<1671> カヤ(榧)の実拾いと 「ポケモンGO」
ポケモンのGOのゲームに榧の実を拾ひし少年時代の夢中
以前述べたかも知れないが、私が子供のころ、実家の近くにあるお寺の境内の一角に、カヤ(榧)の巨樹が一本聳え立っていた。根元の幹回りは三メートル以上、高さは二十メートル以上あった。樹齢は定かでなかったが、古木に違いなく、威風堂々として集落のシンボル的存在で、根元には祠があった。どういう理由によっていつごろ伐り倒されたのか、今はその姿を見ることは出来ない。その巨樹は雌株だったので、沢山の実を生らせ、夏休みのころになると、その実は緑色の厚手の皮を被ったまま地上に落ちるので、それを近くの子供たちはこぞって拾いに行った。
枝が張っていたので、実はかなり広い範囲に落ち、斜面になった草叢にも及んだので探し甲斐があった。カヤの実拾いは、まだ夜が明けない間に出かけて行くのが常で、懐中電灯が欠かせなかった。夜中の間によく落ちるので、子供たちは先を争うように出かけたのである。ときに、遅れをとって実を探す友達の懐中電灯の明かりが樹影の下でちらちらしているのを見ると、先を越されたという気分になり、焦ったりしたものである。
その実は皮を剥くと卵形に近い形の堅果が出て来る。実によっては皮が裂け気味になって落ちていることもあった。子供たちはその実を宝物のように持ち帰り、今日は何個拾ったと数え、夏休みの終わりにその数を集計して競い合った。実に楽しい遊びであったことを今でも思い出すが、このほど日本でも登場し、熱病のごとく爆発的に流行っているスマホ用アプリの「ポケモンGO」に殺到しているゲーマーたちをうかがいながら、子供のころにやっていたカヤの実拾いのことを改めて思い出した次第である。
「ポケモンGO」のゲームは、スマホの画面を通して見られる現実の風景の中に突然ポケモンが現われ、それを捕獲するというもので、スマホを手にするゲーマーたちは歩き回ってポケモンのいる場所を探し、ポケモンの多く現われる場所にゲーマーたちが集まるという現象も起きる。中にはゲームに夢中になって立入禁止の場所に入ったり、歩行者の妨げになったり、交通事故を起こす御仁も現われるという具合である。
これは、また、別の問題として考えなければならないが、「ポケモンGO」のゲームは私たちが子供のころ夢中になってやっていたカヤの実拾いに実によく似ているところがある。カヤの実は拾い集めてどうこうしたわけではなかったが、競い合うことで夏休みを楽しんだ。しかし、ポケモンとカヤの実の違いは、ポケモンがゲームの作成者によって作られて登場するバーチャル(幻想)であるのに対し、カヤの実はカヤの巨樹の賜物としてある自然の恵みそのものを意味するところがある。
この違いは大きく、「ポケモンGO」では作成者側の思惑あるいは意志に乗せられている観が拭えず、私などは、その作成者に弄ばれているということしか見えて来ず、一種不思議な光景として目に映って来るところが気になる。私などは、ゲーマーたちがゲームに慣れて来るに従ってこれに気づき、何て無益なことをしていたのかと思うようになり、この流行り病のような「ポケモンGO」の現象はあまり長続きしないのではないかと見ている。 写真は鈴生りのカヤの実(左)とポケモンのゲームをするスマホ(テレビの映像による)。