大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年07月08日 | 写詩・写歌・写俳

<1653> 虚像と実像

         やぶきりはやぶきりをして生きゐるを夏には夏の草叢の中

 テレビを見ていてときどき思う。出演者の実像と虚像について。ドラマなどに登場する俳優などは作中の人物になり切るわけであるから見ていてどうということはないのであるが、ほかの番組に登場する人物を見るときは、その人物のキャラクターに合せているところがある。軽い乗りを売りにしているお馬鹿キャラなどは、ある程度そのお馬鹿が演技だと見抜けるが、それが人気取りの演技であって本質ではないと、いつまでも続けるしんどさがあるのではないかと思えたりする。

 それが演技であれば、テレビの映像以外、即ち、日常の生活ではどうなのだろうかと思えたりする。普段の生活でもお馬鹿キャラで通しているのだろうか。仕事として割り切っているのならそれも一つの生き方で、映像の世界に生きて行く者のあるいは方法とも言えなくはないが、映像と普段の実生活における落差というようなものに悩みは生じないのだろうか。こういうことが思われて来たりする。

 テレビなどの放送番組ではどんな番組でもディレクタ―(番組責任者)が中心になって番組を構成し仕上げる。ディレクタ―はドラマに限らず、視聴者の受けを取るため演出(つまりはやらせ)も行なう。お馬鹿キャラなどもこの演出の中で番組を盛り上げる効果を狙って用いられることになる。そして、視聴者はその番組に乗せられる。このお馬鹿は、所謂、虚像と言ってよい。もちろん、お馬鹿キャラは一例で、テレビの番組というのはニュース等を除いて大半の内容は大なり小なり演出に寄りかかってあり、虚像をもって成り立っているところがうかがえる。

                                         

 そして、この似たり寄ったりの虚像というものを長年にわたって見せられて来た視聴者には詰まらないと思えて来たりするわけである。そして、視聴者にはもう少し実像を見せてくれという欲求が生じて来ることになる。NHKにブラタモリという番組があるが、タモリのキャラクターも番組の内容も実像に近く、新鮮に感じられる。さすがに人材のNHKだと思わせるが、こうした番組の発掘を視聴者は望んでいる。

 鶴瓶の家族に乾杯という番組も実像を地で行っているようでおもしろいが、偶然に出会ったとする登場人物を出演者に敢えて語らせる嘘っぽさがよくあって演出臭が感じられ、鼻につき、もっと素直なやり方はないのかと思えたりすることがある。演出(やらせ)というのは、その場凌ぎの刹那主義であって、これはご都合主義の何ものでもなく、安易に働く自己欺瞞ということが出来る。殊に虚像を実像にイメージさせる手法の拙劣さはやはり問われる。

 昨今の世上は虚像が実像で、実像が虚像というふうに混濁して何がなにやらわからないようなことになっている。今、参院選のただ中であるが、候補者の言葉一つ一つを聞いていてもこの演出に似た当選を目的にしたその場凌ぎのご都合主義がどうしても見えて来る。政治家一人一人が公約通りに政治に向うならば今のような政治状況には陥っていないだろう。このように考えてみると、実像が見えない虚像の世界が広がっている現状が思われて来る。

 冒頭の短歌はクサキリ(キリギリス)に実像を重ね、象徴させて詠んだつもりである。言わば、虚像に振り回されている現代人にクサキリ(キリギリス)の原始的生きざまの方が伸びやかで玲瓏としてあるようにも思えて来るところがある。夏を夏らしくというか、嘘をつかなくても生きて行ける世の中は無理なのだろうか。演出と言えば、聞こえはよいが、言わば、本当に見せかける嘘っぱちの方便に過ぎない。まあ、おもしろければ、それでいいのだろう。やはり、この世はカリカチュア(戯画)の世界なのかも知れない。 写真はヤブガラシの花にとまるキリギリスの仲間のヤブキリ。