがある。体臭は個々によって異なるものながら、誰もが大なり小なり持っている。この体臭は好ましいとは言い難く、強い体臭は嫌悪される。しかし、自分の体臭は意外にわからないということがある。

 ときに、接触した人から臭いと指摘され、ハッとさせられることがあったりする。私の枕は私の臭いがすると言われるが、こういうことは誰にも言えることではないだろうか。そして、自分には感じない質のものであろう。これに対し、自分にしかわからず、決して、ほかの人にはわからないということがある。

 最近、物忘れが酷くなり、加齢によるものと思っているが、本でも読む先から忘れているということがある。これなんかは自分しかわからないことで、ほかの人にはわからない類に当たる。これが極端に至れば、認知症が疑われたりして、ほかの人にも知られるところとはなる。このような状況では文章を書く場合にも影響が現われ、速く書けないということにも繋がって来る。

 こうした二つの側面を持つ自分というものを負って私たちは存在し、年を重ねるにつれてそれを負うことへの意識が増して来ているように思われる。言わば、他人に知られる拙さがある反面、自分を理解してもらえないという不満が自分という意識の中にはあって、その意識の中で、そのプラマイが絡み合う昨今ではあると思われたりする。 写真はイメージで、我が家の簡易体脂肪計。

 

 


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2016年07月24日 | 写詩・写歌・写俳

<1669> 大和寸景 「打ち上げ花火」

         遠花火 思ひ出色に 上がりけり

 第三十六回斑鳩商工祭りが二十三日(土)に大和川に近いいかるがホールや南中学校東駐車場などで開かれ、午後8時から約三十分にわたり恒例の打ち上げ花火があった。天気上々で、約五キロほど離れた法起寺の三重塔をシルエットにした構図の写真が撮りたくて出かけた。

                                

 催し会場は露店なども出てにぎわったに違いないが、法起寺周辺では私を含め三人の撮影者のみだった。遠花火とあって音よりも光の方が伝わる速さが速いので、それが如何にも遠い思い出の打ち上げ花火の情趣に重なり、冒頭の句を得たという次第である。写真は撮影位置と塔の距離がなく、画角的にインパクトのある写真にはならなかったが、何とか雰囲気は写せたような気がする。


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2016年07月23日 | 写詩・写歌・写俳

<1668> 米大統領選トランプ候補の指名受諾演説に思う

         オハイオは燃えしか語り尽くせしか根深き差別と格差の行方

 米大統領選の共和党候補ドナルド・トランプ氏の指名受諾演説の内容をうかがうに、これは世界的潮流の時代的現象を示しているのではないかということが思われる。それはどこまでも進むグローバル化の中で現われて来た個々の国における実体社会の不満のような声に連動して立ち上がった姿に見えるからである。トランプ氏曰く、移民に制限を加え、保護主義的貿易を推進し、軍隊を強化して対外に威圧をもって臨み、米国を第一に据えた政策に打って出るというものである。これは取りも直さず、グローバル化への対抗的内向きの精神性を持った政策と見て取れる。

 演説に見られるトランプ氏の考え方は、所謂、グローバル化に対して時を巻き戻すような白人の懐古主義的趣にあり、新聞の見出しにもなっているところをみると、大方の捉え方はグローバル化への不信感と懐疑がトランプ氏の姿勢に現われていると感じ取っていると察せられる。この傾向はトランプ氏の熱狂的支持者のみでなく、世界の今日的時代状況において揺れ動く国々に共通している面があると言え、トランプ氏の場合はその熱狂をうまく取り込んで選挙を戦っているところが見られるということであろう。

 ほかの例をあげてみると、英国のEU(欧州連合)離脱の動きがあり、ロシアの組織的に行なわれて来たドーピング違反の問題も然りで、我が国における憲法改変の動きも同じようなものである。思うに、これらはみな内向きの動向で、他者との協調、調和ではなく、自分さえよければという考え方の強くなっているのがうかがえる。こういう動向は、所謂、グローバル化の旗印にそぐわないものであって、この変化への動向はなお進み行くグローバル化への反動と捉えることが出来る。

                                                                 

 グローバル化の世界では、情報と資金力が大きくものを言う。そこには人材も必要だが、人材は資金の力によるところが大きいので、やはり、情報と資金力ということになるだろう。現在の米国はこの道筋を採って、グローバル化を推し進め、経済から金融に至る支配と調整をリードして来た。だが、近年伸長が著しい中国の存在が見られるようになり、その動向に米国の威力と誇りが傷つけられてきた。とともに、グローバル化の反面においては世界的な格差の顕現が認識されるところとなり、抑圧される国や人々の中に乱れが生じ、これが世界に反映し、今や趨勢のようになって世界の全体的問題となって来た。テロがよい例で、全世界に広がり、一般人の社会生活に恐怖心を抱かせるようになった。そして、このグローバル化の波に一番よく乗って大国の威力を発揮して来たのが中国で、トランプ氏の演説内容をして言えば、中国への対抗意識が大きいと、私には見て取れる。

 このグローバル化の問題に視点を合せれば、トランプ氏の掲げる政策のスローガンはグローバル化を推し進めて来たこれまでの米国のやり方に対する挑戦であり、対立する他党のみならず、候補指名を受けた共和党の陣営の中からも反対され、演説にブーイングが飛ぶという経緯になっているわけである。つまり、このブーイングはグローバル化を推し進める中で君臨して来た米国のこれまでのやり方を否定されることへの抵抗にほかならず、殊にグローバル化によって利潤を得て来た人々にはトランプイズムは我慢できないと言えるわけである。

 オバマ大統領はもっともグローバル化に努力し、それを利して来た大統領で、戦争を控え、海外に派兵していた兵士を撤退させて来た大統領として私などは国民から評価されて然るべきだと思っているのであるが、その反面、紛争国の乱れが助長され、皮肉にもテロを世界に拡散させた。トランプ候補はオバマ大統領とは真逆の国家運営観を持っていることが言えそうで、世界はその動向に注目しているのである。自由貿易協定のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)のことなどもそこにはある。

 要は、中国の台頭が著しいグローバル化のグローバルに対して米国という大国がその存在を維持拡大して行く方策の一つの現れとして大統領選における白人の懐古主義的発言のトランプ旋風となって現われ、今があるといってよい。そして、この現状はいよいよ止められないグローバル化への反動という世界の潮流にぴったり合って、トランプ氏の人気とその考えへの懸念が高低入り乱れ、ハリケーンの目玉のようになって渦巻いるわけである。

  そして、今一つ思われるのは、国内外における差別と格差の問題である。幾ら強い国になっても、差別と格差を解消する努力がなされない限り、理想的立派な国にはなり得ず、問題は噴出して来る。それは米国が一番苦手にしているところであり、課題でもあろう。言わずもがな、米国民には胸に手を当ててみれば、自ずとわかるはずである。なお、トランプ氏の資質並びにものの考え方については、また機会があれば、触れてみたいと思う。 写真はドナルド・トランプ氏とトランプ氏を大統領選の候補に指名した共和党大会(テレビの映像による)。

 


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2016年07月22日 | 写詩・写歌・写俳

<1667> 営 み

          旺盛に 命営む 夏の虫

 今日は大暑。暦のうえで一番暑いとされる日で、八月七日の立秋前日までが大暑の期間とされている。高原の草原は緑に溢れ、そこここに旺盛な虫たちの営みの姿が見られる。バッタの仲間によく出会うが、茅原では蛾の仲間のキハダカノコの交尾の様子が見受けられる。枯れ残ったススキの穂の先やアーチになったススキの葉の裏などにぶら下がって仲好くやっている。

                                                    

  その営みは天道さまの下で、臆することなく、大胆に、明るく風に揺られながら。それは結構長い間で、私が写真を撮り終えてからもなお続けられた。真夏の草原は旺盛ゆえにかえってもの憂く見えるところもあるが、命を燃やす虫たちにはかけがえのない季である。高原の草原に立つと、「天下の命に万歳を」と思われたりする。写真は蛾の一種、キハダカノコの交尾風景(七月二十一日、曽爾高原で)。

     軽やかに重き命の営みが風に揺れゐる高原の夏